日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

なぜこんなに不安なのか、つらいのかという原因が何となく分かる本

わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座(著者:鷲田清一)、ちくま新書、2010年3月第一刷発行、2010年8月第二刷発行、

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幼子から青いひとまで、共通しているのは、ことがらには一つしか真理がないこと、そしてその真理はいまあきらかに「われ」の側にあるという確信だろう。納得はゆかないが受け容れざるをえない、理不尽でもそうするよりほかない・・・。そんな思いを淡々ため込んでゆくうち、ひとは、「理解」にもいろいろなかたちがあることに気づくようになる。言葉で言えば、分かる、解る、判る、思い知る、承服する、納得するといったかたち(17~18ページ)

 

自分がぜったい正しいと思っているなんて言えば、まわりからとんでもない思い上がった発言だとして、叩かれるのがオチでしょう。それゆえ、ふつう、誰もそんなことは言わないし、あるいは、自分はそうは思っていないと考えています。しかし、著者の鷲田氏は、それが「共通している」と言い切っています。たしかに、本人が意識していないからそう思っていないということにはなりません。そして、「理解」という意味を表す日本語が多様であることは、「共通している」ことの証拠でしょう。

 

顔の背後に何かを想定すれば、顔はなるほど「表面」になる。それが表しているひとの「こころ」とか、「人格」とか、「内面」とかを想定すれば、顔はそれの表出、つまりは外への現象形態だということになる。「作り顔」というのも、そのような内部が顔の背後に存在すると考えると納得できる。顔はたしかに「作れる」。それでその内なる何かを「繕う」ことができる。顔がもしたんなる「現象」であるとすれば、わたしたちは顔よりも顔の背後にあるものに関心をもっているということになる。ひとの顔をうかがうということは、たしかにその表情をつうじてそのひとの真意を推し量るという面がある(中略)が、これは顔の背後が見えたということではない。別の、これまで見えなかった顔が見えたということだ。つまり、顔をめくればもう一つの顔が見えたということにほかならない。その意味では、ひとの存在はどこまでも顔として現われる、めくってもめくっても顔として現われる・・・。そのように言うほかない。本物か偽者かという区別は、その背後に想定された「存在そのもの」をそのまま表出しているか、それともそれを歪めたり覆ったりしているかという区別でしかない。が、顔はさまざまな現われ(何かの現われ)のなかの一つの特殊な現われなのではない。顔はむしろ、背後というものを前提しない、背後より先なる、言いかえると何かの現われという記号作用よりもさらに先なる、現われそのものであると言ったほうがよい。先にも見たように、日本語の「おもて」という言葉が「顔」と「仮面」の区別に先立つような顔についての経験を言い当てていると思われる。とすれば、顔とはつまり、何かとして現前しえないというかたちで現前してくる、あるいは、消え入るというかたちでしか現われない、そういう逆説的な現象であるということになる。そうして「表情」とは、意味に拉致された顔でしかないということになる(93~94ページ) 

 

とても難しい表現が続きます。でもわたしは、こういう表現が好きです。正確に理解できているか自信がないのですが、そのときに写る顔それぞれが顔であり、それ自体が存在であるという意味であるということかと理解はしたのですが、では、何の存在なのか、というところはよくわかりませんでした。一方、そのときそのときで、同じ人でもその写る顔は違いますが、どれかが本当でどれかが偽者という区別はなく、すべてその人の顔であるということなので、顔の後ろに何か別のものを想定するのかしないのか、という点で、顔がその人の内面を表すという考え方とは大きく異なるということは間違いないようです。あるいはもう一歩進めて、顔がむしろその人の内面に影響するという言い方もできるのかもしれません。ひとの「こころ」はどこに存在するのか?という話につながっているような気がします。

 

mogumogupakupaku1111.hatenablog.com

 

「責任」というこの言葉、英語ではリスポンリビリティ(responsibility)である。この語には、日本語の「責任」という言葉からは感じられない独特の含意がある。リスポンシビリティとは、文字どおり訳せば、「リスポンドする能力」、つまり他者からの求めや訴えに応じる用意があるということである。さらにラテン語源に分解すれば「だれかからの約束に約束し返すこと」(re-spondere)という意味である。日本語で「責任」と言えば、国家の一員としての責任、家族の一員としての責任というふうに、組織を構成する「一員」として果たさねばならないことがらを思い浮かべる。が、それは匿名の役柄における責任であって、まぎれもなくこのわたしがいまだれかから呼びかけられているという含みはない。これに対して欧米のひとたちは、伝統的に、ひととしての「責任」を、他者からの呼びかけ、あるいはうながしに答えるという視点からとらえてきた。この他者はかれらにとっては神でもある(中略)考えようによっては、阪神淡路大震災のあと、空前のヴォランティア・ブームが起こったときにひとびとがとっさに抱いたのは、この、いま自分が呼びだされているという感覚ではなかったのかと思う(100~101ページ)

 

「責任」には2種類あるようですが、自分としての「責任」がなにか、ということをふだん意識することはありません。仕事をしている自分以外の自分というのを意識することがない、ということでもあります(そういう時間がないという意味ではなく)。あるとすれば、社会人になる前まででしょうか?社会人を境に、自分としての「責任」が、仕事上の「責任」に置き換わっています。一方、同じ社会人でも、会社員ではなくたとえば、自分で会社を作っている人の場合、2種類の「責任」が一体となっているパターンで、意識はしていないかもしれませんが、「責任」は果たしています。

 

「世話になるばかり、迷惑かけるばかりで、ひとに何もしてあげられないこんなわたしでも、まだここにいていいのだろうか」・・・。そんな悲しい問いが老いとともに頸をもたげるようになる。理由ははっきりしている。わたしたちの社会がとことん「する」の論理で成り立ってきたからである。ひとの存在価値を業績で測る、何をするにも能力と資格を問題にする、何をするにも効率と成績を問題にする・・・(中略)何をするにも資格と能力を問われる社会というのは、「これができたら」という条件つきでひとが認められる社会である。裏返して言うと、条件を満たしていなかったら不要の烙印が押される社会である。そのなかで、ひとはいつも自分の存在が条件つきでしか肯定されないという思いをつのらせてゆく(中略)条件つきでしか自分が認められない社会のなかで、自分が生きつづけられるか、ひとはいつもその不安に苛まれる。その不安を鎮めるために、条件をつけないで自分の存在を肯定してくれるようなひとを求める。自分をこのまま認めてくれるひと、自分の存在を条件つきではなく肯定してくれるひとを求めるようになるのである。このままこの自分に関心をもっていてほしい、自分をずっと見守っていてほしい、というわけだ(136~138ページ) 

 

冒頭は老人の発言のようですが、話自体は、子供、若者、老人、誰にでも当てはまります。現代社会でひとが抱えている不安というのは、ここに根源があるのかもしれません。また、日本は高齢化社会ですが、ほんらい、高齢になるつまり長寿ということは良いことですが、そういう響きはありません。さいきん、定年延長とか、従来であれば働かない年代の人にも働いてもらうという話がでています。高齢者が働いてはいけないとは全く思いませんし、この話の背景には、年金財政の問題とかがあるのは分かっていますが、働かない高齢者は悪いみたいな話になると、まさに「する」の論理の影響が出てしまいます。

 

入学試験や模擬テストを受けるとき、試験問題がくばられるとまずぱらぱらと頁をめくって、やったことのある問題、かならず解ける問題を探し、次に見たこともない問題、何が問われているのかさえわからないそういう問題を見つけて捨て、それからかならず解けるその問題で最低点を稼いで、あと残りの時間は、グレーゾーンにある問題、つまりひょっとしたら解けるかもしれない問題に集中する。けれどもこの方法を社会の現実に適用すればたいへんなことになる。変動期にある社会は、さまざまの構造的な問題を内蔵している。これまでの尺度では測れないような困難な問題をである。そのような複雑な問題に直面したとき、まずはわかるところから対応するというのならまだしも、いま起こっている理解困難な問題、その本質がだれにもまだ見えていない問題を、自分がこれまでに手に入れた理解の方式で無理やり解釈し、歪めてしまうというのは最悪の対処の仕方であろう。わかっているものだけで解釈するというこのことが、先に述べた「極・単な思考」を招きよせる(180~181頁)

 

受験勉強ができるからといって社会で役に立つとは限らない理由のひとつがこれです。同時に、これは、わたし自身の戒めです。受験勉強ができるとかそういう話ではなく、新しい問題を聞いて、これまでの考え方を当てはめて分かった気になる、あるいは、それができることが良いことだ、という思考は良くないということが分かります。「〇〇は、△△と同じ話でしょ。これまでもあったよね。」と言う人いますが、これは要注意でしょう。

 

いちばん大事なことは、すでにわかっていることで勝負するのではなく、むしろわからないことのうちに重要なことが潜んでいて、そしてそのわからないもの、正解がないものに、わからないまま、正解がないまま、いかに正確に対処するかということなのである。そういう頭の使い方をしなければならないのがわたしたちのリアルな社会であるのに、多くのひとはそれとは反対方向に殺到する。わかりやすい言葉、わかりやすい説明を求める。だが大事なことは、困難な問題に直面したときに、すぐに結論を出さないで、問題が自分のなかで立体的に見えてくるまでいわば潜水しつづけるということなのだ。それが、知性に肺活量をつけるということだ(183ページ)

 

わたしたちはついつい、困難な問題にぶつかりそうになると、それを回避しようとします。あるいは、安易な方法を選んでしまいます。よく、選択肢が2つあるときは自分にとって大変な方を選べと、自己啓発本に書いてあります。わたしは、それは理屈はそうだけど、苦労したからといっていいことがあるとは限らないなあと思っていましたが、先ほど紹介した受験勉強の話の部分とセットで読むと、鷲田氏の説明はとても理解できます。それにしても、「知性に肺活量」とはうまい表現です。