日々読書、時々一杯、折々投資

モグパクです。都内で働くサラリーマンです。 新書・文庫を1日1冊読むのを日課にしてます。あと、酒(主に日本酒)を飲むこと、投資をすることが好きです。

交渉とは何か特別な技術だ、と思っている方におすすめの本

「「独裁者」との交渉術」明石康木村元彦集英社新書、2010年1月第一刷発行

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明石氏は日本人初の国連職員となった方で、ガンボジアPKOボスニア紛争の調停など、国連が主導した1990年代の平和活動を指揮しています。その過程で、シアヌークミロシェヴィッチ、カラジッチといった現代史に名を残す政治家、リーダーたちと様々な交渉をしています。この本は、そんな明石氏の交渉テクニックを、ジャーナリストである木村氏の様々な質問に明石氏が答えた内容をまとめた本です。

人間というのは千差万別だし、特に政治家には海千山千の人が多い。パフォーマンスに長けていたり、ブラフするのが得意な人とか。我々としては、彼らが被っているかもしれない仮面の向こうにある本当の表情を、できれば確かめたいわけです。それはいきないできることではない(中略)だから、親しくなったら、できるだけ少人数で、可能ならば一対一で話します。そこでようやく本音が聞けるし、相手の思いや考えが、そのまま形で伝わってくるのです(53~54ページ)

端的な指摘です。一対一で交渉した方がよいと言われれば、それはそのとおりですが、なぜそれが必要なのか、具体的に述べてくれていて、とても分かりやすいです。さらっと明石氏は述べていますが、「独裁者」相手となるとその苦労は想像を絶するものがあります。

ちゃんとした会議の場で箸にも棒にもかからないような人物でも、食事の席で隣り合わせか、向かい合った席の場合、リラックスした瞬間をとらえてそれとなく話しかけてみるべきです。一対一で話すのが相手の本音を聞くにはいちばんよいことですね。カラジッチなんか、そういうことをある程度心得ていて、食事が済んで食後のカクテルの時間になると、私を誘って別室に行き、二人だけでいろんな機微に触れることを話していました(172~173ページ)

食事や酒の席で本音が出やすい、というのはどこでも通じる常識のようです。

個々の事態に際して一方だけが正しいと判断することは、特定の結論を初めから設定してしまうことになりますし、そういうことをしてはいけないと私は考えていました(56ページ)

国連であるがゆえの中立性とも見えますが、一切の予断をもたず交渉に当たるということも言えます。明石氏の場合、交渉相手が世界中のマスコミから断罪されている相手であることもあり、この立場を維持するのは相当大変だったでしょう。

調停者は雄弁である必要はないということです。滔々と捲し立てるよりも、まずはグッド・リスナーであるべきだということです。注意深く、相手の言い分を聞く耳を持つ。それが調停の第一歩であるという点は、出席者が一致しています。私も同じ意見です(140ページ)

感情に流されず、きちんとした理性的な批判能力も持っていなければならない(218ページ)

先ほど紹介した考え方を、交渉における具体的態度に変換すると、こういうことになるのでしょう。ただ聞くだけでなく、批判能力も必要というのは重要だと思います。それが、次のような交渉スタイルに現れます。

ローズ司令官の回想録の中に、明石の交渉の仕方について書かれた箇所がある。ローズは語る。「ミスター明石はどういうプランをもって交渉にあたるのか外から見ているとまったくわからない。それはまさに臨機応変であった。相手がああくると、こう出るのか、と思う。しかし、相手がまったく別の態度をとると、またそれに応じて別の引き出しを開ける。ひとつとして同じ手法はとらない」。豪腕のローズにとって明石の手法は脅威に映ったようである。(木村元彦)(126ページ)

先ほどの交渉における態度は、相手方、第三者からはこのように見えるという分かりやすい例です。ともすれば、相手の話をじっと聞いているだけだと相手から軽く見られるのではないか、という不安を感じてしまいますが、ちゃんとした批判能力を有していれば、そのような不安が杞憂であることがよく分かります。

日本としては、スリランカ政府がどうしてこういう行動に出るのかということを理解しつつも、そのような行動をとるのは得策ではないし、諸外国の非難も高まってしまう、だから違うやり方をとるほうがいよいのではないか、と親身になってとことん話し合いました。いわば、一緒になって考えるというスタンスです(202~203ページ)

ここまでくると、交渉という言い方がよいのかも迷いますが、それはそれでよいのでしょう。

国連には知恵者はたくさんいます。当事者がその気になりさえすれば、両者の立場を考えたうまい妥協案を生み出すことは不可能ではない。しかし、当事者がその気にならないと、国連は笛吹けども相手が踊ってくれない悲哀を噛み締めることになる。私は、条件や環境が整わなければ、調停者がいくら懸命に努力してもだめだという、やや突き放した見方をしていました。ですから、当時、私のレベルで国連本部に中止を提案しました(80ページ)

どうしても交渉で何とかしたいという思いは大事ですが、一方でどうしても無理な場合、交渉の限界が存在することも事実です。交渉者が自らそれを認めることはなかなか難しいことだと思います。

私の頭の片隅には当時、我が国のタイ駐在大使をしていた岡崎久彦さんの言葉があった(中略)岡崎さんはマキアヴェッリの「君主論」を引用して、「王様を説得するには、彼を批判しないで、むしろ持ち上げるのがいちばんいい道である」と言うのですね(82ページ)

内容としては理解できます。しかし、たとえば、大量虐殺をしている「独裁者」相手にこれを行うことは、なかなか感情的に耐えがたいところがありますが、それを実行するところに明石氏の偉大さがあります。手段と目的の区別とも言えます。

私は(中略)国連の法律顧問の法律にとらわれた解釈を買っていたら、判断の間違いを犯していたと思います(中略)法律顧問は法律条項を見て、それから何かを演繹していくわけです。しかし本物の生きた政治分析は、演繹ではなくて帰納、複雑で豊かな現実の中からいくつかの原則を帰納していくことだと思うのですね(103ページ)

これも、手段と目的の区別の話になります。正しい判断をするのが目的であって、法律は手段にすぎません。「演繹」というのは法律解釈の整合性みたいな話だと思いますが、現実を無視して法律の世界の整合性を優先するのは、まさに手段と目的のはき違えということでしょう。

自分だけが、あくまでも犠牲者だという立場や態度をとると、日本は全世界を敵に回してしまいます。靖国神社遊就館に行ったときに、展示を見て感じたのですが、我々は同時に犠牲者でもあり加害者でもあるのだ、という観点が完全に抜けてしまっているのです。これでは、中国に対してもアメリカに対してもその他の国に対しても毒づいていることになる(69ページ)

戦後は一貫して日本は加害者という論調が支配し、いまは、少しずつそうではない(犠牲者という言い方が当てはまるかは別ですが)という主張が出始めています。しかし、両面があるという明石氏の主張は慧眼です。このような考えの持ち主だからこそ、難しい交渉もすることができたのでしょう。また、この指摘は、交渉術というテーマを離れて、日本が傾聴すべき内容でしょう。

このごろの日本人は、国際的なプレゼンスが弱いから、もっと発言力を高めるべきだと異口同音にいいます。けれども、相手が何を考え何を心配し何を夢見ているのかを無視して、一方的にこちらの思いだけをぶちまけたって、素直に聞き入られるはずもありません。文脈を無視したことを言ったら失笑を買うだけです。日本人は一般的にいって、確かに発言力も弱いけれども、まずは鋭敏なアンテナを張り巡らして、世界の人々や政府が何を考えているのかを把握し、相手が聞きたいことをきちんと答えられるようになれば、相手も一生懸命こちらに耳を傾けてくれるのです。国内での議論は、発信力と受信力の関係性について誤解している節があるように思われます(140~141ページ)

これも傾聴すべき内容ですね。なかなか耳が痛いです。相手の話を聞けというのは、はっきりいって、外国の話を持ち出すまでもなく、日本の常識です。つまり、明石氏の話は、海外の話というよりは、たんに日本の常識を言ってることになります。交渉になにか、(国をとわず)特別なものがある訳ではないようです。