日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

京都ずきな人も京都ぎらいな人もぜひ読んで頂きたい本。より京都がすきになり、より京都がきらいになります。

京都ぎらい(著者:井上章一)、朝日新書、2015年9月第1刷発行、2016年2月第9刷発行、

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発売当時、とても話題になった本です。京都についての本といえば、京都の歴史、伝統、さらには、それらに裏打ちされた、建築、工芸、料理などを至上なものとして紹介するスタンスが一般的ですが、この本はそれとは全く逆のスタンスの本です。

 

〇 京都市と京都は別物

 

多くの人にとって、「京都」という言葉は「京都市」という言葉を短く省略しただけ、つまり、地理的に同じエリアを指すと考えます。しかし、京都人にとっては、それは全く違うことであり、かつ、その区別は非常に重要です。

 

著者の井上氏は花園、嵯峨で生まれ育ち、自らは嵯峨の子として育ったという強い自意識があると述べています。花園、嵯峨とは、京都市右京区に属するエリアつまり京都市の一部ですが、京都人に言わせると、そこは京都ではないということになります。

それでは、「京都とはどこなのか?」という話になるのですが、この質問に対する答えは「洛中洛外図」という屏風にあります。京都の町のすがたや、そこで生活する人々の模様が、高いところから眺めている目線で描かれている絵です。これ、いまの京都市と呼ばれるエリアを描いた絵なのに、なぜ「洛外」という言葉がタイトルに入っているのでしょうか?京都国立博物館の「洛中洛外図」の説明文では、こう説明されています。

 

京都は中国の唐(とう)の都の長安(ちょうあん)をモデルとして築かれたのですが、いつのころからか、西半分の右京(うきょう)を長安城(ちょうあんじょう)、東半分の左京(さきょう)を洛陽(らくよう:同じく中国の古都)城と呼ぶようになります。けれども右京は湿地帯が多かったために早くにさびれてしまい、長安城という名は有名無実(ゆうめいむじつ)となりました。それに対して左京は発展していったため、「洛陽」が京都 の代名詞となってゆき、それを略して「洛」が京都を意味するようになります。

都の中心線の頂上にあるべき内裏(だいり)も、14世紀には大きく東へ移動して、現代の京都御所の位置になってしまいます。
洛中洛外とは、京都の町なかとその郊外といった意味のことばです。 

 

ようは平安京が置かれていたエリア、御所とその周辺が「京都」であり、それ以外は「郊外」であって京都ではないということです。

 

井上氏の本では、このような意識を吐露したさまざまな京都人の言動が紹介されています。井上氏はこのような言動を「京都人の中華思想」と呼んでいます。京都人以外の人が読めば、おそらく、京都人、京都に対するイメージがいかほどかは変わることは間違いないでしょう。

 

〇 日本国内なのに「外資系」

  

先ほどの話しは、京都市の中の話しです。しかし、京都市の中でも洛中洛外の「厳格な」区別があるとすると、京都市京都府ですらない、つまり、京都府以外の都道府県は、京都人にはどう見えるのでしょうか?

 

井上氏によると、京都に東京や大阪の資本のお店ができると、京都人は「外資系」と呼ぶそうです。もちろん陰でしか言わないようですが。つまり、同じ日本のはずが、意識の中では外国扱いということです。このような種類の話しは他にもあり、「近江」とは琵琶湖を、「遠江」とは浜名湖を指すと言われています。京都の中華思想が見事に表現されています。

 

ところで、「平成29年京都観光調査結果」(京都市産業観光局)によると、京都を訪れた観光客数は5362万人(うち外国人は743万人)だそうです。京都人は、「外国」からやってくる大勢の観光客(本当の外国人も含まれますが)をどのような思いでを持ちながら「おもてなし」しているのでしょうか?もちろん、商売は商売ですから愛想よく接すると思いますが、その深層心理をのぞいてみたいという、意地悪い興味がわたしにはあります(笑)。そして、この本は、そんな深層心理を見事に描いてくれています。

 

一方、このような話を聞いても、なお京都に対するあこがれを持たれる方はいると思いますし、考え方は人それぞれですので、正しい間違いという話しではありません。

この本によると、京都の多くの由緒ある神社仏閣のほとんどは、江戸時代になって徳川幕府によりたてなおされた建物だそうです(井上氏は建築史・意匠論を専門とする学者です)。別に千年の都だからといっても、いまの京都があるのは京都自身の力ではなく「外資系」の江戸(東京)の力だということです。そうすると、京都以外の他の都道府県の人が京都をあこがれるというのも、ちょっと不思議な構図です。

 

〇 京都人の面目躍如

 

ここまでは京都人に対して否定的なトーンでした。しかし、さすが京都人と思わずわたしが思ってしまったこともあります。一言でいうと、歴史認識です。

 

歴史認識というと、戦争責任、靖国参拝の是非、植民地支配への反省といった話しが一般的ですが、京都人の歴史認識はそんな100年弱の話しではありません。

ときどき言われることですが、京都人が「このあいだの戦争」と言うとき、それは第二次世界大戦ではなく応仁の乱のことを指しているという話しがあります。井上氏は、いまの政治での歴史についての議論は、せいぜい明治以降の話ししかしていない点に失望を示しています。

たしかに、日本の長い歴史の流れの中でいまの人々の意識、社会があるのに、それを明治という150年の期間だけを切り取って歴史の議論をすることに違和感を感じる井上氏の主張は理解できますし、京都人でなければ気付かない議論であると感心してしまいまいした(これは文字通りの意味です)。

 

京都人はまだ日本の首都は京都であると思っているそうです。なぜそう言えるのかというと、平安京が置かれて以降、首都を移すという遷都の勅が発せられていないからだそうです。この話を聞くと、冗談かなにかと思ってしまいそうですが、意外とそうでもあいようです。参議院法制局の法制執務コラム(「立法と調査」NO.288・2009年1月)には、首都は東京であるとする法律の規定は存在せず、また明治維新のときも首都を東京にするという声明は出されていないと述べられています。

天皇がいるところが首都であるから、いまは東京が首都である」なんて単純に考えていると、大恥かきそうです。南北朝時代天皇が2人並立していましたから、京都人の歴史認識からすれば、当然の議論でしょう。

 京都人やりますね。 

 

経営も仕事もいがいと世の中は単純にできている、仕事で何か悩んでいる人すべてに読んで頂きたい本

申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。 コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする(著者:カレン・フェラン)、だいわ文庫、2018年6月第一刷発行、

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本のタイトルにしてはずいぶん長い。そして、とても刺激的です。タイトルから推測されるとおり、著者のフェラン氏は、マサチューセッツ工科大学卒業後、経営コンサルタントとして30年、活動しています。つまり、この本は、コンサルタントとしてのフェラン氏の懺悔の本ということになります。

 

この本は、そういう読み物として、つまり、コンサルタントを否定する本として読むことは可能ですし、それは、フェラン氏がこの本を書いた意図と異なることはないと思います。でもこの本は、そういう本としてだけ読むのはもったいない。コンサルタント批判は大事ですが、それだけでは問題は解決しません。コンサルタントの言うことが当てにならないなら結局どうすれば良いのか、という点が一番大事です。この本は、30年間のコンサルタントしての経験を通じた、フェラン氏なりの答えです。

 

〇経営は数字ではない

 

いままで曖昧だったことに、数字を入れることで、一気に何か分かったような気になる経験は多くの人にあると思います。たとえば、営業の場合に、さいきん経費がかかりすぎるということで、単にあまり経費をかけないようにと指示するのと、何パーセント削減するようにと指示するのとどちらがいいかという比較の話しです。このやり方のオチは、本を読んでいただくとして、フェラン氏は、数字で管理することに意味はないと主張します。

 

わたしも自分の仕事でついつい数字で計測して管理するということをやってしまうので、このフェラン氏の主張を読んだとき、ドキッとしてしまいましたが、ふと思い出したことがあります。

いぜん、「99.996%はスルー 進化と脳の情報学」(竹内薫・丸山篤史)という本を読んだことがあります。この本によると、人間は、流通する情報量のうちわずか0.004%しか消費していないそうです。そして、この0.004%の情報をに基づき考え出しが数字により管理しようとしているのが、数字で経営を管理することであり、うまくいかないのはとうぜんだなあと思います。

 

mogumogupakupaku1111.hatenablog.com

 

また、こんな本を読んだことも思い出しました。

 

mogumogupakupaku1111.hatenablog.com

 

 

〇じつは経営はとてもシンプル

 

ではどうすれば上手に経営できるのか、という話しです。フェラン氏は、こういっています。

 

この問題を説明するのにうってつけなのは、流行のダイエットやエクササイズだ。毎年、ドクターやフィットネスの専門家が登場して、痩せるための画期的な方法を紹介する。奇跡にダイエットフードや厳格なダイエットプログラム、新しいエクササイズなど、方法はさまざまだ 

 

ダイエットにより体重を落とすには、摂取するカロリー量を減らし、消費するカロリー量を増やし、差し引きでマイナスにするしかありません。つまり、食事の量をコントロールし、運動・トレーニングによりカロリーを消費するしかないということです。経営もこれと同じということです。原理原則はシンプルでひとつしかないということです。

それにしても面白いです。ダイエットと経営、まったく共通するところのない2つのことが、こうして、共通の軸で説明できてしまうところが。世の中の原理原則はシンプルで共通しているということを示唆しているかもしれません。

 

では、「そのシンプルな経営の原理原則は何か」というところが最重要ですが、具体的な内容は本を読んでいただくとし、私なりにまとめると、「風通しのよい人間関係」の一言に尽きます。これがあれば、少なくともそのチームは最高のパフォーマンスを発揮できます。もちろん、それですべての問題が解決できるかというとそうではないと思いますが、それは、チームの能力を問題が超えているということなので、チームのメンバーの入れ替えが必要です。

それにしても、経営の原理原則がこんなシンプルかつ退屈な内容では、誰もコンサルタントにお金を払わないのは間違いありません(笑) 

 

〇じつは昔の日本式経営は優れていた

 

「風通しのよい人間関係」というと、じつは、従業員を大事にすることを特徴とする昔の日本式経営そのものです。

いぜん、少なくとも平成の始めまで、西暦でいうと、だいたい2000年までの日本の経営は、そんな感じでした。フェラン氏が意図しているかどうかは別として、じつは、昔の日本式経営は経営の方法として極めて優れていたということを、フェラン氏の主張は意味しています。しかし、いまの日本の企業はそうではありません。これも、(おそらく)アメリカ発のコンサルタントの理論を日本企業が受け入れてしまったせいで、日本企業も、コンサルタントにぐちゃぐちゃにされた組織の一つと言えます。

 

フェラン氏は「風通しのよい人間関係」を作るために具体的にすべきことをこの本で紹介していますが、その内容はけっこう日本的です。フェラン氏はこう言っています。

 

関係者を一堂に集め、なぜ現行のやり方で業務を行っているのか、それによって関係者にどのような影響が出ているのかを話し合い、他部門の人が抱えている問題をみんなで理解するという方法には、計り知れない価値があった。セッションが終わる頃には、みんな以前よりも視野が広がり、人間的な思いやりをもってプロセス全体を見つめられるようになっていた

 

みんなで会議して話し合うことが重要だとフェラン氏は言っています。日本式経営っぽいなあという感じです。おそらく今であれば、「会議は時間の無駄。要件はメールで連絡すればそれで良い」といった感じでしょう。

 

じつは、この本の解説を成毛眞氏(元日本マイクロソフト代表取締役社長)が書いているのですが、そこで成毛氏は、この本の主張はいぜんの日本式経営そのものだと述べています。わたしも同じようなことをこのブログで書いていますが、決して成毛氏の解説をぱくったわけではありません。ぐうぜん一致していました(マジです)。解説を読んで本当にびっくりしていまいました。

 

 

この本は経営についての本です。読者としては、社長、役員といった会社幹部がまっさきに想定されますが、わたしはそういう人に限られることはないと思います。たとえば、課長のような中間管理職、管理職でないとしても数名のメンバーを抱えるチームのリーダー、あるいはリーダー以外のメンバーなどなど、自分ひとりではなく同部署の他の人と一緒に、あるいは、別部署の協力を得ながら仕事をしている人もじゅうぶん読者に含まれると思います。ほとんどすべてのビジネスパーソンが含まれるでしょう。いまの仕事の状況に何か違和感を感じている人、この本から何らかの気づきがきっと得られると思います。

勝間氏の代表作。人間関係が気になり言うべきことが言えないことを悩む人すべてに読んでいただきたい本

断る力(著者:勝間和代)、文春新書、2009年2月第1刷発行、

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多数の本を執筆している勝間氏ですが、勝間氏の代表作だと思います。右手を挙げて断っているポーズをとっている勝間氏の写真が載っていますが、とても印象的です。

 

〇「断る力」を身に付けるのは簡単でないが誰でもできる

 

私の周りで、「自分はイヤなことは遠慮なくイヤと言える」と宣言する人がいます。そういう考え方自体はぜんぜん変ではないし、むしろ、どんどん広められるべき考え方でしょう。

でも、わたしはそういう人を見るといつも思ってしまうのです。「本当にそれを実行できているのだろうか?」と。別に非難している訳ではありません。でも、断るというのは意外と難しいものです。だから、「断る力」を身に着けることも、そう簡単ではないと思います。

 

でも、この本を読んで、「断る力」を身に付けることは簡単ではないが、誰でもできることであると思いました。

この本では、勝間氏がマッキンゼーで働いたときのことが紹介されています。その頃の勝間氏は、上司やクライアントの要求に対してまったく断る力を持たない、極めて忠実な働きぶりで、そのために私生活を犠牲にし、あるいは、健康を害したりまでしています。自殺願望もあったと言っています。ある意味、「社畜」と言えるぐらい働きぶりでしょう。勝間氏にそんな時代があったとはとても想像できません。でも、勝間氏は、さまざまなきっかけからそんな態度を改め、「断る力」を身に付けました。

 

 だから私は思うのです。「社畜」だった勝間氏でも「断る力」を身に付けられるのなら、誰でもできると。

 

〇断り方にも方法がある

 

断るという行為をなぜためらってしまうのか?それは、断られた人が気分を害し、その人とのこんごの関係にひびが入るのを避けたいからでしょう。その裏返しで、断ることを躊躇なくできる人というのは、断れた人がどう感じるか、その人との関係がどうなるかを全く気にしない人であるというイメージがあります。

 

この本の表紙の写真のインパクトもあり、勝間氏もそういうことを気にしない人なのかなあとわたしは思っていたのですが、この本を読んでみるとそうでもありません。断り方にもちゃんと方法があるのです。

 

方法については勝間氏がこの本の中で具体的に説明してくれています。説明の仕方、表現は、なんていうのでしょうか、ある意味、とてもドライな感じで、理屈っぽいのですが、実際に入っていることは、わたしはとてもウエットで、断られる人の感情や情緒にとても配慮しているものだと思います。

 

断ることに心理的な障害を強く感じる人ほど、ぜひ勝間氏の提案する断り方を読む必要があります。じつは断ることは、相手との関係を思っているほど悪くするものではないのだということが分かります。

 

〇断らないと生きていけない

 

1989年に石原慎太郎氏と盛田昭夫氏が共同で「NOと言える日本」という本を書きました。これは、アメリカ政府の外圧を断れない日本政府のことを批判した本で、人ではなく国家の話しですが、当時の日本人には断ることを苦手とするメンタリティがあったのは間違いありません。

 

それから約30年がたちましたが、いまの日本人は断ることへの苦手意識を克服できたでしょうか?

世の中全体の価値判断としては、昔と違い、断ることをマイナス評価するようなものはなくなり、むしろ、はっきり自己主張する人が高く評価されるようになってきているのは間違いありません。でも一方で、ブラック企業、ブラックバイトで、本当はそんな職場からは逃げ出す(断る)必要があるのに、それができず、健康を崩し、最悪は命を失うような悲劇的なことが起こっています。総論としては断ることが良しとされているものの、実際の個人の自分の行動というレベルになると、それがまだ現実化していないということでしょう。

 

ここまでひどいケースは極端としても、昔と違い、会社は社員を守ってくれません。定年まで職を保証してくれることはありません。自分の身は自分で守るしかありません。

たしかに、断ることは勇気が要ります。「断れないのはしょうがない」という意見もありますが、これからは、「断らないと生きていけない」のです。この本は2009年に書かれていますが、2018年のいまにおいても十分、読む価値のある本です。

 

文系の学部を卒業した人、怒ってはいけません。むしろ、そんな人の為になる本です。

「文系バカ」が、日本をダメにする なれど“数学バカ”が国難を救うか(著者:高橋洋一)、WAC BUNKO、2018年5月初版発行、同年6月第2刷、

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著者の高橋氏は元大蔵省(現在の財務省)のキャリア官僚。大蔵省のキャリア官僚といえば、東大法学部卒という文系出身者が多数を占める組織ですが、高橋氏は、東大理学部数学科卒という異色の経歴です。

ちなみにわたしは、高校では文系コースを選択し、大学は経済学部なので、わたしも「文系バカ」のひとりです。

 

〇 高橋氏の言うことは良く分かる。高橋氏のほかの本も読んでみたくなる

 

この本を読んでいちばん強く感じるのは、高橋氏はほんとうに頭がいいんだなあということです。取り上げている内容は経済の話が多いですが、そのほか、教育、AIなど他の分野にも及んでいて、かなり難しいことを取り上げているところもありますが、すっと理解できてしまう、難しいことを難しいと感じないまま理解させてくれます。これは驚きです。たとえば、こんなことを言っています。

 

「日銀の仕事はAI化できますか」と聞かれることがあるが、もちろんできる。総裁以下、委員はロボットでもいいかもしれない(笑)。AI化できないと思っている人は、日銀の仕事の中身をわかっていない人だ。仕事内容がわからなければ、プログラム化はできない 

 

高橋氏はおそらく、本気で日銀の仕事をAI化すべきと言っているわけではないと思います。

AI化するかどうかの話しは置いておいて、この発言のすごいところは、高橋氏が、日銀の仕事をプログラム化できるぐらいシンプルに理解しているということです。そうでなければ、この発言はできません。じっさい、この記述に続いて、日銀の仕事は何かということを極めて簡単、簡潔に定義しています。

 

この本では高橋氏が書いているほかの本も紹介されています。高橋氏は経済政策の専門家かと思いきや、なんと、安全保障の本まで書いています。安全保障の専門家が書いている本よりも、はるかに分かりやすく説明してくれているような気がします。こんどかならず読んでみます。読んでみて、これも分かりやすかったら、ここで紹介します。

 

〇不幸にして「文系バカ」の自分はどうすればいいのか?

 

高橋氏が頭がいいのは分かりました。そうすると、高橋氏が「文系バカ」と主張するのも理由があるということになり、「文系バカ」は役立たず扱いされる日も近いことになります。では、わたしのような「文系バカ」はこれからどうすればいいのか、ということがとっても重要になります。

 

時間がある人は、いまから勉強をしなおして、高橋氏のように数学科に進学して、「専門バカ」になればよいでしょう(笑)。しかし、それは誰もができることではない。数学科進学は極端としても、今からでも多少は理系的勉強をすることを高橋氏は勧めています。

 

わたしがこの本を読んだ感想としては、理系的勉強以外にも、高橋氏は「文系バカ」がすべきことを2つ提案しています。これはわたしはまず間違いないと思いますが、2つとも、それを実際にすること自体は難しくない。もしそれが実際できないとしたら、その人は「プライド」が高いのだとわたしは思います。「プライド」さえ捨てれば、「文系バカ」もこれからなんと名借ります。

 

 

〇 理系と文系の区別ってそもそも何なのか?

 

おそらく今もそうだと思いますが、文系、理系という区別に初めて出会うのは、高校生のときではないでしょうか?英語はどちらも共通で、文系を選ぶと、英語に加えて、国語、歴史、地理といった科目の勉強がメインになり、理系を選ぶと、英語に加えて、物理、化学、数学といった科目の勉強がメインになるという感じだと思います。

 

しかし、わたしもそうですが、別に「文系バカ」になりたいから高校生の時に文系を選んだわけではない。わたしが通っていた高校では当時、文系の方が圧倒的に生徒に人気があって、理系科目の先生が必至に理系の良さを生徒にアピールしていました。いま思えば、その先生の言うとおりにしておけばよかったと後悔します(笑)。

 

何が言いたいかというと、「そもそも、文系、理系なんていう区別は本当に必要なのか?」ということです。文系か理系を高校生に選ばせ、その結果、文系を選んだ生徒は数学をちゃんと勉強する機会を失ってしまい、それゆえその生徒が「文系バカ」になってしまうのであれば、こんな文系、理系という区別は生徒の役に立っていません。わたしの記憶では、もっぱら、大学受験の受験科目が文系学部か理系学部かでぜんぜん違うので、受験勉強を効率的にするために、当時、文系、理系で分けていたと思います。

 

 

いまは少子化のため、受験戦争なんて完全に過去の遺物になりましたし、それに、昔みたいに有名大学に入れば人生安泰なんて時代ではないんですから、受験のための勉強にエネルギーを注ぐのは無駄。むしろ、社会に出て生き抜く能力を身に着けるのが大事。ぜひとも「文系バカ」を生み出さないためにも、文系、理系なんて区別は廃止して、幅広くいろんな科目を勉強できるようにして欲しいと思います。

「こんな簡単でいいの?」と思ってしまうぐらい分かりやすく哲学を説明してくれる本

世界のエリートが学んでいる教養としての哲学(著者:小川仁志)、PHP文庫、2018年6月第1版第1刷、

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この本が取り上げる「哲学」とは「西洋哲学」のことを基本指します。哲学と言うと、たとえ理屈としては勉強した方が良いと思っていても、「ふだんの生活に役に立つのか分からないのに、なぜあんな難しいことを勉強する必要があるのか?」という疑問をもつ方も多いと思います。

わたしもこの本を読む前にそういう印象を哲学に持っていました。ただ、ものは試しということでこんかいこの本を読んでみましたが、その印象が必ずしも当たっていないああという感想を持ち、新たな発見を得ることができました。 

 

〇 西洋人が何を考えているのかがわかる

 

べつに心理学の話をしているわけではありません。読心術みたいな話しではなく、西洋人のものの考え方のベースとなっているところが何なのか、ということを、この本で知ることができます。

 

この本からわたしが感じた西洋人の考え方のベースは、神と人間はぜんぜん別もので対立関係にあり、その上で、どっちが主役なのかということをめぐって、様々な哲学があり、哲学の発展があるのだなあと感じました。「神との契約」という言葉を聞いたことありませんか?「旧約聖書」、「新約聖書」の「約」とは「契約」のことです。

 

でも、こういうと、人間と神が別なんて当たり前ではないかと思うかもしれません。でも、日本ではそうではありません。人間が死ぬと神様になるというケースがあります。たとえば、菅原道真が死んだ後に神として祀られました。すべての人間が死んで神様になれるということはなく、ごく一部だとは思いますが、それでもあるわけですね。こは、日本人と西洋人の考え方がぜんぜん違うところだとおもいます。

 

 

〇 哲学がどう役に立つのか、そんな難しいこと考えて何のメリットがあるのかを感じることができる

 

「神と人間の契約」なんていわれてしまうと、ますます哲学が縁遠いものに感じてしまいますが、そんなことはありません。出発点は確かにそこですが、ただ、「神ではなく人間の認識が真理を決めるのだ 」という考え方が哲学において確立すると、では、「何を真理と考えればよいのか」という段階に、哲学の議論が進みます。

 

ここにおいて、哲学が私たちの生活に役立つ場面が出てきます。もちろん、「真理」を何と考えるかについて、答えはひとつではありませんし、現時点においても、これが答えであると決まっているわけではありません。

ただ、哲学を知ることの最大の利点は、「思わぬ気づきがある」、「言語化をしてくれる」ということだとわたしは思います。

 

「思わぬ気づきがある」というのは、「なるほど、そういう考え方や見方もあるんだなあ」という新たな体験のことです。それって「体験」ではなく単に「考え方」「見方」ではないかと思うかもしれませんが、わたしは「体験」だと思います。哲学によりこれまで知らなかった考え方や見方を得ることは、まさにそれまでと世界の見え方が変わることを意味します。これって、単なる頭の中の話ではなく経験の話しだと思いますので、「体験」という表現がぴったりです。

言語化」というのは、それまで自分の頭の中で何となく思っていてたいわゆる「モヤモヤ」みたいなものを、哲学が明確に説明してくれることを指します。もし、目の前に哲学者がいてそう言ってくれたら「それそれ、わたしが言いたかったことは」と思わず言ってしまうような状態です。

 

〇 この本で、いろんな哲学を早分かりし、自分のお気に入りの哲学が見つかる

 

そうは言っても哲学は難しいというイメージはなかなか消えないと思います。でも、ご安心ください。この本は、二千数百年の哲学史を振り返り、ビジネスシーンに役立つ哲学を厳選して紹介しています。

さらにすごいのが、どの哲学についても、その哲学の内容さらには、ビジネスでどう役立てればいいのかを、たった2ページ見開きで説明してくれています。この本を読むと、たった2ページでその哲学を理解し自分のものにしてした気にさせてしまいます(笑)。「こんな簡単でいいの?」と戸惑ってしまいますが、とても不思議かつ、ありがたい本です。

 

どうでしょう、たった2ページなら読めると思いませんか?

 

わたしはこの本から、お気に入りの哲学を見つけることができました。それは、「上部下部構造」、「弁証法」、「否定弁証法」の3つです。つぎは、みなさんが見つける番です。

震度6の地震で交通機関がかんぜんに麻痺してしまった世界を経験しました。2018年6月18日(月)・大阪市

2018年6月18日(月)午前7:58頃、大阪府北部で震度6弱地震が発生しました。

なぜわたしが、このブログで地震の話をするかというと、わたしはその日仕事で大阪にいました。大阪で朝早い時間に約束をしていたため、前日の日曜に大阪市内のホテルに宿泊していて、地震が発生したその時、わたしはホテルを出て梅田駅に向かって歩いていました。

 

〇 地震が発生した瞬間

 

ちょうど近くにビルの建築現場があり、むき出しの太い鉄骨が組まれ上にはクレーンが設置されていました。そこからとつぜん、鉄骨が揺らぐ「ゴワーン、ゴワーン」という大きな音がし、続いて、「ガラガラ」というような鉄骨が崩れていくような音がします。現場をみると、鉄骨がゆらゆら揺れているようにも見えます。

わたしはてっきり、ビル建築現場で何か事故が起こったのかと思ってしまったのですが、すぐに、自分の身体が揺れていることに気づきます。鉄骨が崩れた振動かとさいしょおもったのですが、すぐに勘違いに気づきます。

なぜなら、下から突き上げられるように身体全体が上にジャンプしてしまったからです。これにはびっくり。そして、スマホから、「ウィーン、ウィーン」というエリアメールの音が。これでやっと地震が起こったということがわかります。

人間、とっさの予想外の事態が起こると、まったく判断能力を失ってしまう、という好例です。

 

〇 地震が発生した後も梅田駅を目指す

 

地震があったわけですが、ああなんか揺れたなあという感じで、そのまま梅田駅向かって歩き出します。ところが、ちょっとして異変に気づきます。

バスがやってくるのですが、バスが満員なのです。来るバス来るバスみんな。変だなあ、なんでバスなんか乗るんだろうと思っていますが、まだ気づきません。後から振り返ると、「このあたりでいいかげん事態の深刻さに気付け!」と言いたくなる自分の鈍感さにあきれます。

 

だんだん梅田駅に近づくにずれ、なぜか歩道を歩いている人がやたら多い。すれ違うときちょっと歩きづらい。梅田駅が近づくにつれ、ますます人は増えていきます。歩いている人だけでなく、立ち止まっている人もいっぱい。コンビニの制服を着た人数人が、仕事中のはずなのに歩道で立ち止まっています。これで、やっと気づきます。

 

「そっか、地下鉄が止まったんだ」と。これで、こんかいの地震がそうとうなものであることに気づきます。

 

〇 梅田駅にやっと到着

 

予定の時間より遅れて梅田駅にやっと着きます。さすがにどんかんなわたしももう気付いています。自分が乗る予定の電車はきっと動いていないだろうと。

改札に行ってみたら予想通り、「全線運転見合わせ。復旧までにはそうとうな時間がかかる見込み」とのアナウンスが連呼されています。

 

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7時59分発の電車が一番上に表示されたまま、ずっとそのままです。

 

〇 どこに移動するもとにかく歩く

 

なんとか梅田駅に着きますが、こんな状態ではとても仕事どころではない。わたしもつらいし、先方もそれは同じ。とうぜん、この日の予定はすべてキャンセルということになります。キャンセルの理由で先方が言っていた理由で意外だったのが、「エレベーターが止まってしまったので」というもの。こういうことです。

 

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階段で10階、20階まで上るのはとても無理。こうしてみると、エレベーターも立派な交通機関です。

予定していた仕事がなくやることがないので、地下のホワイティに行ってみると、なんと地下鉄梅田駅が封鎖されています。

 

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こんなことあるんですね。というか、シャッターあったんだーと、ちょっと的を外した驚きをしています。

このように地下鉄は全線運転見合わせ。なので、どこに行くにも歩くしかない。もちろん、バス、タクシーというのもいちおうあるけど、バスは満員、タクシーはぜんぜん空車が来ないという感じです。けっきょく、四ツ橋筋経由で、梅田から本町までひたすら歩く羽目に。

地震のときに何のんきなこと言ってるの?」とお叱りをうけるかもしれませんが、歩いてみて、あらためて大阪は、街中を川がゆったり流れていて、とっても気持の良い街だなあと感じました。

 

〇 東海道新幹線が驚きの運転再開

 

そうすると、こんどは、東海道新幹線は止まったままということで、次は、今日のうちに東京に帰れるのかという心配が出てきます。仕事もなく、新幹線も乗れないので、しょうがなく、本を読んだりして適当に時間を潰していると、午後1時ころに運転再開との情報が入ってきます。

これはびっくり。この時点で、JR西日本の在来線はまったく運転再開していません。なのに新幹線が一番早く再開するとは。 

御堂筋線もJRも使えませんが、そこは何とか車で新大阪駅に行きます。

 

〇 新大阪駅東海道新幹線ホームで驚きの光景

 

新大阪駅についてみると、予想通り、人人人。改札前、みどりの窓口、行列が出来ていて、乗客も駅員もそうとうあせっているのがよくわかります。

「この分だと、ホームは相当ひどいことになっているに違いない。大行列だろう。相当待たないと電車に乗れないだろう」と思い、覚悟しながら新幹線ホームに行きます。

 

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ほとんど人がいない。あれっ?

みんなどこ行ったの?という感じです。地震があったのが嘘のようですが、もちろんそんなことはありません。

 

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ダイヤは大幅に乱れています。写真からはわかりにくいですが、売店も閉まっていました。いつもの新大阪駅ではあり得ない光景です。

どの電車が何時に何番線から発車するのかまったく情報がなく、おそらく駅員もよく分かっていないと思います。とにかく発車できる列車はどんどん発車させるという感じなのでしょう。わたしが持っていた特急券で指定された列車と、わたしが実際に乗った列車はぜんぜん違っていました。指定席なのに自分で座る席を選べるという、なんか不思議な体験。

 

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車内はガラガラです。

新大阪を出たときだけでなく、東京に着くまでずーっとこのガラガラ状態は変わらず。なんか不思議な感じです。でも、新幹線は大幅に遅れています。これが現実。

 

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約2時間遅れています。

 

でも、こんかいの地震への対応をみて、あらためて新幹線の技術力とか、駅員の対応能力、いわば危機管理能力の高さには感心しました。震度6地震があり全線運転見合わせになったにもかかわらず、たった5時間で運転再開させるというのは、とてもすごいことだと思います。おそらく海外ではこんなに早い対応はできないでしょう。日頃の教育、訓練の賜物としか言いようがありません。

野球の本ではありません。こんごの世の中をどうやって生き抜くか、シンプルに教えてくれます

なぜ日本人は落合博満が嫌いか?(著者:テリー伊藤)、角川ONEテーマ、2010年5月初版発行、同年6月三版発行、

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タイトルの質問にどう答えるでしょうか?

 

嫌いですとはっきり言い切る人は少ないとしても、好きですと言い切る人は少ないでしょう。落合氏といえば、中日の監督としての落合氏がもっとも記憶にあると思いますが、たしかに、マスコミの報道はあまり好意的ではなかったと思います。でも、落合氏が監督をした2004年~2011年の中日の成績は、リーグ優勝4回となっており、指揮をとった8年間のうち半分優勝しています。これは、監督しては十分立派な成績ですが、名将というイメージはない。元ヤクルト監督の野村克也氏とは大違いです。

 

イメージがどうであれ、成績は成績であり、落合氏が名将であるのは間違いありません。そんな落合氏が何を考えているのかは、その考え方自体もそうですが、なぜ評価にギャップが生じてしまっているのか、とても興味があります。

 

〇 常識を疑え

 

落合氏の監督時代の言動をみると、通常の野球の常識からすると考えられないようなものがあります。たとえば、こんな言葉が紹介されています。

 

落合は2004年に中日の新監督に就任するなり、こう宣言した。

「補強は一切、しません。いまの戦力でも、十分に優勝できます」

 

 

ちなみにそれまでの中日の成績は、2003年は2位でしたが優勝した阪神とのゲーム差は14.5、2002年は3位ですが優勝した巨人とのゲーム差は15.5、2001年は5位でした。このような成績した残していない戦力で優勝できるとはふつう思いません。しかし、2004年つまり落合監督就任1年目、中日は優勝しました。

 

なぜ落合氏にはそんなことができるのか?テリー伊藤氏は「常識を疑え」という考え方があることを指摘します。たしかにそれはそのとおりでしょう。でも、この言葉ほど、「言うは易し、行うは難し」という言葉がぴったり当てはまる言葉はないでしょう。どうすれば、それができるのか?テリー伊藤氏はこう言っています。

 

いつでも冷めているということだ。常に自分を客観的な目で見ることができるのだ。どんなときでも、みんなと一緒にその場に入り込んでしまうことがない。いつも「第三者的視点」を持っているのだ 

 

なんとなく分かってきたような気がします。落合氏がこういう考え方の持ち主であれば、常識を疑うこともできますし、それがゆえに、その言動が、「常識のある」周りの人からその実質ほどは評価されないという評価ギャップが生じてしまうということも理解できます。しかし、それにしても、そういうまわりの評価にめげない落合氏のメンタルはとてもタフです。

 

なんとなく分かってきましたが、ざんねんがら、まだ抽象的、あいまいさがあるのも事実。まだまだ簡単に自分ができるとは思えない。そこで、もう少し考えます。

 

〇 自分なりの目標を持て

 

落合氏の話しではありません。藤原和博氏は元リクルート社員で、民間人から杉並区の中学校の校長先生に抜擢されたことで有名な人です。藤原氏リクルート時代、仕事関係の飲み会を本当は早く帰りたいけど帰れないとこぼしていたが、何年からしたら、途中でさっさと帰るようになったというエピソードがこの本で紹介されています。なぜ変化したのか?藤原氏はこう言っています。

 

「目標ができたからです。いまの自分には、はっきりとした目標があるから、いつまでもダラダラ残ってなんかいられません」 

 

テリー伊藤氏は、落合氏と藤原氏の姿勢が共通していると指摘しますが、わたしはさらにもう一歩踏み込んで、こう考えます。周りに付き合ってダラダラ飲み会に参加しないということは、周りの人の考え方にもあわせないという姿勢に通じます。そして、周りの人の考え方とはそれは「常識」です。

つまり、自分なりの目標を持つことが、常識を疑うという考え方を持つことに通じるのだと思います。「常識を疑え」という行為が少しは、「行うは易し」に近づいてきた気がします。

 

落合氏の場合、目標とは何か?最高年俸、三冠王など、それは野球人生のその時その時で変化していますが、共通しているのは、夫人の落合信子氏が時々で目指すべき目標を示してくれていたそうです。どれも相当高い目標であったようですが、それゆえ落合氏は、周りの常識など気にしている暇などなく、目標達成のみを考えて行動したのです。

 

〇 みんな落合氏の考え方を真似するべき

 

さいしょにも少し書きましたが、落合氏は決して、その能力、実績に見合う正当な評価を日本で受けているとはいえません。テリー伊藤氏はそんな評価しかできない日本人の考えを嘆いていますし、落合氏が正当に評価されることが日本にとって必要と考えています。それは確かに、わたしもそう思います。

 

ただ、わたしは、この本を読むことで読んだ人にとっての最大の収穫は、落合氏の行動をみんなが真似することだと思います。

昔と違いいまは、会社が社員の人生を保証してくれることもなくなりました。会社の言うとおり仕事してもある日とつぜんばっさりなんてことも起こる時代です。であれば、自分の生活を自分で守るためにはどうすればよいか、そのために必要なことを目標化し、その達成に向けて行動するしかありません。周りの常識を気にしている暇はありません。常識は自分の生活を保障してくれません。

 

この本は2010年、つまり今から8年前に書かれました。この本では、年配の野球ファンほど落合氏に批判的な人が多いが、若い世代の野球ファンには、落合氏を支持する人が比較的増えている気がすると指摘されています。ということは、それから8年たてば、ますます落合氏の言動を支持する日本人は増えていることになります。

わたしは40代ですので、年配の方に分類されますが、ウカウカしていられないなと感じました。日本は少しずつですが変わりつつあり、自分も遅れてはいけないと。ひょっとしたら、そのうち落合氏の考え方が「常識」になってしまう日も近いかもしれません。