日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

ゴーストライターとは何なのか、がよく分かる本

ゴーストライター論」神山典士、平凡社新書772、2015年4月初版第1刷

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ゴーストライターというと、本を書く才能はあるけど自分の名前では本を出せず、やむを得ず、他の人の代わりに書いている人、というマイナスのイメージがあり、堂々と話すようなテーマではないと思っていましたが、そんなゴーストライターを真正面から取り上げているこの本を見つけ、読んでみました。

 

読み始めると、ゴーストライターに対するマイナスのイメージがなくなり、むしろ、プラスのイメージが形成されます。

経済よりも名誉よりも、芸術そのものが持っている本質的な魅力魔力の虜になってしまう瞬間ー。その分野の能力は持っていても、十分な発表の機会を持てない人材は、「自分の名前で発表」とか「名誉」以上に、自分の作品を世に出す機会に飢えている。今日もどこかでゴーストライターが生まれるのには、基本的にはこんな理由がある(34ページ)

たとえば雑誌でも、この伝説の少女のルポを書くケースもあるだろう。けれどその場合は、観察者にはなられるけれども主観にはなれない。あくまで40歳のオヤジが17歳をどう見るかが視点となる。それとは別に、ゴーストライティングには、その人の主観になって文章を書ける喜びがある。そこが決定的に違うのだ(37ページ)

こんな風に説明されると、自分もゴーストライターやってみたいなあとおもわず思ってしまいました。

そうやって生まれてきた文章は、著者の当初の思惑から大きく変態し、別の魅力をおびながら世の中に巣立っていく。著者が思ってもみなかった価値がそこに宿り、読者は、それこそが著者の姿だと「錯覚」する。つまりそれは、著者のテーマや人生を「デザイン」しなおすことだ。著者の人生に、著者が思いもしなかった輝きを与え、読者には新たな感動を呼び起こす。その文書を読んだとき、誰よりも驚くのは著者だ。私の人生はこれほどまでにドラマティックだったのか、これほどまでに深いものだったのか、と(55~56ページ)

ゴーストライターに本を書いてもらうということで著者自身の再発見・再評価につながるとは、単に代わりに書いてもらうというレベルを完全に超えています。

各項目の小見出しは必ず三行どりでつけられている。目次を見て驚いた。三行ずつの小見出しを通して読むと、それだけで本書の内容があらかたわかるのだ・・・そうやって全体を俯瞰させておいて、そこから文書を読ませようとする島本氏の意図の現れだ。なにしろ本を読んだことのない読者に、文庫版にして三百ページにもなる分量の本を読ませようとしているのだ。それは矢沢の言葉を商品に変える試みと言っていい。相当の工夫が必要だった(71~72ページ)

三行で小見出しをつけるというのは相当なテクニックですね。著者自身がそれをするのは、相当難しいでしょう。これも、再発見・再評価につながる話なのでしょう。それにしても、ゴーストライターのテクニックはすごいですね。

著者として立つのはその世界の専門家ということになる。ビジネスコンサルタント、評論家、大学の先生、スポーツ選手、タレント、医師、税務関係者といった人たち。いずれもプロとしての書き手ではないことは明らかだ・・・読者もまた「その世界の当事者の言葉で読みたい」というニーズが高まっている。その結果、新書の世界ではプロの書き手ではない著者をライターが支える比率が高いといわれている。もちろんそれは一般のビジネス書でも同じだが、新書戦争が続く限り、出版界ではゴーストライターのニーズは高まるばかりと言えるだろう(99ページ)

このあたりの話は、ゴーストライターのことを本にすることについて出版社がためらう最大の理由ではないでしょうか。てっきり、その道のプロ自身が書いているかと思いきやゴーストライターが書いていると知ったらがっかりする読者もいるかもしれないと心配するのは普通でしょう。でも、ゴーストライターがいなければ、そもそも本自体が発行されないし、また、単なる代筆を超えたレベルであるならば、著者自身が書くよりも良い内容となる可能性が高いので、がっかかりする必要はないと思います。

「先生、今回は急いで原稿を仕上げていただかないといけないので、『口述』でお願いしたいと思います。お忙しいから、そのほうが効率的でしょう」これこそがゴーストライティングの依頼だ。著者は思いの丈を、何回かのインタビューに分けて話せばいい。あとはライターがそれを構成して原稿にまとめ、著者はそれを確認して入稿ということになる(102ページ)

ゴーストライターの実際の役割がよくわかります。ここではさらっと「原稿にまとめ」とありますが、この過程で、著者自身が言葉にできなかったことを言葉にしたり、その内容をより分かりやすい言い方に変換したりという作業がどの程度行なわれるのによって、どのくらい著者自身の再評価・再発見につながるのかが決まるのでしょう。ゴーストライターが、とてもクリエイティブな仕事であることが分かります。

この冒頭の文章も、松下氏の語った言葉ではない。私自身がヤンゴンで感じたこの国の「猥雑さ」そのものを書いた。松下氏もまた、この文章を気に入ってくれて、冒頭に使うことを承知してくれた(125ページ)

ゴーストライターの「まとめ」が、著者自身が言葉にしなかったことを、どのくらい言葉にしてくれるものなのか、という具体例ですね。

世之介氏本人は言葉には不思議な力があると思っているから、それを前提に読者を説得しようと書き始めてしまうが、小泉氏は読者と同じ目線で「そんなものあるの?」という疑問形から入っている。ここが構成の妙だ(134~135ページ)

同じことを著者自身が書く場合と、ゴーストライターが書く場合とでは、その分かりやすさは雲泥の差となるという例ですね。

 

ゴーストライターの対するマイナスイメージが消えると同時に、そもそも本の著者とは誰のことを言うのか?この本は、そんな疑問をいやおうなく持たせてしまいます。

産業界に目を転じても、同じような構造はいくらでもある。トヨタ車のボンネットを開けると富士重工のエンジンが入っていたり、一枚千円以下のユニクロと数千円の一流ブランドの衣料品が、実は同じ工場のラインで作られていたりする(これはゴーストの構図とは少し異なるが)。そもそもアップルは工場を持っていないと聞く。一つのブランドを陰の存在が支えるのは、もはや当たり前になったのだ(16~17ページ)

なぜ、本についてだけ著者自身が書いているか否かが気になってしまうのか?答えはよくわかりませんが、そこにこだわることはそれほど大事なことなのか?とも感じてしまいます。

この本を読んだ後は、どんな本でも読もうとするたびに内容以前の段階で疑問だらけになってしまう、読書家にはちょっとつらい状況ですね(笑)