日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

人はなぜ自分を「スルー」するのかと悩んだときに読む本

「99.996%はスルー 進化と脳の情報学」竹内薫・丸山篤史、ブルーバックス、2015年2月第1刷発行

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「スルー」という言葉自体は、日常生活でもよく目にします。人と人の関係でいえば、無視された、反応がなかった、といった感じでしょうか。それを情報についてあてはめるとこんな結果になるそうです。

平成23年度の「情報通信白書」によると、2009年度の日本では、なんと年間約950EB・・・という巨大な数字の情報量が流通している、という計算結果が弾き出されたそうだ・・・だたし、注意が必要となるのは、この数字が、あくまで「流通量であって蓄積量ではない」ということだ。蓄積される情報は流通している情報の一部であって、流通する情報量の多くは、言葉を悪くすれば「垂れ流されている」だけなのだ。そう、つまり「スルーされている」と考えるべきなのだ!そして、ここをもう少し深く掘り下げてみると、そもそも蓄積されている情報ですら、僕らは全てを処理できているわけではないはずだ・・・同じ平成21年度(2009年度)、僕らは、年間約36PB・・・の情報を消費していたのだ・・・なんと僕らは、流通する情報量のうち、たったの、0.004%しか消費していなかったことになる。つまり、身の回りにある情報の99.996%を僕らはスルーしていたのだ(58~60ページ)

ふだん、ネット、テレビ、本など様々な情報に接していますが、それはほんの僅かにすぎず、ほとんどの発信された情報は自分の目にすることなく流されたままということですね。世の中のことのうち、0.004%しか自分は知らない、という言い方もできそうです。

僕らは、流通している情報量の約2.7万分の1しか消費できず、消費したといっても、その1000分の1しか知覚できていない。その上、知覚した情報の100万分の1しか意識していないのだ・・・僕らは、流通している情報量の、27兆分の1しか意識していないことになる。ようするに、意識は、流通情報量の99.99999999963%をスルーしているわけだ・・・なんだか、マグカップを使って、琵琶湖の水を全て飲み干そうとしているような気分になってきた・・・こんな数字を見てしまった今では、可愛いあの子にメールの返事をスルーされたことなど、何でもない(140~141ページ)

実際に知覚している情報は、消費した情報のさらに一部にすぎないという訳です。なんだか「知っている」なんて迂闊に言えないなあと感じます。

正しさの保証をしない代わりに、計算量を減らしているわけだ。正しさの保証がないことは問題だが、結果が正解に近いならば、(日常的には)使用可能だろう。しかし、間違うならば、修正しなくてはならない。間違う理由は簡単だ。つまり仮説に採用する経験に偏りがあったり、認識に誤りがあったりするからだろう・・・この辺り、正しさの保証と計算量のトレードオフなら、一つには、どこまで計算量(つまり手間ヒマ)をケチるのか?が、間違うか否かの鍵になるだろう(143ページ)

知覚した情報、消費した情報がごくわずかであっても間違わずに済むにはこのだめですね。実生活でも大事ですね。情報収集ばかりに力を入れるよりは、今ある情報を上手に活用することに力を入れるべきということでしょう。しかし、そのわずかな情報に偏りがあったらダメですけど。このことをこの本では「ヒューリスティクス」と呼んでいます。

完結しない情報は心に引っかかり、無意識が欠けた情報を何とか補完しようとする。これがツァイガルニク効果だった・・・・たとえば、アイデアが行き詰ったとき、「それ、めっちゃすごいアイデアやんか!このアイデアやったら、問題解決やで!」と、アイデアが出ないまま、先に喜んでしまうのだ。そして「すごいアイデアやなあ、どこから手ぇつけたろか。まずは、・・・・・・・」と、おもむろに休憩に入る・・・ようするに、わざと思考を中途半端に打ち切って、気分転換するのだ・・・すると、ぽっかりとアイデアが浮かんでくる。もしくは、取っ掛かりのヒントくらいは見えてくるはずだ・・・創造性は、頭から一滴々々搾り出すというより無意識のポンッと出てくるものを捕まえるイメージだ(202~203ページ)

消費はしているけど知覚していない情報、つまり、無意識の情報も活用できるということですね。この話、いくらやってもうまくいかないときに気分転換のため一時それを中断して、ちょっとしてから再び取り掛かるとうまくいく、という話と似ていますが、違うのは、中断するときに、本当は解決していなくても解決したということにし、実際との距離は中断している間に無意識に埋めてもらうというところが違うのでしょう。単なる中断だと、意識だけでなく無意識も中断してしいますが、この話は、中断しているのは意識だけで、無意識はその間も問題解決のため動いているいうことになります。

「スルー」とは「情報に対する態度」の一種だと考えてみたのだ。もちろん自分にとっての重要性や必要性に応じた「態度」である。だから「スルー(反応を表明しない)」の反対語は「即レス(即効でレスポンス/応答する)」である。そして一番極端な「情報を受け付けないスルー」のことを「ブロック(情報の遮断)」とした。次にスルーをスッキリ整理するため、即レスからブロックまでの間に、幾つかの段階的なスルーを想定してみよう・・・「一時的スルー」「消極的スルー」「積極的スルー」の3つに分類する(98~99ページ)

とても面白いですね。「スルー」=無視、とは限らないということになります。これは、情報の話に限らないと思います。ラインにもブロック機能がまさについています。ラインで既読スルーされた場合、それは「ブロック」ではなく途中段階の「スルー」なのに、度が過ぎてしますと「ブロック」されてしまう、ということを考えると、人間関係にも当てはまります。

思い通りに他人を支配したい、自然を制御したにと思う気持ちは、僕らが持つ普通の感覚だろう。しかし、逆の立場で考えてみれば、誰も支配されたいと思う者はいないはずだ・・・人の感情や行動は、可能な限り自由であるべきだ、と思う。そのためには、僕らの自由が、他人の自由を侵害していないか、に気を配ることが大切になる。そういう意味では、「スルーされない」が「スルーさせない」になってはいけないだろう。微妙な言い回しになるが、いかに「スルーされない」ためとはいえ、やってよいことと悪いことがあると思うのだ(187~188ページ)

ほとんどの情報が「スルー」されていることを考えれば、そもそも酢普段から「スルー」されるのが普通であるのですから、「スルーされない」ことを気にするのは意味がないということでしょう。「ブロック」の段階にまでいかなければ良しとするという感じでしょう。

評価する側の気持ちになって考えれば、「使える/使えない」で判断するより、「どれが使えるか」で検討する方が、上司に「選択の自由」がある分、スルーしにくくなるはずだ(197~198ページ)

感情のコミュニケーションにおいて重視されるのは視覚(55%)、聴覚(38%)、言語(7%)の順だという・・・ようするに、こちらの熱意をスルーされない説得力のある話し方があるとしたら、言葉の内容にマッチした振る舞いや、声の雰囲気に気を配ることが大事かもしれない(199~200ページ)

一般的に、人は自分から見て、左→右、上→下の動きを事前に感じるものなのだ・・・映画やドラマでは、登場人物を際立たせるとき、画面の右から左へ役者を動かすことが多いそうだ(200ページ)

 人が消費し知覚する情報がわずかであることを前提とすると、いかに消費し知覚してもらうためにはどうしたらよいのか、というテクニックが大事になります。これは、この本で紹介されているテクニックの一部です。