日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

家電が家族になると聞いてあり得ないと感じた人でも、同じ気持ちになるかもしれないと思ってしまう本

萌え家電 家電が家族になる日(著者:大和田茂)、ディスカバー携書、2015年6月第1刷発行、

ーーーーーーーーーーー

「買ったルンバがちょっとおかしんだけど」という電話を受けて、「ではすぐに送り返してください。問題のないものと取り替えます」と申し出たところ「送り返す?そんなのダメよ。うちの子にそんなことできないわ」といわれたエピソードを紹介している。開発者自身の想像を超えて、ルンバはすでにペットになってしまっていたわけである(21ページ) 

 

ルンバとは、あのおそうじロボットのことです。ただの家電のはずが「うちの子」と呼ぶぐらい、まさに家族なってしまっています。本人たちも、家電つまりただの機械にすぎないことは分かっているのに、ここまで感情移入しているのはなぜでしょうか?不思議です。

 

AIBOは発売から10年以上もたつ2014年になっても、まだ聞いたことがない言葉を発することがあるとのことである。これは、限りあるコンピュータの処理能力を考えれば実に驚くべきことである(50ページ)

 

家電が家族に近付いていることの理由のひとつに、AIBOのように、ロボットとしての性能の向上、完成度の高さがあることは間違いありません。でも、性能の高さといえば、パソコンはもっと能力が高いですが、同じような感情を抱くでしょうか?おそらくないと思います。その違いの理由としては、おそらく、自ら動くのかどうか、という点があるのでしょう。自分で動くものに対して人は、家族を感じるのかもしれません。たしかに、動物や植物といった生命のあるものは、自分で動き、成長していきますから、そこに、AIBOやルンバに家族を感じるけど、パソコンには感じないのかもしれません。

 

AIBOからの「臓器摘出」に際し、そのオペを担当する会社はAIBOの合同葬儀を行った。AIBOの葬儀は、海外メディアも含めて奇異の目をもって報じられた(53ページ)

 

家電が家族ならその葬儀をするのは当然ということになりますが、海外からはちょっとおかしなように見られたようです。とすると、家電に家族を感じる精神は、日本人に特有の何かが関係しているということになります。

 

日本人は古くからアニミズムを持っていた。とくに、長く使ったモノには魂が宿ると考えられていて、たとえば室町時代に描かれた「百鬼夜行絵巻」には、琵琶や鍋、釜などさまざまな器物が擬人化された姿となって行列行進する姿が登場している。百鬼夜行で、器物が鬼や妖怪の姿をしているのは、年末の大掃除などで用済みとして捨てられたモノたちが人間を怨み、祟っているからだとされ、この夜行に出会ったものは死んでしまうとおそれられていた(54~55ページ)

 

これはわたしも同感です。家族とまではいかなくても、長年使ったものを捨てるときに、思わず「長い間、おつかれさま」と声をかけてしまうということは、わたしは経験がありますし、けっこう多くの人があるのではないでしょうか?室町時代にそれが確認されているのであれば、これは、日本人が無意識のうちに持っている意識、行動であり、それが、技術の進歩により、家族とまで感じるモノが現れたということでしょう。また、同じ理由から、家族を感じる気持ちは、特定の人だけでなく、誰もが持つ可能性があると言えます。

 

現在、「擬人化」がさまざまなエンタテイメントにおける一手法として確立していることはあらためて強調するまでもないだろう。八百万の神の国である日本は、世界の先頭を走っているといってよい。アニメやコミックなどのいわゆるサブカルチャーの世界に限らず、それこそ目につくものは手あたり次第といったカオスなありさまなのだ。公式/非公式を問わず、あらゆるものが擬人化されている(152ページ)

 

物に魂を感じるのであれば、アニメやゆるキャラという形で、なんでも擬人化するのは、まったく抵抗がないです。アニメ、ゆるキャラ、いわゆるクールジャパンと呼ばれるものは、日本であるからこそ生まれた文化になります。日本発ということと日本のみということは、論理的には同じではありませんが、これについては、同じと言えるようです。

 

現代、人型ロボットの領域では日本がトップランナーとなっている理由の一つに、「欧米が人型の開発に積極的ではないからだ」ということが指摘されることがある。キリスト教では、人は神の創造物であり、人型ロボットをつくるというのは神の領域を侵しているので禁忌のイメージがぬぐえないという考えがあるそうだ(186ページ)

 

これは日本人にはとうてい想像できない考え方です。たしかに、ダーウィンの進化論を教えることはキリスト教の教義に反するので禁止するという考え方がまだ残っているようですから、いかにもありそうな話ではあります。考え方の違いであって良し悪しのレベルではありませんが、こういう話を聞くとわたしは、欧米というのは生活においてしていいこととしてはいけないことの区別がとっても厳しいのだなあとかんじます。こうい話を聞くと、日本という国は住みやすいなあと、つくづく感じます。