日々読書、時々一杯、折々投資

モグパクです。都内で働くサラリーマンです。 新書・文庫を1日1冊読むのを日課にしてます。あと、酒(主に日本酒)を飲むこと、投資をすることが好きです。

子どもにどう接すればいいのか分からない教師、親に読んでいただきたい本

「生徒たちには言えないこと 教師の矜持とは何か?」諏訪哲二、中公新書ラクレ、2012年6月発行

ーーーーーーーーーー

諏訪氏は、元高校教師。「プロ教師の会」代表です。「矜持」は「自分の能力を優れたものとして誇る気持ち。自負。プライド」(デジタル大辞泉)との意味だそうです。「プライド」とは広い意味では同じですが、能力に関する意味合いが強い点で、少し違う意味のようです。まさに「プロ教師」にふさわしい言葉ですね。ところで、「矜持」とは「きょうじ」と読むそうです。みなさんは読めましたか?私はまったく読めませんでした(笑)

 

学校ではまず「真実」(「ほんとうのこと」)ではなく、みんなから広く認められている「建前」(「とされていること」)を教えるべきである。つまり、社会的に、間主観的に認められていることを教えているし、教えるべきである(15ページ)

かなり意外な内容からこの本は始まります。建前などというのはしょせん建前にすぎずその重要性は低く、むしろ、真実を教えるのが学校というイメージでしたが、諏訪氏はまったく逆のことを述べています。

 

たとえば「人間は平等である」という考えは現在日本では自明のこととされている(中略)この考えは近代の中核を成すし、キンキラキンの絶対の「真実」であるようにも思われるが、世界や日本の「現実」を見渡せば、事実を表している「現実」ではありえない。差別や格差や抑圧や虐待などがあらゆるところに存在し、近代の「建前」ではあるが、「現実」や「真実」でないことは明白である(中略)それでも教師は人間はみんな平等であると教え、生徒たちに「真実」を教えようとはしない。これはインチキではない。正当なことである(中略)教師がそれぞれの信じる「真実」を教え始めたら、大変なことになる。「建前」はほぼ一致するが、「真実」は人によってかなり違う。学校は子どもに近代と自己への幻想を持たせるところだから、近代を信じさせる必要がある(18~19ページ)

諏訪氏の言う「建前」と「真実」が何を指すのか、なんとなくわかってきました。しかし、それでもなお、なぜ「建前」を教えればよいのか、ちょっとよくわかりません。

 

学校では「真実」へのアプローチの仕方を、「建前」を教えることによって学ばせることはできるが、「真実」を教えることはできない(15ページ)

「真実」は成長するにつれて、わかる者にはわかっていくであろう。わからない者には永遠にわからない(正確には、その人なりの「真実」をつかんでいく)。それでいいのではないかと思うし、そうなるしかないのだ。「真実」への接近は一人ひとりの独自の作業としてあるのだ(そして、一生かかっても到達できない可能性が高い)。つまり、これはありうるとしても、自ら発見していくものであろう。知識のように教えられるものではない。そして「建前」は間主観的で一般性を持つが、「真実」は「真実」同士で合い争う(相手を打倒するまで戦う)ところがある。まことに排他的であり、抑圧的である(17ページ)

子ども時代に「虚(うそ)」は欠かせない。いつでも「真(ほんとう)」を貫くべきだとする生き方、考え方は間違っている。それはたいていの場合、その人自身の「真実」であり、客観性を持たないからである。それでも、おとなが内心でそれぞれの「真実」を抱えて一生を生き抜くのは何の問題もない。問題なのはわが子にその「真実」を教えようとすることである(中略)教師は四〇人の生徒がいたら、その四〇人にかかわる(共通性のある)内容を語らなければならない。だから、教師がいかに「真実」を語ろうとしても必ず「建前」にならざるをえない(94ページ)

 なんとなく諏訪氏の言いたいことが分かったような気がします。「真実」とは本人の認識なので、教師が学校で教えるべきではないし、自分でつかんでいくしかないということなのでしょう。そうだとすれば、教師が「真実」を生徒に教えることは、一切ダメとは思いませんが、たしかに、混乱するでしょうし、それに、生徒が学校を卒業しても社会に適応できなくなってしまうかもしれません。一方で、教師の役割をこのように考えると、教師は大変だなあとも思います。「建前」しか言わないのですから、教師は世の中を分かっていない、と批判されてしまいます。

 

教師の内部に、教師と生徒という公的なつながりは見せかけのもので、実はそれは人間対人間の「真実」のコミュニケーションにつながらなければならないという妄想があるからである。ダメな教師は最初から「真実」の人間関係を求めて、学級崩壊を引き起こしたりする。子どもたちの生徒としての「建前」ではなく、個々の人間としての「真実」を浮上させてしまうからである。教室で子ども(生徒)の一人ひとりの「真実」が浮上してしまったら収拾がつかない。こういう教師は、学校は「真実」の場ではなく、近代の器であることがわかっていない(35ページ)

ちょっと味気ないような気持はありますが、これが正しい理解なのかもしれません。たしかに、生徒ひとりひとりに応じてなんてことはなかなか難しいし、それは集団教育ですることではないのでしょう。家庭教師の役割とも言えます。社会のルールが何なのかを教えるのが学校の役目ということでしょうか。学級崩壊の話はとても分かり易いです。

 

誤解を恐れずにいえば、学校は子ども(生徒)たちの思想・良心の自由をもともと脅かすところであり、彼らの「ありのまま」を尊重しないで近代的市民に変革するところである。近代的市民としての「個」のあり方が、社会の必要であり、生徒(子ども)のためにもなるとマインド・コントロールするところでもある。子どもの主体が何かに脅かされずに尊重されたら、教育でも学校でもなくなる可能性が高い(126ページ)

 先ほどの「近代の器」をはっきり言えば、こういうことですね。こう言われると教師が「真実」の人間関係を求めることが、いかに分かっていないことが、とってもよく分かります。

 

学校、つまり、近代公教育(普通教育)では、子どもたちの社会的・人格的成長を図ることも期待されている(中略)親や教師がどう親や教師を「生きているか」というその姿のほうが教育力がずっと高い。教師の人間(人格)教育はほぼ無自覚的に行なわれており、誰もあまり自分が「している」ことに気づいていない。そして、人間(人格)教育をしているのは、教師としての一般性ではなく、その教師のいわば「自己としての自己」の方なのである。近代社会の市民的な生き方の「建前」を教えるのは、教師の教師性のほうだが、人間性や人格性を教育してしまうのは、教師の「私」(個性)のほうである。したがって、当然のことながら、まずいこと、わるいことも教えてしまっている(38~39ページ)

この話はすっとわかります。学校では勉強を教えますが、一方で、生徒が学校で受け取ることがそれだけかというとそうでもないような気がします。例えば、とっても尊敬できる先生がいた、みたいなことですね。これは諏訪氏の言うところの「人間(人格)教育」の話でしょう。

 

まともな教師の真意は「教師である私」の人生を必死に生きることである。生徒のために教師の仕事をやるのではない。〇〇のために△△するには多かれ少なかれ心理的欺瞞が隠されている(中略)「教師である私」を生きることによって、「教師である私」の思想と生を突つめることによって、その結果として私たちは何がしかの教育的影響を子ども(生徒)に与えることができるのであろう(61ページ)

 ここでの教育は先ほどの人間教育のことです。それにしても、人のために何かをすることに心理的欺瞞があるとは、「真実」としか言いようがないですね。とても学校では言えないことです。

 

教育基本法の第10条(家庭教育)で「1、父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」、として、教育は親や子どもの委託を受けて行なわれ、それを委託されているのが教育行政であるという論理を一元的に立てている。教師は親や生徒の教育要求を受け入れざるをえないし、教育行政に従わなければならないという構造になっている(中略)こういう姿勢だから、そこには消費者主権という考えが登場し、教育をする側(学校、教師)とされる側(生徒、親)とが「商取引」をしているような認識が力を持ってくる。消費者(住民)は金(税金)を払っているのだから、こっちの要求に従えというモンスターペアレントまで登場してくる(40~41ページ)

モンスターペアレントがなぜいるのか?それは新教育基本法に原因があるという話のようです。そうすると、モンスターペアレントは法律で認められた存在ということでしょうか?驚きの結論ですが、諏訪氏の論理展開に矛盾はありません。

 

子ども(生徒)が知的・人格的にどれだけ成長したかという「真実」は、子ども(生徒)の満足度とは関係ない。子どもが「自分はこれだけ成長した」と思っても、あまり当てにならない。すべて受け手である子ども(生徒)の意識や満足度に依拠していると、現在の教育のように「商取引」と同じになって、どんどん堕落してしまう。それでもなお、もし、あなたの教師としてやってきたことをどう評価しますかと尋ねられたら、それについては生徒(卒業生)に聞いて下さいと答えるしかなかろう(中略)「真実」の局面ではその成果を自ら「見る」ことはできない。ひとりひそかに「夢」を見るだけであり、その「夢」は生徒(卒業生)の見る「夢」とは同床異夢であることはいうまでもない。だから、教師の力量や力は生徒に聞くしかないのである(47~48ページ)

とっても深い話だあなと思います。生徒の反応を気にしすぎると堕落してしまいますが、一方で、教師が自己採点したところでそれが当てにはならないので生徒に聞くしかない、というのは二律背反的なところがありますが、しかし、世の中にはこういう話はいっぱいあります。教師は独善的にならないと同時に主体性も失わない、ということかなあと私は思いました。

 

教師や学校を語る際に、教師=完成、子ども(生徒)=未完成、という単純な図柄はやめてほしいと思う。だから、教師は「建前」を語るべきであり、あらかじめ権威性を付与されるべきだと主張したいのである(中略)教師と生徒の上下性、教師が教育の営みにおいて優先性を持つことが社会的(世間的)に承認され、生徒本人にも了承されていなければならない(中略)教師はえらいから教師なのではなく、教師だからえらいとされなければならない。子どもが学校へ入ったときから、担任がホントウにえらいかどうかの「真実」ゲームをやらせてはいけない(76ページ)

とても現実的、かつ完成した主張だと思います。おそらく、教師がえらいということも「建前」ということになりますが、しかし、それは学校教育の前提であるとすると、誰がその「建前」を子どもに教えるのか?それは親しかいません。以前(昔)の親は「先生の言うことをちゃんと聞きなさい」と子どもに言いましたが、最近はどうでしょうか?「真実」ゲームは学級崩壊に至りますが、その意味では、学級崩壊の原因は教師ではなく親にあるとも言えます。

 

生徒から「そういうつもりはなかった」という言い訳をよく聞いた。これで終わりなのである。「やったこと」の責任を取ろうとはしない。学校(教師)は生徒に「やったこと」の客観性を教えなくてはならないと思う。それを教えられないと、その子はふつうと犯罪の区別がつかなくなってしまう。生徒を社会に通用する公正な人間に育てなくてはならないと思うからである。だが、八〇年代の親たちはただわが子との蜜月(なれあい)を大切にして、過程を平穏にしておきたいという気配だった。子育ての倫理性がない。子どもを社会的に成長させるという姿勢が希薄だった(107ページ)

刑事裁判では、結果の重大性ということが取り上げられます。起こした結果の程度に応じて責任(量刑)が重くなるということです。これは「建前」です。一方、そういうつもりはなかったから問題ないでしょ、というのはその人の「真実」。でも、その人の「真実」を振りかざしても、刑事裁判では誰も相手にしません。確かに、学校は「建前」を教えなければなりません。親もそれを認めるべきです。

 

この本には有名人の名前がでてきます。

自分たちはきちんと教育ができていると自ら信じ込んでいる尾木直樹氏のグループの一員は、教師と生徒の関係は強制力によって支えられているとする私たちの主張に対抗して、「説得と納得」、という語呂合わせのスローガンを使った。教師は強制力を発揮するのではなく平和的に言葉で説得するのであり、生徒はそれに対して納得するのが教育の筋(合理性)だという。いかにも俗耳に入り易い。つまり、市民派人権派の教師たちは自分たちの説得(言葉による強制)に対して、生徒たちが納得しないという事態をまったく想定していないのだ。これはその内実からして教師が生徒を思うままに動かせるといっているに等しい。相手を対等に見ていない。これでは学校で市民社会の対等な関係を構築すると言い張っても嘘っぱちになるだろう。自分たちの説得は最初から正しいのである。正しいから、生徒は「納得」するはずなのである。つまり、生徒の自主的判断を認めていない。絶対に正しいからこそ、生徒たちは納得するはずだと思っている。まことに一方的な、むしろ、権力的な議論である。私たちが教育や教師の強制的な性格を指摘するのは、教育的な力や教師の指導が絶対に正しいなどと思っていないからなのである(141~142ページ)

尾木直樹氏」とは、現在テレビなどで時々みかける「尾木ママ」のことです。それにしても、諏訪氏の主張はまったく隙がなく、かつ、説得力があります。この諏訪氏の主張に尾木氏がどのように反論したのか、とても興味があります。テレビで対談とかしてれたら、絶対に見ます。

 

儀式における日の丸・君が代の強制(持ち込み)は、国家のメンツや愛国心の問題であるよりは、校長(行政権力)の指導性の確立、職員会議の伝達・連絡機関化、教育自治の空洞化を狙ったものであるという解釈も可能なのである。教員たちも国家の対面や愛国心の問題として出してくれば、それほど抵抗できなかったろう(194ページ)

組合員の多くは日の丸・君が代を受け入れることによって、いままで不在であった校長の権力(ちから)が学校の運営や日常の仕事や勤務の仕方、そして、何よりも、自分たちの転勤に及んでくるのを恐れていたのだろう(209ページ)

 一時世間をにぎわした日の丸・君が代問題。日の丸・君が代を拒否する教師は、(思想としては賛同できませんが)戦前のような日本に戻らないために闘っていると思っていたのですが、諏訪氏の話を聞いてしまうと、うまく騙されてしまったなあ、という感じです。

ちなみに諏訪氏は埼玉県の公立の高校教師でした。おそらく諏訪氏の言う「転勤」とは埼玉県内のある高校から別の高校に職場が変わることを指すのでしょう。しかし、普通の感覚で、例えば、職場が、東京23区内から横浜市内に変わったことを「転勤」と言うでしょうか?どうも高校教師(諏訪氏以外の)の感覚には疑問を感じざるを得ません。