日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

京都ずきな人も京都ぎらいな人もぜひ読んで頂きたい本。より京都がすきになり、より京都がきらいになります。

京都ぎらい(著者:井上章一)、朝日新書、2015年9月第1刷発行、2016年2月第9刷発行、

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発売当時、とても話題になった本です。京都についての本といえば、京都の歴史、伝統、さらには、それらに裏打ちされた、建築、工芸、料理などを至上なものとして紹介するスタンスが一般的ですが、この本はそれとは全く逆のスタンスの本です。

 

〇 京都市と京都は別物

 

多くの人にとって、「京都」という言葉は「京都市」という言葉を短く省略しただけ、つまり、地理的に同じエリアを指すと考えます。しかし、京都人にとっては、それは全く違うことであり、かつ、その区別は非常に重要です。

 

著者の井上氏は花園、嵯峨で生まれ育ち、自らは嵯峨の子として育ったという強い自意識があると述べています。花園、嵯峨とは、京都市右京区に属するエリアつまり京都市の一部ですが、京都人に言わせると、そこは京都ではないということになります。

それでは、「京都とはどこなのか?」という話になるのですが、この質問に対する答えは「洛中洛外図」という屏風にあります。京都の町のすがたや、そこで生活する人々の模様が、高いところから眺めている目線で描かれている絵です。これ、いまの京都市と呼ばれるエリアを描いた絵なのに、なぜ「洛外」という言葉がタイトルに入っているのでしょうか?京都国立博物館の「洛中洛外図」の説明文では、こう説明されています。

 

京都は中国の唐(とう)の都の長安(ちょうあん)をモデルとして築かれたのですが、いつのころからか、西半分の右京(うきょう)を長安城(ちょうあんじょう)、東半分の左京(さきょう)を洛陽(らくよう:同じく中国の古都)城と呼ぶようになります。けれども右京は湿地帯が多かったために早くにさびれてしまい、長安城という名は有名無実(ゆうめいむじつ)となりました。それに対して左京は発展していったため、「洛陽」が京都 の代名詞となってゆき、それを略して「洛」が京都を意味するようになります。

都の中心線の頂上にあるべき内裏(だいり)も、14世紀には大きく東へ移動して、現代の京都御所の位置になってしまいます。
洛中洛外とは、京都の町なかとその郊外といった意味のことばです。 

 

ようは平安京が置かれていたエリア、御所とその周辺が「京都」であり、それ以外は「郊外」であって京都ではないということです。

 

井上氏の本では、このような意識を吐露したさまざまな京都人の言動が紹介されています。井上氏はこのような言動を「京都人の中華思想」と呼んでいます。京都人以外の人が読めば、おそらく、京都人、京都に対するイメージがいかほどかは変わることは間違いないでしょう。

 

〇 日本国内なのに「外資系」

  

先ほどの話しは、京都市の中の話しです。しかし、京都市の中でも洛中洛外の「厳格な」区別があるとすると、京都市京都府ですらない、つまり、京都府以外の都道府県は、京都人にはどう見えるのでしょうか?

 

井上氏によると、京都に東京や大阪の資本のお店ができると、京都人は「外資系」と呼ぶそうです。もちろん陰でしか言わないようですが。つまり、同じ日本のはずが、意識の中では外国扱いということです。このような種類の話しは他にもあり、「近江」とは琵琶湖を、「遠江」とは浜名湖を指すと言われています。京都の中華思想が見事に表現されています。

 

ところで、「平成29年京都観光調査結果」(京都市産業観光局)によると、京都を訪れた観光客数は5362万人(うち外国人は743万人)だそうです。京都人は、「外国」からやってくる大勢の観光客(本当の外国人も含まれますが)をどのような思いでを持ちながら「おもてなし」しているのでしょうか?もちろん、商売は商売ですから愛想よく接すると思いますが、その深層心理をのぞいてみたいという、意地悪い興味がわたしにはあります(笑)。そして、この本は、そんな深層心理を見事に描いてくれています。

 

一方、このような話を聞いても、なお京都に対するあこがれを持たれる方はいると思いますし、考え方は人それぞれですので、正しい間違いという話しではありません。

この本によると、京都の多くの由緒ある神社仏閣のほとんどは、江戸時代になって徳川幕府によりたてなおされた建物だそうです(井上氏は建築史・意匠論を専門とする学者です)。別に千年の都だからといっても、いまの京都があるのは京都自身の力ではなく「外資系」の江戸(東京)の力だということです。そうすると、京都以外の他の都道府県の人が京都をあこがれるというのも、ちょっと不思議な構図です。

 

〇 京都人の面目躍如

 

ここまでは京都人に対して否定的なトーンでした。しかし、さすが京都人と思わずわたしが思ってしまったこともあります。一言でいうと、歴史認識です。

 

歴史認識というと、戦争責任、靖国参拝の是非、植民地支配への反省といった話しが一般的ですが、京都人の歴史認識はそんな100年弱の話しではありません。

ときどき言われることですが、京都人が「このあいだの戦争」と言うとき、それは第二次世界大戦ではなく応仁の乱のことを指しているという話しがあります。井上氏は、いまの政治での歴史についての議論は、せいぜい明治以降の話ししかしていない点に失望を示しています。

たしかに、日本の長い歴史の流れの中でいまの人々の意識、社会があるのに、それを明治という150年の期間だけを切り取って歴史の議論をすることに違和感を感じる井上氏の主張は理解できますし、京都人でなければ気付かない議論であると感心してしまいまいした(これは文字通りの意味です)。

 

京都人はまだ日本の首都は京都であると思っているそうです。なぜそう言えるのかというと、平安京が置かれて以降、首都を移すという遷都の勅が発せられていないからだそうです。この話を聞くと、冗談かなにかと思ってしまいそうですが、意外とそうでもあいようです。参議院法制局の法制執務コラム(「立法と調査」NO.288・2009年1月)には、首都は東京であるとする法律の規定は存在せず、また明治維新のときも首都を東京にするという声明は出されていないと述べられています。

天皇がいるところが首都であるから、いまは東京が首都である」なんて単純に考えていると、大恥かきそうです。南北朝時代天皇が2人並立していましたから、京都人の歴史認識からすれば、当然の議論でしょう。

 京都人やりますね。