いままで読んだ文章の書き方に関する本に物足りなさを感じる方や、もっと本格的に勉強したいと思っている方に読んで頂きたい本
〈新版〉日本語の作文技術(著者:本多勝一)、朝日文庫、2015年12月第1刷発行、2017年6月第4刷発行、
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次の2つの文章の意味を1回読んだだけで、みなさんはすぐに理解できるでしょうか?
私は小林が中村が鈴木が死んだ現場にいたと証言したのかと思った。(22ページ)
渡辺刑事は血まみれになって逃げ出した賊を追いかけた。(90ページ)
1番目の文章は、誰が何をしたのかはっきりしません。2番目の文章は、「血まみれになっ」たのは渡辺刑事と賊のどちらなのかはっきりしません。こんな短い文章でも、書き方一つでぜんぜん変わります。こうすればどうでしょうか?
鈴木が死んだ現場に中村がいたと小林が証言したのかと私は思った。(33ページ)
渡辺刑事は、血まみれになって逃げ出した賊を追いかけた。(90ページ)
1番目の文章は語順を入れ替えただけ、2番目の文書はテンをうっただけです。つまり、修飾語と被修飾語の関係をわかりやすくし、テンの打ち方を工夫するだけで、文章は飛躍的に分かりやすくなります。この本は、この2点について説明しています(第3章、第4章)。最初は、修飾語と被修飾語の書き方です。原則を4つ述べています。
ライトを消して速く止まらずに走る。
ライトを消して止まらずに早く走る。(54ページ)
1番目と2番目どちらがわかりやすいでしょうか?2番目ですね。この原則を、「節を先にし、句をあとにする」(53ページ以下)と述べています。続いて2つめの原則です。
明日は雨だとこの地方の自然に長くなじんできた私は直感した。
この地方の自然に長くなじんできた私は明日は雨だと直感した。(68ページ)
2番目の文章の方がわかりやすいです。これは、「長い修飾語は前に、短い修飾語は後に」(66ページ以下)という原則です。冒頭にご紹介した「私は小林が・・・」の文章の例は、この原則の適用例と思われます。3つめの原則にいきます。
初夏の雨がもえる若葉に豊かな潤いを与えた。
豊かな潤いをもえる若葉に初夏の雨が与えた。(73ページ)
1番目の文章がわかりやすいです。これは1つめと2つめの原則だけでは解決でしない場合です。節か句か、長いか短いか、という観点からは語順が決まりません。3つめの原則は、「大状況から小状況へ、重大なものから重大でないものへ」(73ページ以下)です。1つめから3つめの原則では解決できない場合のための原則として、「親和度(なじみ)の強弱による配置転換」(86ページ)があります。原則が4つもあるなんて多いと思う方は、1つめと2つめの原則を最低限知っておけばよいでしょう(86~87ページ)。
次はテンの打ち方です。テンがどれだけ大事かは、最初にあげた例文から明らかです。
病名が心筋梗そくだと元気にまかせて、過労をかさねたのではないかと思い、ガンだと、どうして早期発見できなかったのかと気にかかる(102~103ページ)
この文章、テンの打ち方がおかしいところがあります。こうすればわかりやすくなります。
病名が心筋梗そくだと、元気にまかせて過労をかさねたのではないかと思い、ガンだと、どうして早期発見できなかったのかと気にかかる
テンの打ち方の1つめの原則は「長い修飾語が二つ以上あるとき、その境界にテンをうつ」(104ページ)です。2つめの原則にいきます。
Aが私がふるえるほど大嫌いなBを私の親友のCに紹介した。
Aが、私がふるえるほど大嫌いなBを私の親友のCに紹介した。(108ページ)
「Aが」のあとにテンを入れるだけで、とても分かりやすい文章になります。そもそもテンの問題以前に「Aが」という言葉が冒頭にあること自体が、「長い修飾語は前に、短い修飾語は後に」という原則に反しています。それゆえ、この原則は「語順が逆順の場合にテンをうつ」(109ページ)です。最初にご紹介した「渡辺刑事は・・・」の文章におけるテンの打ち方も、この原則を適用した例です。
3つめの原則は、「筆者の思想としての自由なテン」です。筆者がとくに強調したい言葉があるとき、それをはっきりさせるためにテンを打つ方法があります。2つめの原則がその具体例ともいえますので、3つめの原則はあえて原則として意識する必要はないと思います。
ところで、冒頭の文章「私は小林が中村が鈴木が死んだ現場にいたと証言したのかと思った。」は、修飾語と被修飾語の語順が悪い例として紹介しています。それって、修飾の話ではなく主語と述語の話ではないのか?と思う方もいたと思います。
三上彰氏は日本語の助詞「ハ」について、その深層構造を独自に掘りさげてゆくところから新理論を提出したともいえよう。この結果到達した一つが「主語廃止論」である(178ページ)
文章の書き方に関する本では、主語と述語をなるべく離さないで書くべき、ということが言われますが、これとは逆の主張と言えます。なぜこのような違いが生じるのでしょうか?
これまでの日本文法が西欧文法の直輸入から脱却できていなかったからだ。全く異なるシンタックス(統語法)の主語を土台に発達した文法を、そのまま日本語に強引にもちこんだことに諸悪の根源があるというのである(中略)あの「日本語は論理的でない」という世紀の迷信に、大知識人とされている人物の頭さえ侵されるにいたった現象は、こういう悲劇の結末でもあろう(178ページ)
驚きました。歴史的な経緯は言われるとおりかなと思います。しかし、現実に「〇〇は」という日本語は、ある行為をする者を指す意味として使われており、「主語」がないなら何があるのか、という疑問が生じます。
三上氏は、日本語に「主語」は存在せず、あるのは「主格」にすぎないと主張する(185ページ)
「主格」という言葉は聞きなれませんが、「文の題目を示す」(186ページ)と言われると、分かりやすいです。主語と主格の違いがよく分かる例文があります。
突然現れた裸の少年を見て男たちはたいへん驚いた(189ページ)
「見て」という行為をしているのが「男たち」であるということは理解できます。しかし、「男たち」という言葉は「見て」という言葉の後にあります。「は」が主語を表すとすると、それはあくまでも「驚いた」の主語を表すにすぎず、「見て」の主語までは表しません。ここに、主語と主格の違いがあります。「は」が主格を表すので、この文章の題目は「男たち」であり、それゆえ、「見て」という行為をしたのも「男たち」であるという意味が理解できます(191~192ページ)。
さいごに、これを紹介します。
おもしろいと読者が思うのは、描かれている内容自体がおもしろいときであって、書く人がいかにおもしろく思っているかを知っておもしろがるのではない。美しい風景を描いて、読者もまた美しいと思うためには、筆者がいくら「美しい」と感嘆しても何もならない(中略)その風景を筆者が美しいと感じた素材そのものを、読者もまた追体験できるように再現するのでなければならない(269ページ)
ひとりよがりな文章を書いてはいけない、という意味と感じました。読み手に分かってもらう文章を書く上での基本中の基本です。
こういうことは、文章の書き方に関する本で言われることが多いですが、このような表現でそれを説明してくれた本は、これが初めてです。書くときに何に気をつけないといけないのか、という観点からの方法論が一般の文章本で述べられていることとすれば、これは、書くときにどういう状態・気分であってはいけないのか、という観点からの方法論を述べています。後者は、書き手の視点からの方法論となっています。