日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

世の中がなぜそうなっているのか、経済学を勉強すると人とはちょっと違った見方を知ることができます

やさしい行動経済学(編者:日本経済新聞社)、日経ビジネス人文庫、2017年12月第1刷発行、

ーーーーーーーーーーー

経済学と聞くと、グラフがあって数式があってお金の話をしている学問、というイメージでしょうか?でも、この本は、経済学の意外な役割を教えてくれます。

 

経済学は目に見える行動から目に見えない心を探る学問といってもいいでしょう。目に見えるいじめや差別を観察し、その背後にある目に見えない心の闇や偏見を考えることも少しずつ可能になってきました(75ページ)

 

ちょっとびっくりです。よく考えてみると、経済学は社会全体の余剰の最適化を考える学問ですが、最適化するかどうかを考えるには、人がどういう行動をとるのかということを考えなければ行けません。そうすると、もともと経済学は人の心を分析していたとも言え、ただそれがこれまではお金とか消費行動が中心だったということなのでしょう。心理学が人の心を分析する学問なら、社会科学である経済学にもその資格ありです。

 

行為者に対する「共感」と、自分自身の行動とのバランスをとることが適切な道徳判断につながり、そういう行動をする人を「公平な観察者」といいます(中略)最初に「公平な観察者」と唱えたアダム・スミスは「胸中の人」と言い換えて、他人の意見や感情に簡単に流されないその超然とした性格を強調しました(中略)日本人はかねて、他人の立場を思いやる「共感」を何よりも大切にしてきました(中略)他方、その精神が行きすぎると「滅私奉公」や「出るくいは打たれる」などの悪弊が生まれます。英ロンドン大学教授だった森嶋通夫氏は、英国人は適度な距離感によって「和」を保つが、日本人は個性を軽視する「一心同体」によって「和」を保つと指摘しました(21~22ページ)

 

いまの日本人に求められることがはっきり指摘されています。なぜかというと、次の記述とセットで読むとそう思うのです。

 

幸福には生理的欲求の充足と承認欲求の充足があり、それが段階的に現われます(中略)江戸時代など身分が固定化した伝統社会では、伝統に従って行動していれば社会的承認が得られました。一方、近代社会は自由に自分の人生が選べる社会です。望む仕事に就き、好きな相手と結婚し、気に入った場所に住む可能性が開かれている一方、常に失敗と隣り合わせです(中略)伝統社会のように、社会的承認が自動的に得られるわけではないのです。自分が必要とされ大切にされると実感できる条件を、自分の力で満たす必要があります(121~122ページ)

 

江戸時代だけでなく昭和もそうだったと思いますが、一定の人生のパターンがありそれに従っていれば一定の幸せが得られていた時代がありました。学校を出て会社に就職し定年まで働く、その過程で家庭を持ち、マイホームを建て、定年後は、退職金と年金でのんびり老後を過ごすというパターンです。であれば、「共感」によって集団(学校、会社)の中で生きていくことが重要でした。しかし、いまは、こんなパターンは誰も信じていませんし、そして、代わりとなるパターンは出てきていませんし、今後現われるとも思えません。そうすると、これから幸せな人生を送るためには、「共感」の価値はかなり下に置かざるを得ません。

 

社会生活をする中で、自分が「必要とされ、大切にされている」と感じれば幸福を感じ、他人から否定的な評価を受ければ不幸を感じます。現代社会では、この承認のメカニズムが複雑になっています。大金持ちで豪華な生活をしていても、否定的評価に悩む人がいれば、質素でも周りから尊敬され、いつも幸福を感じている人もいますだからといって、経済的豊かさと無関係なわけではありません。豊かであれば承認を受ける機会は多く、貧しければ否定的評価を受ける機会が多いことは容易に想像できます。これが、近代社会で「経済格差」が問題となる理由です(中略)伝統社会では共同体と宗教が「社会的承認」を保証していたのです。江戸時代を考えてみましょう。当時は身分社会であり、職業は世襲で、経済的には豊かにも貧しくもならない「定常社会」でした。自分がどのような人生を送るかは生まれながらにして決まっていました。それゆえ、身分に応じた仕事にまじめに取り組み、村など共同体のルールに従い、宗教の教えを守りさえすれば、身分に応じた「社会的承認」を得られたのです。これは無視でも農民でも同じです(120~121ページ)

 

いまと昔がどう違うのか、はっきり描かれています。一方、このように聞くと、江戸時代の人は、いがいと幸せだったのではないかなあとも感じます。一番生活が大変だったと思われる農民であっても、通常は社会的承認を得ることができたようですから。一方、現在は、社会的承認を得られる人と得られない人の差が大きくなっており、ある意味、生きていくのが大変な世の中です。

 

純粋な厚生主義では、労働を促進するため所得税率をマイナスに設定することが最適となります。一方、他人への利他性が増すことは社会的に望ましいという徳倫理では、所得税率を高く設定し、ボランティアを促す政策が望ましいとの結論になります。徳倫理の倫理観では、ハビタット・フォー・ヒューマニティの活動は、経済効率は悪くても利他性の上昇を通じて共同体を築く面で評価できるのです。このことは、幸福概念の違いと関係があります(中略)ボランティアや寄付で他人のために資源を使うことで他人への利他性が増して共同体の絆の意識が深まると、幸福感が増していくからです(45~46ページ) 

 

経済学が人の心を分析している分かりやすい例です。人が何に幸福を感じるのかが分析の対象です。人のためにお金を使うと幸福感を感じることがあるというのは、言われてみれば確かにという気がします。わたしは時々寄付をしますが、寄付をすると自分のお金は減っていますが、一方で、とても良いことをしたという気持になり、気分がよくなります。と同時にことのことは、現在の日本経済に大きく影響する話しです。

 

子供のときの夢は「自分だけのテレビを持ち、好きな番組を好きなときに見ることができたら、どんなに幸福になるだろう」というものでした。今の多くの若者の夢と希望は、そのような物質的に家族の中で孤立していくことではないようです。高度成長期に育った我々の世代が、自分たちが持っていた幸福概念を若い人たちに押し付けることがないように注意する必要があると思います。それから絆の深まりによって個人の幸福感が上がることが多いことを、東日本大震災の幸福感への影響などで説明しました。消費や余暇に基づく効用を個人が自由に追求していくと幸福になるという考えが誤解であるとすると、その誤解を解くのを助けるのは学者の使命の1つとなります(53ページ)

 

さいきんの若者は昔と違って欲がない、モノを欲しがらないと言います。この分析からすると、企業の供給する商品(モノ)に魅力がないのではなく、そもそもそういう方向に関心がないということになりますので、企業がいくら魅力的な商品を開発してもあまり効果はないというか、方向違いの対策ということになります。モノ消費からコト消費へという話しも、この分析を聞くとなっとくです。とはいえ、企業の担当者がモノ消費の世代とすると、なかなか対応は難しそうです。ついつい押し付けをしてしまいますから。

 

経営者は過去の経験や(本当に存在するかは別として)統計データから、平均的に白人のほうが黒人よりも生産性が高いと考えていたとします。すると、たとえ目の前の応保者2人に関する情報が人種意外の側面では同じだったとしても、平均的に白人のほうが生産性が高いだろうと予測します。結果的に求めている給与が同じならば、白人を採用することになるでしょう。この経営者が偏見を持っていなくても、統計を見ることで黒人に差別的な扱いをしました。このような差別を統計的差別と読んでいます(81ページ) 

 

 

経済学は「見えない心」を探る学問であるとこの本は述べていますが、これはまさにその好例です。本人が意識していない、あるいは、統計という客観的データに基づいて判断をし、むしろ、意識的に差別や偏見を避けるようにしているにもかかわらず、じつは、差別をしてしまっているという話です。とはいえ、どうすればよいのかという答えはみつからず、難しい問題です。