日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

ただ本を読むことが「読書」ではない、「読書」の奥深さを教えてくれる本

知的生活の方法(著者:渡部昇一)、講談社現代新書、1976年4月第1刷発行、2017年10月第85刷発行、

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いわずとしれた名著です。「知的生活」という言葉のイメージは人それぞれですが、一度は憧れたことのある生活と言えるでしょう。また、昔と今でも違いますが、いまでいうと、個人ブロガーも、これに入るような気がします。そう考えると、「知的生活」とは学者のような一部の人の話ではなく、けっこうふつうの人に関係する話ということになります。

 

漱石にしろ、芥川にしろ、谷崎にしろ、本物だから、成人になってその味がわかる年ごろになってからでもおそくない。ところが成人になったことにはそういう本格的なものを読む人が少ないのがむしろ日本の読書界の欠点なのではないか(中略)先ばしって、大人の読むような傑作を子供の読書指導などですすめることが、大人になった日本人の読書生活を乏しいものにしているのに関係があるのではないだろうか(37ページ)

 

どのような形の「知的生活」であれ、読書のない「知的生活」というのはあり得ないでしょう。しかし、大人になってからの読書生活を振り返ると、なかなか寒々としたものがあります。そのひとつの原因がこれかもしれません。たしかに、夏目漱石を小学生や中学生のころ読んだことはありますが、大人になってからはありません。しかし、もともと夏目漱石の本は、子供向けというわけではありません。そうすると、こういった本を大人になってから読んでいないというのは、本当は得られたはずの楽しみを、しかも大きな楽しみを、みすみす失っているということにもなります。

 

ふと思い当たるところがあって、一昨年、前にふれたハマトンの『知的生活』をもう一度読みかえしてみたところ、この奇妙な現象の説明になるような叙述に出会った。ハマトンは学生のときから、何度か読んだのに、体験的にピンとこないところは、読んでも少しも記憶に残らないものだということを、改めて発見したようなことになった(170ページ)

 

子どものころ読んだ本だけでなく、大人になってから読んだ本であっても、同じことが言えるようです。

 

まず、二、三年前に読んでおもしろかったと思うものを片っぱしから読みなおしてみられるとよい。そしてなん冊か読みなおして、おもしろかったらそれだけをとっておき、また来年かさ来年に読みかえしてみるのである。そうしつづければあなたの古典ができ、いつの間にか読書趣味が鋭敏になっており、本物の読書家の仲間に入っていることになるであろう(67~68ページ)

 

思うのは、何回でも読み直したいという本に出会えた人はとても幸せだということです。そういう本がある人はまさに「読書家」だし「知的生活」をしているといえるでしょう。

 

知的な生活が細々とでも続いている確実な外的指標としては、少しづつでもちゃんとした本が増えているかどうかを見るのが、いちばん簡単な方法である(中略)この主婦の書棚には、本がわずかながらも確実に増えているのである。その増え方は、今の私が一ヶ月で買う分量が十年近くもかかって増えるといった程度のゆるやかなものだ。しかし増えている本はちゃんとした本である。多忙な主婦でも、確実に知的生活をしていることはこれを見ただけでもたしかである(中略)本を買いつづけることは、知的生活者の頭脳にとっては、カイコに桑の葉を与えつづけることに匹敵するようにさえ思われる(91~92ページ)

 

量より質、継続は力なり、ということわざ思い浮かびます、さいきん本を買っているか、どんな本を買ったのか、ということを考える必要があります。

 

ここには知的生活の根本的な営みのあり方が示されている。それはひとくちに言って、「静かなる持続」である。スキートのような仕事をやりたかったら、一日なん時間も(スキートは、はっきりmany hoursと言っている)その仕事にかかっておらねばならぬ。そして夏休みやクリスマスの休暇をとる以外は、一年中やらなければならない。これによって急ぐことなく、心の平成を失うことなく、充実した知的生活を楽しみ、恒久的に価値ある巨大な仕事が後に残ったのである(157ページ)

 

継続は力なりということわざのとおりですが、とても長期の、気が遠くなるような、一生ものの話です。こう聞くと「知的生活」は大変そうですが、見方を変えれば一生継続しても飽きないということもでき、「知的生活」は楽しそうです。しかも、すごい頭がよくないとできないというわけでもなく、むしろ、意思の力と努力によりできる話のようですから、じぶんでもできるかもと思えます。

 

たしかに過食ほど頭の働きに悪いものはないと思う。自分ができないことを人にすすめる権利はなさそうであるが、当面の目標として、私は夕食の量を今の半分にしようと考えているところである。ちなみに、カントは、夕食は全然とらなかった(198ページ)

 

なやましい話です。食べることも生活における楽しみの一つです。でも、食べない方が良いかもと思うことがあります。たとえば、お昼を一食浮かせれば、新書本を1冊買えるぐらいのお金になりそうです。しかも、頭の働きまでよくなるのであれば、二重にお得ともいえます。あまり「知的生活」らしい表現ではありませんが(笑)