日々読書、時々一杯、折々投資

モグパクです。都内で働くサラリーマンです。 新書・文庫を1日1冊読むのを日課にしてます。あと、酒(主に日本酒)を飲むこと、投資をすることが好きです。

日本のマスコミに対して持っていた自分のイメージがひっくり返る本

「本当のこと」を伝えない日本の新聞 双葉新書044

2012年7月第1刷、2012年10月第8刷

著者 マーティン・ファクラー

発行所 株式会社双葉社

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著者のファクラー氏はニューヨーク・タイムズ東京支局長。日本のマスコミとはライバル関係にある方です。読む前は、日本のマスコミに対する型通りな批判論でも書いてある本かなあと思って、正直、あまり期待していませんでした。

でも、実際に読んでみると、自分がいままで日本のマスコミに対してイメージしていたことに、あるいは、この本で指摘されたことをこれまで自分が考えたことがなかったことに、衝撃を受けてしまいました。たとえば、こんな記述があります。

日本のメディアの報道は実に不思議だ。電力会社が活断層の存在について触れるまでは、メディアは島根原発の安全性を疑う記事をちっとも書こうとはしなかった。そもそも知らなかったのか、ニュースにならないと判断したのかはわからない。それが、電力会社が活断層の存在を認めた瞬間、新聞に記事が出る。裁判で原発の危険性が言及された段階で、ようやく記事を書く。自らが疑問を抱き、問題を掘り起こすことではなく、何かしらの「お墨付き」が出たところで報じる。これでは「発表ジャーナリズム」と言われても仕方がないと思う。(62ページ)

たしかに、ファクラー氏の言う通り。もし電力会社が活断層の存在を認めなかったら永遠に報道されず知られないままだったかもと考えると、ぞっとします。よく、国民の知る権利のためにマスコミがあると言われますが、ついつい疑ってしまうのは私だけでしょうか?

小沢氏は逮捕も起訴もされていないのに、すでに有罪が確定しているかのような記事が洪水のように流れた。東京地検特捜部が指し示した方向に、メディアは主体性もないまま小沢氏が極悪人であるかのような話が拡がってくいく。東京地検特捜部のマッチポンプに全メディアが加担するという、異様な光景が繰り広げられた(76ページ)

日本の記者クラブメディアは、小沢つぶしを目論む捜査当局サイドに完全に立っているようにしか見えなかった(80ページ)

私自身は政治家としての小沢氏は好きではありません。なので、小沢バッシングの内容自体については疑問を感じていません。でも、この話、日本のマスコミが何らかの「お墨付き」がでてから報道するという点で、先ほどご紹介した活断層に関する報道と共通しています。

このような話を、一度ならず二度も具体的に聞いてしまうと、日本のマスコミに対する疑惑が生じてしまうのも自然なことに思えます。日本のマスコミ側の主張ということで、日本新聞協会の新聞倫理綱領(2000(平成12)年6月21日制定)の一部を紹介します。

国民の「知る権利」は民主主義社会をささえる普遍の原理である。この権利は、言論・表現の自由のもと、高い倫理意識を備え、あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される。新聞はそれにもっともふさわしい担い手であり続けたい

海外にはない日本独自の制度として、よく、記者クラブが指摘されます。特定のマスコミしか会員になれず、大臣などの記者会見に特定のマスコミしか参加できない障壁となっているという形で問題点が指摘されます。この本も記者クラブの問題を指摘していますが、問題はかなり根が深いことがわかります。

自分たちの手だけに情報を独り占めして、彼らは満足しているのかもしれない。だが、記者クラブが握る情報にどれほどの価値があるというのだろうか。当局側とあまりに距離が近くなりすぎて、当局が最も嫌がる記事を書けない。それどころか、リーク情報をエサにする当局の思い通りにコントロースされてしまう(94ページ)

最初にご紹介した事例などとセットで読むと、けっこう説得力のある指摘です。ちなみに、亀井静香氏が金融庁担当大臣であった当時、大臣記者会見を記者クラブメディア以外にもオープンにしようとしたが記者クラブに猛反発されたので、記者クラブの記者対象とそれ以外の記者対象の記者会見を2回行った(2009年10月6日~2010年6月8日)というエピソード(91~94ページ)は、本来であれば政治家とマスコミの主張は逆であるべきということも考えると、日本のマスコミの救いようのなさを感じてしまいます。

ファクラー氏は東日本大震災のとき現地で取材しており、そのときのことがいくつか紹介されていますが、衝撃的な記述をご紹介します。

1つ目は、当時、桜井勝延南相馬市長がユーチューブを通じてSOSを世界に訴えたことについてです。そのような行動を桜井市長がとったのは日本のマスコミが原因であったということが指摘されており(43ページ)、驚愕しました。とうぜんこのことは、日本のマスコミでは報道されていないです(はずです)。

2つ目は、2011年11月の福島第一原発の現地取材のとき、日本人記者32人に対して外国人プレスは4人しか取材が認められなかったことです(72~75ページ)。福島第一原発の事故は、日本だけでなく世界中に影響を与えており、日本人だけに情報が知らされればよいという問題ではないとし、仮にアメリカ東海岸原発で大事故が起これば、アメリカ政府はヨーロッパの記者にも取材させるに決まっており、そうしなければ、逆に疑いの目を向けられるという例え話を紹介しながら、ファクラー氏は外国人プレスが4人しか取材できなかったことをバランスを欠くと批判しています。このような日本政府や東京電力に対応をファクラー氏は、

チェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)を起こした旧ソビエト連邦でさえ、日本よりもはるかに情報をオープンにしてきたではないか(廃炉が完了していないいまも、一般人を含め多くの人々が原発の見学に訪れている)(74~75ページ)

と指摘し、旧ソ連よりも情報開示が劣ると批判しています。ほとんどの日本人にとって、一瞬たりとも思ったこともないことではないでしょうか。というか日本の方が旧ソ連より情報開示していると考えているのが普通でしょう。

3つ目は、東日本大震災とは関係ありませんが、北海道新聞北海道警察の攻防戦です。北海道警察の裏金問題という不祥事を追及した北海道新聞が、その後、自ら警察との関係修復に動いたという話(136~142ページ)も驚きです。不祥事追及後、北海道新聞は、社内での着服事件が起こり北海道警察の捜索を受け、また、北海道警察に対する事件事故の取材が行き詰っていたということが背景にあるようで、北海道新聞の立場は分からないでもないですが、事実であれば、驚愕というか何かの冗談と思いたいほどのレベルです。

このようにファクラー氏は日本のマスコミを厳しく批判しますが、アメリカのマスコミも同じような問題があったことを認めています。2001年9月11日の同時多発テロの後、アメリカは、イラク大量破壊兵器を隠し持っているとして、イラクと戦争しました。同時多発テロ後、アメリカのマスコミはブッシュ政権をあからさまに批判しなくなり、さらに、ニューヨーク・タイムズは、アメリカ政府が仕掛けた情報戦にひっかかり、アメリカのイラク戦争開始の大きな口実を与えてしまったことが紹介されています(128~130ページ)。この点は、ファクラー氏の公正なスタンスがよく表れていると思います。

日本のマスコミ大丈夫か?というのが、この本を読んで思うことですが、一方で、こういう本が出版されているという事実は、わずかですが、救いがあるのかもしれません。