日々読書、時々一杯、折々投資

モグパクです。都内で働くサラリーマンです。 新書・文庫を1日1冊読むのを日課にしてます。あと、酒(主に日本酒)を飲むこと、投資をすることが好きです。

自分の考えを大事にするということはどういうことかを教えてくれる本

反〈絆〉論(著者:中島義道)、ちくま新書、2014年12月第一刷発行、

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「絆」ということばは昔からありましたが、3.11、東日本大震災をきかっけに、再発見され、すっかり日常的に使われるようになりました。

 

三年前の東日本大震災以後〈絆〉という一文字が日本中を支配し、それは大きな権力・権威となってわれわれを支配するようになった。私はそれに対して限りない居心地の悪さを覚えている。〈絆〉という一文字の絶対化が人の目を曇らせる、細かく微妙に動く人の心の動きを見せなくするのだ。かつて「お国のため」という言葉の絶対化が人びとの口をつぐませたように、人々から批判的に考える力を削ぎ落とし、ただひたすら定型的な言葉を発して外形的に動くことを強制するのだ。〈絆〉とは麗しい言葉である。だからこ、そこには人を盲目にする暴力が潜んでいる。本書で私が語りたいのはこのことである(13ページ)

 

「絆」という言葉に対して人が感じるイメージ、良いイメージもあるでしょうけど、悪いイメージもあるかもしれない。あるいは、地震と絆って何の関係があるんだろう?と内心思っている人もいるかもしれない。でも、いまの世の中、そういうことを発すること自体難しい。はばかられる。そして、このような話は、世の中という広い単位ではなく、たとえば、会社、家庭、人間関係の中でいろいろとあります。これもいわばみんな「絆」ですが、そういう「絆」の中で、人が自分の思っていることをそのまま発言する、あるいは思ったとおりに行動することには、いろんな制約がある。それにどうしても我慢できない時どうすればよいのか?ということがこの本のテーマだと思います。

 

死とは、それぞれの人の死であって、死者の数はまったく問題にはならない。「哲学的には」という限定をつけてもいい(中略)よって、死者の数も、死に方も、各人に確実に訪れる死の絶対的なあり方にとっては本質的ではない。アウシュヴィッツ絶滅収容所で死ぬ人も、同時多発テロの犠牲者となって死ぬ人も、東日本大震災による津波に流されて死ぬ人も、一一〇歳で天寿を全うして死ぬ人の死ぬこと自体に関して変わりはない(中略)よって、今回の東日本大震災は、死という観点から見ると、死者の数が一万六〇〇〇人を超えたから大問題なのではない。声を大にしてこのことを訴えたい(16~17ページ)

 

これはとても独特な考え方です。わたしは、この考え方が正しいかどうかということは、いまここでは問題ではないと思います。ただ、本人が正しいと思っているかどうかが重要にすぎず、そして、重要だと思っていることを、自分の意見として表明する、その意見に基づき行動することが可能か、ということが問題だと思います。

 

とくに、〈絆〉のような「道徳的に善い」とみなされている概念に関しては、「いまは考えているより行動してほしい」という要求が強くなり、そういうときにこそ人々の思考は粗くなるゆえにー個人としてはいかに行動してもいいけれどー哲学者としては、むしろじっくり腰を据えて根本から考えるべきだと思う。でなければ、誰が考えるのだろうか?(19ページ)

 

哲学という学問、哲学者という職業がなぜこの世の中に存在するのか、必要なのか?という問に対する答えのひとつです。たしかにそうかなあという気がしますが、いまいちピンとこない。

 

つい先日佐世保で女子高生が同級生を殺害する(しかもその身体の一部を解剖する)という事件が起こったが、その後、佐世保の市教育委員会が取り組んでいることは「命の大切さ」を子どもたちに教えることである、というテレビのNHKニュースを見て、「またもや」という違和感を覚えた。「命の大切さ」という一般的レベルの教育ではダメなのだ。いかなる天でいかなる命が大切であるかを具体的に教えなければならない。命を大切に考えている人々がなぜ殺し合うのか、命を大切に考えているアメリカ政府がなぜ人質救助を最優先にしないのか、命を大切にしているわが国でなぜ死刑制度が存続しているのか、命を大切にしている人間がなぜ他の動植物の命を奪い食べるのか・・・というようなどこまでも「具体的な」テーマを取り上げなければならないのだ(34ページ)

 

これはなっとくです。こういう視点、考え方は、普通の人には出てこない、言い換えれば、哲学者でなければできないものですし、かつ、こういう考え方は世の中に必要です。なぜなら、このような考え方に基づいて教育をしなければ、ふたたび同じような事件が起こってしまうかもしれないのですから。それゆえ、哲学者という職業が存在する必要があるということになります。

 

できれば、こうした当方もない生き方をしても排除されないだけではなく、まさにそのことを職業にできる場を確保することである(中略)では、そういう場がはたしてあるのか?「自由業」の荒波に船出する覚悟がないのなら、地上に一つだけある。それは、大学の哲学教師である(177~178ページ)

 

とってもリアリスティックな考え方です。すごいです!哲学者というと浮世離れしているイメージがありますが、とんでもない。考え方は浮世離れ、言い換えれば普通の人とは違うものであるとしても、生きるために食べるためにどうすればよいのか、というのは、みんな同じ条件で何とかするしかない。そうであれば、リアリスティックになるしかないということですね。中島氏の言うことはよく分かります。

一方、そこまで苦労して普通の人と違う考えをもつ意味があるのか?という疑問が生じます。本来は、自分がどう思うかであって、それがどういう意味があるのか、という話ではありませんが、ふつう感じてしまう疑問です。

 

信念や感受性のマイノリティは、大変苦労する人生を歩まねばならないが、その代償といて宝が与えられる。それは、マジョリティの生き方(思想)がほぼわかったうえで、それとの自分のズレを反省できること、そして場合によって、それに従ったり従わなかったり調整できることである。つまりこうした闘いによって、マイノリティは「普通の始点」と「特殊な視点」という二重の始点を獲得でき、二倍も人生が豊かになるのである(59ページ)

 

なるほど。いわば、ちょっと変わった人生を送ることもできるし、普通の人生も送ることができるし、ということでしょうか。これは分かります。

 

カントは意図的に「私的」と「公的」という言葉を常識と逆転して使用している。国立大学の教員すなわち国家公務員として発言することが「私的」なのであり、イマヌエル・カントという一私人として発言することが「公的」なのだから。(こうした転倒した用語法をも含めて)ここに私は、カントのプロイセン国家に対するぎりぎりの抵抗を看て取る。この書の九年後に彼は『単なる理性の限界内における宗教』という著作にいよって、プロイセン政府から告発され、講義禁止の処罰を受ける。カントは、一応その処分を完全に受容し、そして、国王が代わり危険が去ったとき、「処分などなあったかのように」自説を語り続ける(101ページ)

 

マイノリティの人生は大変と一言で言っても、大変さはすぐにはわかりません。カントのケースは時代背景が違いますが、それでも、自由に発言できないという点では、現代とそう変わらないでしょう。自分の考えを守りつつどう折り合いをつけていくのか、カントの知恵と苦悶がとても強く感じられます。

哲学教師という仕事は、誰にでもつける仕事ではありません。誰もがカントや中島氏のような頭脳を持っているわけではなく、というかふつう無理でしょう。では、どうすればよいのか?

 

当然のことながら、大学にも〈絆〉はある。大学に職を得た瞬間から、私はそこからの「自由」を夢見ていた(中略)大学を辞めてどうやって飯を食うのか?印税だけでは不安である。だが、これまで数々創った「会」に関するハウツーを財産に「哲学塾」を開設し、その聴講料と印税との二本柱で行けるのではないか?大学に勤務していた二五年間の後半は、そのことばかり考えて過ごした。そして、一〇年間の準備期間を経て、いよいよ与えられた〈絆〉からは自由であり、自分が創設した〈絆〉のうちで〈のみ〉生きるという老後に突入したのである(178~179ページ)

 

中島氏が、哲学教師という方法に代えて、自分の考え方を発言し、それに基づき行動する自由を得るために採った方法は、中島氏ならではのユニークな方法で、これもふつうは無理でしょう。具体的な方法は各人が自分で探すしかありませんが、わたしが中島氏の行動から見習うべきと思うのは、それを実現するために、ものすごい努力をし、犠牲をはらっている点です。先ほどのカントも、プロイセン政府から処分を受けている間はそれに従うという意味で多大な犠牲を払っています。

 

わたし自身、自分がふつうそうだろうと思うことを言うと、周りから時々、それはふつう思わない、ちょっと変わっていると言われることがあります。カントや中島氏と比較するのはおこがましくかつおそれおおいですが、方向としては同じタイプの人間だと思っています。カントや中島氏が、それを貫くためにとてつもない苦労や犠牲を払ったことを思えば、自分はまだまだというか、ぜんぜんできていないなあと反省しました。人生80年とすれば、まだまだわたしにも残された時間はたくさんあります。このタイミングでこの本に出会えてよかった。

 

さいごに、話は別ですが、ある別の本を読んでいたとき、中島氏について、

 

F:元は学者だったのだろうが、いつしか一般向けエッセイを量産する、あるいはテレビタレントのようになってしまった人

 

という評価を目にしました。これを読んで以来、中島氏の本を読むことにためらいを感じていましたが、こんかい実際に読んでみて、それがかんぜんに杞憂だったことが分かりました。この評価が間違いということではなく、評価にはいろんな観点、視点があるということをあらためて実感しました。ある別の本に興味を持たれた方は、こちらをご覧ください。

 

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