日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

日本という国、自分が日本人であるということを強く自覚させ、また、それが良かったと思わせてくれる本

デザインが日本を変える 日本人の美意識を取り戻す(著者:前田育男)、光文社新書、2018年5月初版第1刷発行、

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著者の前田氏は、マツダのデザイン本部長として、デザインコンセプト「魂動」を確立し、2016年、世界で最も優れた車に贈られるワールド・カー・オブ・ザ・イヤーと、同賞のデザイン部門のダブル受賞という史上初の栄誉に浴しています。つまり、いまの日本の自動車メーカーのデザインの最先端を走る人物と言えます。

前田氏のデザイナーとしての実績はすばらしいものだと思いますが、一方で、タイトルの「デザインが日本を変える」という言葉にはとまどいを感じました。わたしはデザインの専門家ではまったくありませんが、失礼ながら、「たかがデザインにそんな力があるのか?デザインはしょせん見栄えの問題にすぎず本質ではないだろう。」と思ってしまいました。しかし、そんな思いは、この本を読み進めていくにつれて、まったく的外れだったことに気付かされます。

 

〇 デザインの現場

 

前田氏がマツダのデザイン本部長に就任したのは2009年。それ以後、全車種のデザインプロセスを一新させるなど、容赦なき改革を進めますが、同時にそれは、社内の関係者との様々なあつれき、反発をもたらします。この本では、それをどう前田氏が乗り越えていったのかが丁寧に描かれています。

 

なぜこんなに社内のいろんな部門と揉めてしまうのか?改革の内容がドラスティックだからというのもとうぜんあります。しかし、そもそもとして、デザインはデザイナーが絵を描いて終わり、というものではないということがあります。

デザイナーが素晴らしいデザインを描くと、芸術作品ならそれで終わりかもしれませんが、ビジネスの場合、それで終わってはまったく意味がありません。それを実際の商品として製造するところまで到達して初めて意味があります。でも、デザイナーが自分で実際の車を製造することはできない。社内のいろんな部署の理解・協力なしには全く何も変わらない、それゆえ、前田氏の改革はいろいろ波紋を呼び起こすわけです。この本には、デザイン部門以外のマツダの社員が登場しますが、プレス、金型、カラーデザイン、塗装、クレイモデル、チーフデザイナーといった各部門の社員が登場します。

 

前田氏がどのようにして反発する各部門を説得し理解を得、そして「共創」関係へと変えていったのか、紹介されている様々な苦労、エピソードが、まさに企業組織ではいかにもありがちなことばかり。少しでも似たような経験を持つ方なら、まさに「ある、ある」状態でしょう。

 

困難を乗り越えた前田氏の努力は素晴らしいと思います。それは間違いありません。

 

しかし、ちょっと感じたのが、「ここまで時間や労力をかけないと新しいことができない組織というのはどうなのか?」という疑問です。前田氏のようなパワフルな人ばかりではありません。

一方で、「そのぐらいを乗り越えられないような人は、そもそも新しいことはできないから、ある意味、試練として当然。」、という考え方もあるでしょう。どっちが正しいのか、よくわかりません。

 

〇 いいデザインとは何か?しょせんは人の好みの問題?

 

初めてある車を見たとき、デザインについて、「かっこいい」、「かわいい」、「自分はこのデザイン好き」、「自分は嫌い」といった感想を持ちます。同じ車に対する感想であっても、その中身はとうぜん人それぞれです。それは当たり前。

 

でも、だからといって、「いいデザイン、わるいデザインなんて決められず、あくまでも人の好みである」と言ってよいのだろうかと思います。ふつうはこういう意見が支持されるのですが、前田氏はこう言っています。

 

私もある部分ではYESと思う。おおまかなデザインの方向性、テイストについては個人の好き嫌いが左右する。これカワイイ。これカッコいい。これ美しい。これキライ・・・そこに他人は口を挟めない。好き嫌いでは個人の感覚こそ絶対である。しかしテイストの違いとは別に、デザインの質についてはプロしか作れない領域というものがある。クオリティの絶対値というものは確かに存在する 

 

プロとしての自信、誇りにあふれる言葉だと思います。この言葉の具体的行動と私が思うのが、前田氏が、おそらくどの自動車メーカーも実施していた「市場調査」を廃止したことです。「市場調査」とは、新しい車を出す前に、いくつかのプロトタイプをユーザーに見てもらい、そこでの反応を商品に反映させる手法です。これを廃止するということは、ユーザーの好みに合わせないということを意味します。

 

でも、そうすると、1つ疑問が出ます。デザイナーの判断でデザインするとしても、「それもその人の好みに過ぎず、何が違うのか?」という疑問です。あるいは、「あるデザインをめぐって、デザイナーの間で評価が分かれてしまった場合、どうするのか?」という言い方もできます。

前田氏は、デザインを前提とした上で、言葉による表現を非常に重視しています。デザイナーに限らず、求められる能力だけどなかなか持つことができない、あるいはその必要性が意識されていない能力のひとつに「言語化能力」があると私は思います。デザインという感性とか直観が重視され、もっとも言語化から縁遠い世界に見えても、前田氏が言葉を重視しているというのは意外です。

しかし、デザインに人の好みという相対的な領域だけでなく絶対的な領域の存在を認めるのであれば、言語化は不可欠です。絶対的な領域は、少なくともプロの間では、それについての見解を一致させることができる領域を意味しますが、それを実現させるためには、「かっこいい」、「自分は好き」という表現では不十分で、なぜそのデザインが良いのかということの理由、根拠が必要となり、ここに言語化が登場します。そして、言語化は同時に、デザイナーの単なる思い付き、気まぐれによるデザインを排除することにもなります。

 

〇 iPhoneは日本人が作るべきだった

 

この本の内容の中で、もっとも印象的でした。おそらく、これを読んだ瞬間、ほとんどの人が「えーっ?何言ってるの?」とか「それは、単なる日本人のデザイナーとしての願望に過ぎないのでは?」という感想を持つのではないでしょうか。

 

たしかに、この種の発言はよくあります。「じっさいは外国に先を越されたが、ほんとうは日本が〇〇すべきだった/〇〇であるべきだった」といった類の発言です。この種の発言をする気持としては、単なる願望の表明だったり、自分が日本人であることを誇りに思っているというアピールだったり、といったものです。他にもあるのかもしれませんがいずれにしても、共通しているのは、発言している本人が本音では、日本が本当にそれが実現できるはずとは信じていない点でしょう。

 

しかし、前田氏は違います。なぜ日本人が作るべきだったのか、という理由・根拠が具体的かつ明確にこの本で述べられています。つまり、前田氏はそれが十分可能だと思っているからこそ、日本人が作る「べき」だったと述べています。なぜそういえるのか、それは、前田氏が日本文化の伝統、オリジンとは何かという点について、具体的かつ本質的に理解しているからです。これを象徴するエピソードが紹介されています。

 

ローレンスは「日本の自動車メーカーであるマツダは日本的なデザインを標榜すべきである」という考えの下、「NAGARE」というデザインシリーズを発表した。彼が着目したのは日本庭園だった。中でも枯山水の砂利に描かれた模様にいたく興味を引かれ、「流(NAGARE)」「流雅(RYUGA)」「葉風(HAKAZE)」「清(KIYORA)」といったコンセプトカーでは、その水の流れるような模様をキャクターデザインとしてボディの側面に表現した。これが私には我慢ならなかった。日本の自動車メーカーとして日本的なデザインを取り入れることに関しては私も賛成である。しかし日本的な要素を取り入れるといっても、枯山水の砂紋をそのまま車に刻むというのはいささか表面的すぎるように思えたのだ

 

「ローレンス」とはオランダ人で、マツダのグローバルデザイン本部長であり(2006年)、前田氏の上司に当たる者です。

この話し、ローレンス氏が外国人だからこんな変なこと言っていると笑って済ませられるでしょうか?いまの日本にもローレンス氏と同じようなことを言っている日本人多いのではないでしょうか?前田氏が、日本文化を表面的ではなく本質的に理解しているからこそ、上司に反論できたのだと思います。前田氏のほかとは違う秀逸ぶりが際立ちます。

 

 

〇 デザインが日本を変えるなんて大げさ過ぎない?

 

さいしょに感じた疑問に戻ります。

ここまでもおそらく伝わったのではないかと思いますが、前田氏は、具体的に根拠、理由のあることしか述べていません。そして、前田氏の話しは、単にマツダでの車作りの話しにとどまらず、日本のモノ作り全般にも及んでいます。そして、なぜ日本のモノ作りにデザインが大事なのか、ということを、新興国との競争を特に意識しながら、明確にその理由を述べており、デザイン、モノ作りのしろうとの私でも納得です。それゆえ、デザインが日本を変えることは十分ありだと読後には思いました。

 

また、この本を読むと、いつのまにか、日本もこれからまだまだ何とかなるのだという希望や自信を与えてくれると同時に、日本という国をあらためて見直し、そして誇りを持たせてくれます。「外国にはない日本のこれが良い。」といった単純な比較論、表面的なものではなく、今日まで続く長い日本の歴史・文化の中で現代の日本において何を大事にすべきかということを分からせてくれます。言い換えれば、日本人としての価値観を認識させてくれると言えます。

 

わたしなりにこの本の良さを説明してみました。ざんねんながら、まだ個人の好き・嫌いという相対的なレベルでしか説明できていないようです。わたしの言語化能力はまだまだのようです(笑)