日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

田舎暮らしに向いている人も向いていない人どちらも、いちどは田舎暮らしをすべき理由がわかる本

田舎暮らしができる人できない人(著者:玉村豊男)、集英社新書、2007年4月第一刷発行、

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なにをもって「田舎」というかと考えると、よくわかりません。そもそもちゃんとした定義があるわけでもないし、必要もない言葉です。一方で、「田舎」という言葉から多くの人が思い浮かべる内容とは?と考えると、豊かな自然、人情、物価が安いなどなどいろいろありますが、共通して言えるのは、「都会」にはない良さがあるということです。でも、こんな「都会」にはないものはどうでしょうか?

 

地元の隣組では、年に何回か、みんなで共同作業をやる行事があります。たとえば、川のゴミさらい、とか。そういうときの集合時間は、午前5時、と決まっています(15ページ)

 

ぜったい都会ではあり得ないでしょう(笑)。こんなのはどうでしょうか。

 

私たちはその村(この地域には村という行政単位はなく、いまは東御市の中のひとつの区になっていますが、ひとまとまりの集落という意味であえて村と呼ぶことにします)にとって、なんと30年ぶりの新入りだったのです。30年前に、すぐ近くの村から、家族が一組、引っ越してきた。それ以来、この村に転入してくる余所者はいなかったのです(45ページ)

 

30年間、住民の構成が変わっていない(正確には世帯かもしれませんが)というのは、ぜったい都会ではお目にかかれません。

この本で紹介される田舎の話は、なかなか衝撃です。タイトルの通り、田舎暮らしができる人とできない人の違いはあると思いますが、この本を読むと、田舎暮らしいいなあとついつい思ってしまいます(自分ができない人であったとしても)。

 

スローライフとは、暮らしに手間をかけるライフスタイルです。なんでも簡単に買って済ませたり、人に頼んでやってもらったりするのではなく、生活に必要なことをできるだけ自分たちの手でこなし、すぐに結果を求めるのではなく、その結果に至る過程を楽しむこと(中略)田舎暮らしは、基本的にスローライフです。どんなにものぐさな人間でも、田舎に住んでいる限り、落ち葉が落ちたら落ち葉を掻き、雪が降ったら雪を掻き・・・最低限生活に必要なことは自分たちの手でやらなければなりません。おカネさえ払えば誰かがやってくれる、ということばかりではないのです。田舎では、暮らしにかかわるもろもろの仕事に時間を取られることが、都会と較べると非常に多い(74~75ページ)

 

田舎といえばスローライフのイメージですが、ぜんぜん「スロー」ではない。むしろ、自分でやらないといけないことが都会のときよりもいっぱいあって、忙しいぐらい。めんどくさいといえばめんどくさい。でも、あえてめんどくさいことをすることが楽しいということもありそうです。それに、都会で会社で働いていても、めんどくさいことはいっぱいあります。めんどくさい点では都会も田舎もお互いさまですが、違うのは、田舎の場合は、自分のために必要なことばかりという点でしょうか。この話は、さらに広がりがあります。

 

田舎暮らしには、ものを買わずに自分でつくる、人に頼まず自分でやる、など、経済外的な活動がかなり関係してきます。すべてがおカネに換算される世の中で、おカネに換算することのできない(つまりカネで買えない)仕事をやることは、大きな癒しになる可能性を秘めています(99ページ)

 

この話にはたとえ話があります。

ある町に大工さんと水道屋さんがいます。大工さんの家は水道が壊れている、水道屋さんの家は台所の棚が壊れている、そこで、お互いが相手の家に行き壊れているところを治してあげます。無料というわけにはいきませんが、それぞれ工賃が2万円ということにしようということで話はまとまったのですが、そうであれば、わざわざお金のやりとりをするまでもなく、お互い代金はチャラということにしましょう。(96~98ページ)

いわば物々交換という感じです。この場合、お金としては動いていませんが、壊れたところはちゃんと治っている、つまり生活の質は保たれているわけです。しかも、お金のやりとりをしていないので、純粋に人のために何かをしたという満足感も得られますし、お金のやりとりをしていないので税金の対象にはならず、お金のやりとりをした場合に比べて節税にもなっています。

田舎暮らしだとなんでも自分でしないといけないのですが、それゆえに、こういった物々交換が成り立つのです。

 

実はこの私も、田舎暮らしをはじめるまで、自分が原稿を書いてもらった原稿料は、自分ひとりで稼いだものと錯覚していました。社会的な報酬を得る仕事のために、どれほど妻や家族のプライベートな支えが必要か、気づかなかったのです。田舎暮らしはスローライフですから、毎日を暮らすのにさまざまな手間がかかります。その全部をひとりで引き受けていたとしたら、私はおそらく原稿を書く時間を確保することはできないでしょう(中略)たとえ私が自分の頭と手を使って書いた原稿で十万円を得たとしても、その半分は妻の稼ぎだということを本当に理解したのは、田舎で畑仕事をやるようになってからのことかもしれません(105~106ページ)

 

田舎暮らしでは、しないといけない家事の量が都会のときよりも多い上に、お金を払って誰かにやってもらうという選択ができないので、妻や家族の支えに気づきやすくなります。田舎暮らしは、家族関係も良好にする効果がありそうです。

 

いくら予定を立てても、そのとおりいくとは限らない。相手は天気と植物だから、雨が降れば作業のスケジュールは遅れるし、温度や湿度によって生長のスピードが変わったり、病気が発生したりする(中略)収穫直前まで育てたとしても、台風が来たらいっぺんで倒れてしまう。畑仕事は想定外の出来事の連続です。こういう仕事を毎日やっていると、だんだん肝が据わってきます。やることはやらなければいけない。だが、できることには限りがある。自分の意思でコントロールしようとしても、コントロールできないことがある。だから、人事を尽くして、天命を待つしかない。達観というよりはあきらめに近いかもしれませんが、毎日の労働と生活から得られるこうした実感を、私は「農業的価値観」と呼んでいます(166~167ページ)

 

昨年、仕事で大きな失敗をしてしまったことがあり、それ以来、「過信」しないということを意識しています(そのときのブログはこちら)が、それに近いのかもしれません。農業はいくら自分がやっても手の届かないところがあります。なので、自分がここまでやったからうまくいくはずである、なんていう過信は、すぐに台風に吹き飛ばされてしまいます。玉村氏の悟りは、田舎暮らしから得られたものですが、田舎都会をとわず、どこにいても必要だし、通用することだなあと感じます。田舎暮らしができない人は、田舎暮らしと都会暮らしを半々でするのがいいのかもしれません。