日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

ネットに何かを書き込みたいと思ったときにまず読む本

「ネット私刑(リンチ)」安田浩一扶桑社新書186、2015年7月初版第一刷

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衝撃的な内容を安田氏は告白します。

何がきっかけであったのか、今では覚えていないが、いじめを回避すべく方法が見えるようになった。それは、いじめる側に加わることだった。周囲を冷静に見回せば、必ず私と同じようなタイプの人間がいる。そうした者を発見したら、力関係をよく把握したうえで、真っ先に攻撃の隊列に参加すればよいのだ・・・卑劣で情けない方法だった・・・なによりも自分がそれまでされてきたことを、ほかの子に押しつけることが快感だった。だからーー私は「私刑(リンチ)」の快感を知っている(6~7ページ)

安田氏が子供のころの話なので、かなり以前の話ですが、それでも自ら告白するのは簡単なことではなく、一方で、この本を書く上でこの告白が必ず必要であったかというとそうでもないように思えます。

私は間違いなく「私刑(リンチ)」する側にいた。「私刑(リンチ)」に加わることで、自分の身を守ることができると知っている。同時に、それが必ず「犠牲者」を伴うものであることも知っている。現実社会で起きていることも、ネットの世界で起きていることも、本質は同じだ。「快感」の裏には、押し殺したような嗚咽が必ず隠されている。そしてときに「正義」の側に立っているはずの自分が、いつのまにか「加害」の側で「私刑(リンチ)」に参加していることもあるだろう。不寛容な時代の空気は、そうした場面をあちこちでつくりあげているに違いない。本書の取材を通じて、私が常に自分自身の卑劣な過去を思い出すことになったのは、同じような「私」の姿を何度も目にしたからであった(11ページ)

なぜ、安田氏が自分の過去をこの本で告白したのか、理由が分かりました。安田氏は私刑の痛みを実感した上で、この本を書いているのだなあということが伝わってきて、それゆえ安田氏の強い思いも感じます。

ある女子中学生は「犯人の一味」とされ、実名と一緒に顔写真が掲載された。別の女子中学生は「犯人の彼女」とされ、やはり顔写真から家族構成までもが2ちゃんねるに書き込まれた。ある男子高校生は、やはり実名とともに「凶暴」「凶悪」と指摘され、上村さん殺害に加わっていたかのように書かれた。これらの者たちはまったく事件とは関係ないにもかかわらず、永遠にネットへその名前を刻まされてしまったことにある・・・名前を書き込まれた女子中学生のひとりは、今でも脅えて家の中に閉じこもっていることが多いという。何の救済措置もとられることなく、被害の回復が図られることもなく、彼ら彼女らは一方的に叩かれた。つまりネットは、処罰感情とゲーム感覚の「犯人捜し」によって、亡くなった上村さん以外にも、多くの「被害者」を生み出すことになったのだ(27~28ページ)

 家に閉じこもってしまった女子中学生は、今後一生、普通の生活ができなくなってしまうのだろうか?と考えると、あまりに悲惨すぎる話です。

個人情報をネットで拡散され、人殺しとまで罵られた前出の女性は、今でもネットを見ることができない。彼女を痛罵する書き込みが大量に残っているからだ。拡散に拡散を重ねた情報は、もはや消し去ることは不可能だと知った。だから、一部のネットユーザーにとって彼女はいまだ「人殺し」なのである。「一生、このまま、レッテルを貼られたまま生きていくことになるんですよね」彼女は寂しそうにつぶやいた。そして、嗚咽した。誰かが捕まっても、誰かが裁判を受けても、誰かが罪を認めても、何も変わらない(102ページ)

この女性の人生は、ネットの書き込みによって大きく狂わされてしまっています。どう考えても、ネットに何を書き込んでも構わないということはなく、やはり一定の限界があるような気がします。書き込む自由があるのなら、それに対する責任も伴うべきですし、問題のある書き込みが削除されるような仕組みが必要な気がします。

ネットに日教組批判があふれた。〈日教組が事件をもみ消そうとしている〉〈日教組の教員が生徒の自殺に手を貸した〉〈自殺した生徒の担任は日教組の活動家だった〉ネット右翼と呼ばれる者たちにとって「日教組」は、敵の記号である。この文言を用いることで、教育現場の不条理も不祥事も、すべて理解できてしまう魔法の記号だ。実際は今の時代にあって日教組の力量などたいしたものではない。1970年代までならばともかく、今や組織率は3割にも満たない組織である。教育現場を支配できるほどの影響力など、とうにうせている(83ページ)

原因が何かを見間違えると、何も問題は解決できません。ネット上で「日教組」を原因として批判する人たちは、単に事実を知らなかっただけか、あるいは、事件自体には実は興味がないのかもしれません。私自身は日教組とは何の関係もなく、日教組を擁護するつもりは全くありません。

「在日の友人がいる」といった言葉に、差別を無効化させる力はない・・・「在日の友人がいる」といった言葉もまた、私は差別集団の取材現場で数多く耳にしてきた。興味深いことに、米国の人種差別主義者の間にも似たような言い回しが存在する。「I have black friends(私には黒人の友人がいる)」。これは、差別主義者ではないことの言い訳としてもっともポピュラーなものだり、最近では差別主義者を嘲笑する物言いとして定着している・・・韓国人の友人がいることは、差別と無縁であることを意味するものではない。女友達や恋人、妻がいようとも、女性差別する男性が存在するのと同じことだ(86ページ)

ネットに限った話ではなく、とても鋭い指摘です。女性差別との例え話はとても分かりやすいです。

ネット上に氾濫する"事実”は、何ら検証されることなく"真実”として受け止められる。そこに躊躇や懐疑はない。なぜならば、"正義”という圧倒的な大義名分があるからだ。自ら命を絶った少年に涙し、同情し、加害の側に怒りをもつことは、"絶対正義”である。誰であっても責められるものではない。言い換えれば、異論が許されない安全圏でもある。そして、異論を挟む余地がない空間だからこそ、ときに正義は暴走する。同情や悲しみは憤怒となり、やがて「敵を吊るせ」という大合唱が沸き起こる。それを疑う者はいない。正義で武装した安全圏とはそういうものだ。石を手にし、より強く、より多く、それを投げつけた者がさらなる正義を獲得することができる(92ページ)

なぜネットではすぐに炎上するのか?その仕組みが分かったような気がします。

過去には私の「殺害」を示唆するような書き込みもあった・・・〈安田は基地外ジャーナリスト あの野郎は保守の分断を目論んでいる アイツは殺さなければならん〉・・・さすがに2ちゃんねるユーザーのなかにもこれを批判する者がいて、「捕まるぞ」「今のうちに削除しておけ」といった投稿も相次いだ。だが、書き込みの当人は「言いがかりは不当」「貴様ら、天誅だ」と応じるばかりで、削除要請も謝罪要求もはねつけた。私は知人からの連絡でそのことを知ったが、実はそれほど強い関心を持てなかった・・・だが、そのときは講談社の私の担当編集者が、これら書き込みに激怒した。彼は自身のツイッターに次のように書いた。〈「殺す」は明らかに許容の範疇を超えている。ネットだ匿名だ出来心だといって到底許されるものではない。断固としてしかるべき措置をとる〉この強い調子のメッセージが「2ちゃんねる」に転載されたあたりから風向きが変わってきた。おそらく編集者の「しかるべき措置」といった文言が効いたのであろう。「俺は謝罪など死んでもせん」と強気だった書き込み者も、徐々に弱気を見せるようになり、数時間後には投稿にも「気持ちの揺れ」が表れるようになった・・・そして翌日、ついに書き込み者は全面降伏するのである。〈殺さなければならんという事は殺害予告に該当しないと思い軽い気持ちであのような物騒なことを書き込んでしまった 勿論私は安田浩一氏を「殺害しない」、殺害する意思もまったくない・・・この度は私の物騒な書き込みにより安田浩一氏ご本人と御親族の方々に要らぬ心配と不安を与えたことを深くお詫び申し上げたいと思います〉

ネットで書き込む人は、本当に軽い気持ちでしているのだなあということがよく分かります。安田氏の言う「安全圏」にいるということですね。