日々読書、時々一杯、折々投資

モグパクです。都内で働くサラリーマンです。 新書・文庫を1日1冊読むのを日課にしてます。あと、酒(主に日本酒)を飲むこと、投資をすることが好きです。

「哲学?そんなの生活になんの関係もない」と思っている人、この本を読んでから判断してほしい

ツチヤ教授の哲学講義ー哲学で何が分かるか?(著者:土屋賢二)、文藝春秋、2014年12月発行、

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学門にはいろんなものがあります。

「法学」、「経済学」、「心理学」、「物理学」、「教育学」・・・・・・。勉強したことのある人はもちろん、したことのない人であっても、これらの学門がどんな学門なのか、だいたいのイメージはわかります。言い換えると、何を研究対象としているのかは、分かります。「〇〇学」なんだから、「〇〇」について研究するのだろう、という感じです。

「哲学」の場合どうでしょう?「哲」を研究するといっても意味がつうじません。

 

この本は「哲学」とはどういう学門なのか、ということを取り上げています。しかし、哲学といえば、「時間とはなにか」、「存在とはなにか」、「人生とはなにか」というのがお題です。ただでさえ難しいのに、その上、「哲学とはなにか」なんていう問いは、難しすぎです。

 

でも、心配はいりません。この本は、著者の土屋氏が、大学の1、2年生向けに講義した内容を収録しています。とても親しみやすく話してくれていて、わたしが学生のころにこんな授業があったらきっと受けていただろうなあと思う授業です。

 

いかに人間は誤りやすい動物か

 

この本のユニークなところは、偉大な哲学者の主張であっても、それは誤りだと思うとばっさり斬ってしまっているところです。たとえば、デカルトの有名な言葉「われ思う、ゆえにわれあり」。哲学を勉強したことのない人でも知っていると思います。私も知っています。
この言葉は、すべての存在は確かとは言えない、でも、疑っている自分がいまいる、それゆえ、自分の存在だけは確かであるという意味です。しかし、土屋氏はこういいます。

 

彼が見出した根本的な真理とは、結局は「言語の規則はこうなっている」という主張にほかならないようにぼくには思えるんです。デカルトは、世界の真理を探り当てたわけじゃない、と

 

「言語の規則」がなにかはこの本を読んでいただくとして、「何かすごいことを発見したと思われてるけどじつは大したことないんだよね」というのが土屋氏の評価であり、とてもユニークです。

 

哲学とは形而上学である

 

形而上学」という言葉、聴きなれない言葉です。そもそもこれなんて読むのかというとこから始まります。「けいじじょうがく」と読みます。わたしはこの本を読んで初めて正確な読み方を知りました。
でも、だいぶ哲学らしい感じになってきなあという感じがします。土屋氏の説明はこうです。

 

世界は、手で触ったり、目で見たり、感覚で捉えることのできるものから成り立っていると思えますよね。でも、そういうものや観察できる事実をさらに超えたものが存在すると考えられることがあります。それを「形而上学的なもの」と呼んでいます

 

この形而上学的真理を解明するのが哲学である、と言われれば、そうだなあと思ってしまいます。しかし、この本はそれでは話は終わりません。そこが、この本の面白いところでもあり、哲学の本としてはユニークなところでもあります。

 

哲学は原因を説明することはできない

 

形而上学はどこに行ったの?」と思ってしまいますが、土屋氏の立場はこれのようです。哲学者がこんなこと言っていいの?という疑問を感じてしまいますが、正直と言えば正直です。
これを聞くと、じゃあ哲学なんて学門は不要ではないか?と思ってしまいます。しかし、そうでもないところがまた面白い。土屋氏の説明はこうです。

 

哲学はものを知るというか、理解する営みです。われわれはいろんなことを知らないし、さまざまな誤解にすぐに陥ってしまうんですけれど、それに逆らってものを知ろうとするのが人間です(中略)何も知らないまま、誤解したまま、一生を終わりたくない、と思っているし、多くの人もそう考えるんじゃないかと思います。そういう気持に応えるのが哲学だと思います

 

わたしはこの部分をよんだとき、ちょっと感動してしまいました。知りたいことを知る、というのは、人間の基本的な欲求の一つだと思うからです。もちろん、知らないからといって死ぬことはぜったいにありませんが、でも、なんにも知らないまま死んでしまうのも、もったいない。

 

まるで神棚にあるかのような哲学が、このときから、自分の隣に降りてきてくれたような感じです。