日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

周りの人との会話やコミュニケーションが苦手、下手と思っている方に読んで頂きたい本

「なぜ、あの人の頼みは聞いてしまうのか?-仕事に使える言語学」著者:堀田秀吾、ちくま新書、2014年2月第一刷発行、

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著者の堀田氏は言語学博士(シカゴ大学)。サブタイトルに「言語学」とある理由はわかりますが、それが、なぜ「仕事に使える」のか?「頼み」とは何の関係があるのか?疑問が生じます。

頼み上手な人など、仕事ができる人。その人に頼まれごとをされると、ついつい「はい」と言ってしまう。もしくは、何だかその人が期待しているようにしゃべったり動いたりしているように感じる。あなたの周りには、そのように人を動かすのがうまい人はいないでしょうか?(中略)そのような人たちも、意識的に、あるいは無意識に、「ことばのチカラ」を上手に利用しているのです(11ページ)

タイトルの内容がつながりました。それでは、さっそく読んでみましょう。ここからは、A、B、C・・・というように、内容に応じて分けてご紹介します。

 

A:ことばが人の記憶・認識を変える

リチャード・ハリスという心理学者が1973年に発表した実験で、彼は実験参加者にバスケットボール選手を見せて、身長を予測してもらいまいした。グループを二つに分けて、それぞれのグループに別々の形で質問をしました。一つのグループには、⑤「そのバスケットボール選手はどのくらいの背の高さでしたか?と聞きました。このグループは、平均で190センチメートルくらいという結果でした。もう一つのグループには、⑥「そのバスケットボール選手はどれぐらいの背の低さでしたか?」と聞きました。するとなんとこちらのグループの回答は、平均で160センチメートルくらいという結果になりました(19ページ)

純粋にこの実験結果は驚きです。聞き方しか違わないのに、なぜ、こんなに結果に差が出るのか?答えはこれです。

私たちは、普段、人の身長を聞くときには、たとえ背が低い人についてたずねる時でも、「高さ」と言いますよね?「低さ」とは言わないのです。ですから、もう一方の「低さ」と聞いた質問は「普通」の聞き方ではないのです(23ページ)

そのとおりです。しかし、「低さ」と聞いたからといって、高いものが低く見えるということはありません。なぜ、低く見えてしまうのか?という謎はまだ残ります。

読者のみなさんにぜひ覚えてもらいたい言語学の考え方があります。「有標・無標」と言う考え方です。簡単に言うと、ある状況の中で、普通、標準、当たり前のものを「無標」なものと言います。それに対して、ある状況の中で、異質、非標準、あるいは逸脱しているものを「有標」なものと言います。たとえば、「速さ」や「長さ」や「広さ」を聞く場合には、たとえその質問の対象となっているものが、遅くても、短くても、狭くても「速さ」「長さ」「広さ」という表現で聞くのが普通です。これらは、「無標」な聞き方なのです。それに対して、「遅さ」「短さ」「狭さ」という表現で聞くのは「有標」な聞き方となります。有標・無標の違いは、こういった聞き方の表現だけには限りません。音、単語、文、会話といったあらゆるところに用いられる考え方です(中略)あるものごとが普通なものか、ちょっと違うものかという判断をして、そこに注意を注ぐ仕組み・能力が人間にはあります(24~25ページ)

先ほどのバスケットボールの選手の身長についての質問で、なぜあのような結果の差がでたのか、理由が分かります。つまり、「低さ」という通常聞かない質問、つまり「有標」な質問をしたので、そこに回答者の注意がひきつけられ、身長が低く見えてしまったということですね。しかし、有標・無標の違いは、さらに重要な意味を持ちます。

この有標・無標の区別が、さまざまなことばのチカラを生み出す原理の一つになっている(26ページ)

具体的にどいうことか見ていきましょう。

ロフタスとパーマーが1974年に行なった実験では、150人の実験参加者をいくつかのグループに分けて、同じ自動車接触事故の映像を見せて、その事故について、いろいろな質問に答えてもらいました。その際に、グループごとに質問の仕方を変えました。⑨ それらの車は激突した際に、どれくらいの速さで走っていましたか?⑩ それらの車はあたった際に、どれくらいの速さで走っていましたか?(中略)さらに、ロフタスたちは、一週間後に同じ実験参加者たちに対して「事故を起こした車のガラスは割れていましたか?」という質問をしました。そうしたら、実際にはガラスは割れていなかったのですが、以前の実験で「激突した」という表現で聞かれていた実験参加者たちは、「あたった」という表現で聞かれた実験参加者たちの二倍もの確率で、「(割れているのを)見た」と答えたのです。記憶がゆがめられてしまったわけです(中略)本人が気づかないうちに変えられてしまうのです(29~31ページ)

質問だけで、無意識のうちに記憶が変えられてしまう。ことばのチカラの威力を見ました。しかし、なぜこのようなことが起こるのでしょうか?

こういった記憶の操作に共通していることは、質問が何らかの「前提」を含んでいることです(中略)前提を含むことで、前提で言われている出来事や様子が当然のように受け取られるので、それに私たちの記憶や判断が引っ張られてしまうのです(中略)「激突」ということばは、激しい衝突を想像させるニュアンスを持ったことばですが、それを使うことで、「激しい衝突をしていたこと」が前提となってしまうのです。激しい衝突だったからにはガラスの一つや二つ割れていても不思議ではありません。そういう連想が働き、実験参加者たちは、ちゃんと自分で映像を見ていたにもかかわらず、「激突」ということばのニュアンスに引きずられて、本当は割れていなかったのに、「ガラスが割れていた」と思い違いをしてしまったのです(31~32ページ)

有標・無標の区別は述べていません。おそらく、質問の中に「激突」という言葉によって事故が激しいものであったというイメージが自らの中に形成され、これが無標。それに続く質問に対する回答において、この無標の範囲内で答えてしまう。無標に本人が縛られるということなのでしょう。このように記憶が歪められるのは、質問の巧妙さに左右されるようです。⑨⑩の質問は、事故の激しさについての質問ではなく、事故時の車の速さについての質問であって、「激突した」という言葉は脇役にすぎないのですが、このさりげなく埋め込まれた言葉によって記憶が歪められており、このことから、「ことばのサブリミナル効果」と堀田氏は呼んでいます(32ページ)。この原理を使えば、無標を新たに形成しなくても、元々その人が持つ無標を利用して、その無標の範囲内で記憶を操作することもできてしまいます。

80年代の学園ドラマの先生と生徒がもみ合うシーンを学生に見せて、その中の出来事や登場人物について、わざと情報操作をして質問したりするのですが、見事にみんなひっかかります、たとえば、映像を見た後に、本当は7・3分けの髪型をしている教頭について、「黒ぶちメガネのバーコード頭の人が教頭なのですが、なかなかムカつく役どころなんですよね」などと、解説の振りをしてさりげなく情報操作を行なっておきます。その後、20分くらい経ってから、先ほど見た映像に出ていた教頭先生について特徴を書いてくださいと言って紙に書かせると、まったく頭髪が薄いわけではない教頭先生なのに、なんと約半数48パーセントの学生が頭髪の薄さについて言及していました(中略)このように、後から加えられた情報によって記憶がゆがめられてしまうことを、「事後情報効果」と呼びます(33~34ページ)

80年代の先生に対して元々学生が持っているイメージ(無標)を利用して、それと矛盾しない範囲内で記憶を歪めたという事例ですね。これを日常生活に応用することもできます。

人は、最初により大きな額やより大変なお願いをしておいてから、安い、あるいはより簡単なお願いをすると断りにくくなってしまうのです。これは、心理学で「ドア・イン・ザ・フェイス・テクニック」と呼ばれる説得の手法です。これも最初に出した額が(実は本当はそんなに価値がないとしても!)前提となり、それに対して安くされると、すごくお得に感じてしまい、心が動いてしまうわけです。逆に、こういうチカラについて知識があれば、それを利用した戦略をしかけられたときには、ひっかからないようにする心構えができるかもしれません(35~36ページ)

自動車事故の質問にあるとおり、巧妙に質問しないといけませんので、自分から仕掛けるのは難しいかもしれません。少なくとも、仕掛けられたときにひっかからないようにするという意味では、とても役に立つ知識です。

 

B:ことばが人の意欲・行動を変える

人には他人から認められたいうという「承認欲求」があり、これが自尊心を持つのに必要な要素だと言っています。ですから、相手の存在を認めてあげることが効果的なのです。特に、「君だからこそ」「君だけに」のような、特別感を与える言い方だったら、自尊心を高める上でさらに効果的でしょう。そして、人は、自分のことを良く思ってくれる人のことを良く思います(好意の返報性)。ですから、自分の存在を認めてくれるような好意的なことを言ってくれた人に対して、そう見てくれていることに恩義を感じ、恩返しをしようとします(45ページ)

このことは、頭では分かっていても、行動に移すのはなかなか難しいという話ですね。具体的にどうすればいいのでしょうか?

やる気を長続きさせるためには、何かしてもらったり、できたりしたときに、その都度、ちゃんとことばで評価してあげることです。単に「ありがとう」というだけではなく、どこかどう良かったか、嬉しかったかをちゃんとことばにしてほめるのです(中略)社員としてのデキをほめるよりも、一生懸命さや頑張りをほめるほうが、後々のことを考えると効果的なのです(46~47ページ)

後半は意外です。仕事の出来栄えよりは頑張りの方が、よりその人自身の評価そのものだからという理由でしょうか。続いては、周りの人にお願いするときです。

仕事などで、自分が何かを誰かにお願いするときは、相手の自由を奪わなければならないということを意識して、相手にとって最も自由を奪いにくい言い方をしてあげることが大事です。たとえば、命令文「やって」よりも、疑問文「やってもらえる?」のほうが多少響きが良いのではないでしょうか(中略)「やってくれると助かる」という言い方は、行為を要請する部分を、英語でいうところのifにあたる「~すると」という条件節まで使って間接的な言い方にしています。しかも、最終的に「非常に助かる」という話者自身の状態や感情を述べているだけなので、疑問文以上に相手を制限しない言い方になっています(49ページ)

ここで紹介されている言い方自体はよく知られています。しかし、なぜそういう言い方をした方が相手が聞いてくれるのか、という理由をこのような形で述べている例は珍しいと思います。この場合、マナーとして、礼儀としてという理由が言われることもありますが、それもじつは、同じことを言っているということが分かります。

相手のことを考えているからこそ手間をかけるわけで、まごころの込もった言い方となるわけです。そういう心遣いのあることばだからこそ、相手も妥協しやすくなるのです。人の自由を奪うのだから、それなりにこちらも労力を払う必要がある(中略)ですから、多少、面倒くさくても、手間をかけた伝え方を心がけてみましょう(50ページ)

マナーや礼儀を守って丁寧な(面倒な)言い方をする必要がある理由を述べています。これ以外にも効果的な方法が紹介されています。

人は、機嫌が良いときには、自分の罪の意識に関わらないような明るいお願いには協力するけれども、機嫌があまりよくないときには、自分の罪の意識に関わるようなお願いに協力する傾向がある(中略)たとえば、何か良いことがあってゴキゲンな人には、「寄付をお願いします。子供たちの笑顔のためにあなたの力を貸してください!」のような明るいお願いをしたほうが協力してくれる可能性があるし、ヘコんでいる人には「寄付をお願いします。子供たちを助けなければいけません!」のような義務感や罪の意識をあおるようなお願いのほうが良いということです(54ページ)

人は、自信を失ったり、弱ったりしているときに、好意を示してくれた相手に強い魅力を感じるようになります。仕事で失敗したり、上司に叱られたりして落ち込んでいる人には、優しいことばをかけてあげると好意的になってくれて、こちらが何かをお願いしたときに素直に応じてくれる可能性が高くなります。これは、前述した「好意には好意で返す」という、好意の返報性と呼ばれる原理です。他にも、Let's的な言い方も有効です。人はできるだけ自由にいたいという欲求がありますから、Let'sの形、すなわち「(一緒に)~しましょう」の形で言われると、他のメンバーにも責任が分散することによって自分の自由度が高くなるので、お願いを受け入れやすくなります(55ページ)

人は自分のアイデンティティを刺激してくれるお願いも受け入れやすいという傾向があります(中略)できるだけ聞き手を含む言い方をしたほうが、Let's的なニュアンスも出るので、押しつけがましくなくて、相手も受け入れやすくなります。また、聞き手を含む「私たち」という言い方だと貴族意識を高めることになります。たとえば、「私たちでこのプロジェクトを成功させるのです!」というのと「私たちにこのプロジェクトの成功を見せてください!」というのだと、前者のほうがLet's的ですよね(55~56ページ)

 とても具体的で参考になります。相手の承認欲求を、どのような形で刺激すればいいのか、いろんな場面で必要となることばですね。特に仕事の場面では、どうしても相手を叱る必要があることが生じます。そういうときも、相手の自尊心を傷つけない言い方が求められます。

自分の言いたいことだけを言うのを「アグレッシプ」、逆に意見や主張を言わないのを「ノンアサーティブ」なコミュニケーションと言います。相手を気遣ったことを述べつつも、こちらの主張や要求も率直に伝えていくのが「アサーティブ」(「アサーティブ」というのは、「アサーション的な」という意味)な言い方です(中略)たとえば次のようなものです。「事故にでもあったのかと思ってとても心配したよ。無事で良かった。でも、時間をしっかり守るのは社会人としてとても大事なことだから気をつけようね」。この言い方なら、非難のニュアンスがかなり薄れるので、相手の自尊心を傷つけることがないし、相手の反発心(心理的リアクタンス)をあおることも少なくなります。相手を気遣うことばを発することによって、良好な人間関係も保とうとする「アサーティブ」な言い方が、叱り方のポイントだということがおわかりいただけたでしょうか(59ページ)

 堀田氏はこれに続いて「情けは人の為ならず」ということわざを紹介し、これと同じであると述べています(60ページ)。このことわざ、私はこれまで逆の意味と思っていました。

しかし、いくら言い方に気をつけていても、周りが力を貸そうとは思わないときもあります。

ワイナーという学者の研究(1980)によると、人を助けたいと思うモーティベーションを下げさせる要因には、次の三つがあるといわれています。1 原因が自分にあるのか 2 いつもそうなのか 3 自分でコントロールできるのか これらにどう当てはまるかで、人は力を貸すかどうかを決定するそうです(中略)たとえば、「いつものことだけど、ちょっとのんびりやってたら、今日が締切なのにまだ終わってないんだ。申し訳ないけど手伝ってもらえないかな?」と言うより、「先方がどうしても今日あげてくれって言うんだ。本当に今回だけ、手伝ってもらえないかな?」と言えば、なんとなく力を貸してあげたい気がします(51~52ページ)

悪い例の言い方、言ってる本人は謙遜したり、ウケを狙い(?)なのかもしれませんが、逆効果ということですね。

 

前半はここまでです。後半(C~)は次回ご紹介します。