日々読書、時々一杯、折々投資

モグパクです。都内で働くサラリーマンです。 新書・文庫を1日1冊読むのを日課にしてます。あと、酒(主に日本酒)を飲むこと、投資をすることが好きです。

生きること、こころ、時の流れとは何か、この本を読んでも答えは出ませんが気持は落ち着きます

わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座(著者:鷲田清一)、ちくま新書、2010年3月第一刷発行、2010年8月第二刷発行、

ーーーーーーーーー

多くの宗教は、「ただ生きる」ということが何かの欠如なのではなくて、それこそがひとつの奇跡的とも言える達成だと教えます。欲望とか煩悩とか、「ただ生きる」こと以上のことを願うから、迷いや苦しみが生まれるのだと教えます。でも「ただ生きる」ことすら他人のあいだでしか、あるいはいろいろと複雑な組織のなかでしか可能とはならない以上、考えることをやめて「ただ生きよう」としても、それはほとんど不可能なことです。だからどんなふうに考えたらいいか、どういうふうに考え方を変えたらいいかを、いつも考えてしまうのです(13~14ページ)  

 

わたしは逆だと思っていました。何も考えずに「ただ生きる」ことがいけないことだと。何かを考えるからこそ欲望や煩悩が生まれるというのは、人生をみごとに喝破したという感じです。逆説的ですが、現実はそうはいかないからこそ、宗教が必要なのでしょう。

 

けれども奇妙なことである。一度も見たことがないのに、そして各人が「そこにある」と思う場所はまちまちなのに、それでもみながひとしく「こころはある」と考えるのはどうしたわけだろう。よくよく「こころ」とはどういうものなのか(中略)見たこともないのにとても大事なものと多くのひとが考えている。それにしても、見たこともないのにひとはどうしてこころはあると思うのか(24ページ)

 

「こころがない」なんて言われたら、人として完全に否定されていることを意味しますが、たしかに「こころ」って何?見たことあるの?と言われると、いずれもないです。でも、「こころ」はとても大事なものとみんな思っている。不思議です。では、こころはどこにあるのか?頭、胸、腹?どれも考えられます。

 

悔しくて唇をじっと噛みしめるとき、気合いを入れようと括約筋をじっと締めるとき、大事なひとの安全を祈ろうとしっかり掌を合わせるとき、そのときその皮膚が合さった場所にこころはあると、セールは考えるのである。このように言いきるにはまだまだ検討しなければならないことがらが多いものの、「こころ」や「意識」の存在を身体の挙措とは別の次元に想定するこれまでの考え方から気持ちよく離陸しているとは言えそうだ(31~32ページ)

 

たしかに、その瞬間、ふだんは何の気持も表さないところに気持ちがあらわれています。こころが存在するのかもしれません。

 

わたしの「こころ」はわたしには見えない。それは、わたしの名前がそうであったように、あるいはわたしの「こころ」のかたどりがそうであったように、まわりの他者から贈られるものなのだ。大事にすることが「こころ」を生む・・・。他者に大事にされることでかろうじて繕われる「わたしのこころ」、それはわたしには、いつかだれかによって大事にされたはずのものとしてしか感受できないものなのである(中略)こころはその意味で、育まれるものである。それは、思いやりのなかではじめて見えてくることである。壊れてしまわないかと気遣って、いたわり、大切にするなかで子どもの「こころ」は生まれ、そこに住む一人ひとりがその佇まいに思いをはせ、さりげなく拾ったりすることろで、まちの「こころ」は育まれる(33~34ページ)

 

先ほどのセールの説は、こころが現れるときの話とすれば、この部分は、そもそもこころはどのようにして形成されるのか、という話ということになりそうです。どちらの説も、いっけん奇抜に見えますが、よく考えてみると、ふだんわたしたちが感じる実感ととても一致しています。

 

では、〈時〉のなかにあって〈時〉の移ろいをどうして知ることができるのか。それは、川面にともに漂うものをじっと眺め、それが変化すること、わたしから離れてゆくこと、視野から消えてゆくことをまじまじと感じることによってである。その意味では、消失の経験、離別の経験こそが〈時〉の移ろいを浮き立たせる。だから、つねに「いま」が沸騰している幼児には〈時〉はない。自分にとってはなくてはならないもの、大切なひと、そういうものが自分からむしり取られてしまうという痛い経験のなかで、ひとは何かの不在を思い知らされ、〈時〉の移ろいに感じ入ることになる。消えたものへの思い、そこに〈時〉は訪れる。しかしと言うべきか、だからと言うべきか、その〈時〉の訪れはひとによって異なる。何かがわたしから離れてゆくこと、それは物との関係においてはすぐに気づかれることだが、ひととの関係においてはそれがなかなか気づかれない。身近なひとと共有していると思っていたその時間が知らぬまに離れてゆく場合には、とくにそうである(73~74ページ)

 

年をとるほど、人との離別、消失を経験することが増えてきます。よく、年をとるほど時のすぎるのを早く感じる、ということがありますが、納得です。それまで身近だった人が、あるとき、一方の人だけ気持ちが離れてしまい、それで離別になってしまうということは、人間関係においてとてもつらいことです。それが、同じ時の移ろいでも、人によってそれが異なってしまう、つまり、ある人の中では時はそのままで、一方の人の中では時が移ろっているということの現れであるというのは、人間関係がなぜ変化してしまうのか、とても説得的に説明しています。それにしても、同じ時の話でも、哲学者(鷲田氏)と科学者ではぜんぜん考え方が違います。

 

mogumogupakupaku1111.hatenablog.com

 

 

生きること、こころ、時の流れ、どれもとても簡単なことばかりとおもっていましたが、じつはそうではありませんでした。わかっていないことが、よく分かります。ふつう、不安を感じるものですが、なぜかまったく感じません。わたしだけでなく、ほかの人もみんな分かっていないにちがいないという気持からでしょうか?むしろ、分かっていないのに分かっていると思っている状態の方が不安を感じるのかもしれません。