日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

すべてのテレビ報道をそのまま信用してはいけない理由がわかる本

テレビ報道の正しい見方(著者:草野厚)、PHP新書、2000年11月第一版第一刷、2002年9月第一版第四刷、

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「短く、テンポよく、わかりやすく、この三つですよ。草野さん」(中略)「ニュースの解説も、キーワード三つなんていうんじゃなくて、一つか二つで説明して頂かないと。朝、見てる人は忙しいですから」16ページ)

 

著者の草野氏がテレビ番組のコメンテーターとして参加することを依頼されたときに、プロデューサーから言われた言葉です。これに対して草野氏は

 

それはわかるけれど、複雑な内外の出来事を、そんな簡単にまとめるなんて乱暴なことが許されていいんだろうか(17ページ)

 

と反応し、とまどっています。事実と異なるあるいは、一方的なテレビ報道がなされる原因は、このギャップにあるようです。

 

1999年のトルコで起こった地震に際して、日本、ドイツ、イスラエルが被災者支援のため仮設住宅を提供する支援を行なっています。NHKはこの3か国の支援を比較取材し、日本の提供した仮設住宅が、配水管の接続不備のため水浸しになりあるいは、ドアの下の穴や戸境の隙間、工期遅れのために入居できないといった問題が発生しており、支援がほか2か国比べて問題があったとのトーンで報道しています。草野氏はこの報道に疑問を持ち、トルコで現地調査をし、次のような結果を得ています。

 

私が日本村で事前の約束なしに会った十一家族のうち、二組を除いて満足という言葉を聞いて安心した。と同時に、いったい、NHKが放送した、「被災者だからといって、ここに入居することを受け入れなければならないのでしょうか」という男性をはじめ、不満を漏らすトルコ人はどこに行ってしまったのかと思わざるを得なかった(53ページ)

 

どうもNHKの報道を額面どおりに受け止めることはできないようです。なぜそのような報道がなされてしまったのかという点がとうぜん気になります。そして、さらに気になるのが、視聴者の反応です。草野氏はODAの専門家であるため報道に疑問を持ちましたが、専門外の人は何の疑問も持たずに報道内容を受け入れています。

 

映像は、できるだけインパクトのあるものが拾われる傾向がある(中略)たとえば、台風上陸シーンの中継時に、雨も風も止み、映像的にはまったくインパクトがなくなってしまったというようなとき、何時間前に倒れたかわからない立ち木を大きくアップすることがある(中略)そうした、作り手の心理がわかっていないと、テレビ番組を、一歩引いて見ることはできずに、一方的にテレビ画面が伝える事柄を真実だと考えやすい(20ページ)

 

テレビの特徴に映像があります。新聞などの活字メディアにはない特徴です。そして、活字は記者が書くものですので、どうしても記者の主観、意見が入りますが、映像は写したままです。つまり、実際そのものです。倒れた立ち木の映像は、まちがいなく事実です。それゆえ、台風の報道のときに写されると、台風のすさまじさをあらわす映像となります。

しかし、その立ち木は台風のせいで倒れたのでしょうか?台風が来る前から倒れていた可能性もありますし、あるいは、台風が来ているときに倒れたとしても、自動車がぶつかったりなど台風とは関係のない原因で倒れた可能性もあります。しかし、倒れた立ち木の映像からは。こういったことが視聴者には分からない一方、倒れた立ち木の存在は事実であるがゆえに、テレビ報道が真実であることを示す根拠として視聴者には受け入れられます。

他にもあります。

 

テレビのもう一つの特性は、映像情報が視聴者に強い影響力を与える一方、視聴者は私的に録画していない限り、見返すことはできないということである。番組の作られ方に多少の違和感を持っても、チェックすることが事実上困難なのである。このことは、製作者側に「どうせ、放送してしまえば終わりなんだから」という安易な気持を起こさせてはいけないだろうか。結果として、事実かどうか曖昧なままに、「テレビが言っていたから」という情報の独り歩きを許すことにもなっている(20~21ページ)

 

たしかに活字メディアにはない特徴です。一方、活字メディアのひとつである週刊誌も、同じような問題があるような気がし、テレビだけの話ではないように見えます。この疑問に対する答えはこれと思われます。

 

米国の番組は、偏った主張を展開していることが視聴者に十分理解されるように留意して放送している。つまり、「不審船」や「神の国」発言を報じた番組の中には、あたかも公平さを装って、特定の結論に導いたものもあったが、そうしたことは、米国では考えられない。少なくとも、公平さを装って一方的な議論を展開するようなことはない(177ページ)

 

「米国の番組」を「日本の週刊誌」に置き換えると答えになります。それゆえ、日本のテレビ報道を見るときには、視聴者がいろいろと注意しなければ、報道をつうじていつのまにか誤った認識を持ってしまいます。草野氏は「装われた公平性」(118ページ)と表現しています。

 

『NEWS23』の筑紫哲也や『ニュースステーション』の久米宏のコメントには、彼らの私見が入っているということを、多くの視聴者は十分に認識しているだろう。しかし同時に、筑紫哲也の隣に座る草野満代のようなサブキャスターのコメントにも注意をする必要がある。一見、原稿を読んでいるだけのように見えて、番組としての意見を述べているということもある。番組のディレクターや、構成作家の意見が反映されているとみてよい。また、有識者の人選や、どのような角度からのコメントが多数を占めているかも重要である(中略)特定の立場からのコメントばかりが目につく番組もあった。録画の場合には、製作者が、都合よく加工している可能性もある(117ページ)

 

こういったことが、どの番組でどの程度行なわれているのかということは分かりませんが、行なわれていてもぜんぜん不思議はありません。

 

一般論としてのジャーナリズム、つまりメディアの多くの人々は、ジャーナリズムの基本は事実を伝えたり、人々への教育機能もさることながら、政府批判、権力批判こそ最も重要な機能とみなしている。こうした立場に立つと、政府の施策はうまくいって当たり前であり、そのことはニュースとしての価値、報道する価値は少ないということになる。結果的に、視聴者や読者には、「失敗」の情報や、「失政」の情報が過度に届くということになる(中略)一般に取材される側を含め、多くの視聴者は、メディアの公平さを信じ、実際に公平に放送されていると考えているふしがある(170~171ページ)

 

これはおどろきました。テレビ報道に問題があるとしても、ふつうはごく一部のケースと思ってしまいますが、この理由からすると、テレビ報道はすべて何らかの問題があると思うしかありません。

報道する側の考える報道のあるべき姿と、視聴者側の求める報道あるべき姿の間には、そうとうギャップがあるようです。極端な場合をのぞけば、なにごとにも、賛成反対両方の理由や事情があるのがふつうです。権力批判ということでそのうちの特定の事情しか報道しないのであれば、本来視聴者が知るべき情報を十分に伝えていない、言い換えれば、報道内容は、特定の一部の側面、事情しか伝えていないと視聴者において割り切るしかないようです。