日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

悪行の勧めに見える本ですが、そうでもなく、むしろ弱い立場の人を応援する本

論より詭弁 反論理的思考のすすめ(著者:香西秀信)、光文社新書、2007年2月初版第1刷発行、

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「論理的思考」といえば、なかなか難しいけど、むしろ進んでとるべき態度のひとつ。人に話すときは、論理的に話すことが求められます。逆に、「詭弁」といえば、揚げ足取り、言い訳といったように、マイナスのイメージ。相手の言い分に対して、「それは詭弁である」と言えば、単なる言い逃れ、逃げ口上に過ぎないと批判しているに等しい意味として使われます。ところが、著者の香西氏の論理的思考に対する評価は独特です。

 

論理的思考などほとんど役に立たない

 

著者の香西氏はこう述べます。

 

議論に世の中を変える力などありはしない。もし本当に何かを変えたいのなら、議論などせずに、裏の根回しで数工作でもした方がよほど確実であろう。実際に、本物のリアリストは、皆そうしている。世の中は、結局は数の多い方が勝つのである。論理的思考力や議論の能力など、所詮は弱者の当てにならない護身術である。強者には、そんなものは要らない。いわゆる議論のルールなど、弱者の甘え意外の何ものでもない。他人の議論をルール違反だの詭弁だのと言って批判するのは、「後生だから、そんな手を使わんで下され」と弱者が悲鳴を上げているのだ。そして、そのような悲鳴にすぎないものを、偉そうに、勝ち誇って告げるのも、また弱者の特徴である(8~9ページ)

 

まあーなんていうか、ずばっと言ってしまいましたね。香西氏は。

でも、確かにそう。議論で世の中が変わるのなら、国会でいっぱい質問している野党議員が世の中を変えているはずですが、じっさいは、野党の言う通りには少しも世の中変わっていない。

とはいえ、論理的思考力自体はさすがに必要と私は思います。何が問題なのか、現状を分析したり解決策を探すのには必要だと思います。なので、「ほどんど」役に立たないと見出しを付けました。論理的思考力によって得られた答えを現実化する段階では、論理的思考力や議論など何にも役立たないと思います。

では、詭弁とは何なのか?

 


言葉で何かを表現することは詭弁である

 

おそらく多くの人は、自分はすくなくともできるだけ「論理的思考」をし、「詭弁」をしないようにするということを心掛けているのではないでしょうか。しかし、この本は、そんな考え、努力、願望をあっさり否定しています。それが、この見出しの香西氏の言葉です。

なんともま、実も蓋もないというか、無邪気にというか、一刀両断にしてくれます。いやいや、わたしはそんなことはないと思いたくもなりますが、この本で紹介される具体例を読んでしますと、自分もやっていたのかもしれない、という気持ちになってしまいます。

 

その具体例とは、「人に訴える議論」、「先決問題要求の虚偽」です。なお、香西氏自身はいずれも詭弁であるとまでは断定していません。これらを私なりに解釈すると、「人に訴える議論」とは人格攻撃のことです。

少し前ですが、文部科学省の前川前事務次官が政権に批判的な発言をしたときに、前川氏が現役時代に出会い系バーみたいなところに通っていたことが報道されました。このとき、前川氏自身の行いを攻撃することで、前川氏の主張を否定する動きがありました。人格攻撃とはこの意味です。

「先決問題要求の虚偽」とは、質問に一定の前提が置かれていて、質問にはい、いいえどちらで答えても、前提を認めることになってしまう質問のことです。「君は、今日も遅刻したのか?」というのが典型的な質問です。

 

詭弁にあふれるこの世の中。そんな中、自分だけ詭弁を使わないというのも一つの見識ではありますが、香西氏の意見は違うようです。私もそう思います。

どれだけ詭弁から距離を置くとしても、少なくともまわりの詭弁にはめられて自分が不利な立場に陥るのは避けるべきでしょう。そして、もっと積極的な利用の仕方もあるようです。特に、弱い立場にある人こそ、詭弁を活用することで、より自分の主張を説得的に述べることます。この本は、そんな詭弁とは何かを教えてくれる本です。