日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

周りのネガティブな評価や情報が気になる方におすすめの本

「自分だまし」の心理学 菊池聡 祥伝社新書 2008年8月初版第1刷発行

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「自分だまし」というタイトルを見て、例えば落ち込んだときにどうやって自分のモチベーションをあげるかみたいな、自己管理的な話をイメージし、そういう話を期待して読んでみたのですが、ぜんぜん違いました。

ツールとしての「だまし」という表現の背景には、いわば「人は正しい情報(真実)に基づいて正しく判断するのが基本。ふだんはだましは絶対にいけないことだが、時と場合によっては、ツールとして有効な時がある」という考え方(中略)こうした「だまし」のとらえ方は、人の心のシステムの本質という観点から見れば、とても表層的で足もとの危ういものです(5ページ)

人は誰でも「だまされる」心理システムを、心の中に不可欠なものとして持っている(7ページ)

人間は「だまされない」状態を正常なベースとして考えるのではなく、「だまされる状態」の方が人として自然と考える方が理にかなっており、また、意義があるという考え方です(20ページ)

 どうも私がさいしょに思っていたこととはだいぶ違う話のようです。同時に、どういう話なのか、まったく予想ができません。

自分の思いこみで世の中を歪曲してとらえる人、つまり、現実を客観的に正しくとらえずに自己欺瞞の世界に生きる人こそ、ある意味では精神的に健康なのではないか(中略)「現実から目を背けず、自分をよく知っている」といった、健全な大人の態度こそ、自分自身を「うつ」という不健康な状態に陥らせる危険性をはらんでいるという点で、実は健康とは言えないのではないか(25ページ)

ますます分からなくなってきました。さらに読んでみます。

私たちは、眼や耳から入ってきた情報を、歪めることなく正確にとらえて、その情報に忠実に私たちの認識(知覚や記憶、思考)を形作るわけでは「ない」(中略)心理システムはあえて不正確に働くのです。たとえば、あらゆる情報を、自分の都合で選り好みし、また適当に歪め、先入観から補完し、自ら作り上げた世界像を認識しているのです。しかも、この一連の処理は、かなりの部分が無意識のうちに自動的に行われています。そのため、「私」という自覚している意識は、自分の思考や判断が、それに先立つ処理システムから流れて来る歪められた情報に左右されていること、つまり「だまされている」ことに気がつきません。これこそが、本書で強調したい「自分で自分をだます」メカニズムの根底にあるものです(45~46ページ)

自分が自分をだます、ということ自体は想定の範囲内でしたが、それが無意識、自分が知らないうちに行われている、となると、一体だれが自分をだましているのかよく分からなくなってきます。

無意識の情報処理では、情報の内容の一部を強調したり、歪曲したり、足りないところを補完する操作が行われ(中略)この処理済みの情報を次のステップで受けとるのは、意識的に思考することができる自分です。その自分は、入手した情報がこのようにセレクトされ歪んでいることを知りません。ですから、素直に解釈すれば、結果として自分自身を不当に高く評価してしまう(中略)この認識によって、「うつ」などの感情的な問題に陥ることなく、前向きに生きる精神的・身体的な健康を手に入れる(中略)可能性が高くなる(51ページ)

25ページから引用した部分の内容が、これではっきりしました。無意識の自己防衛のシステムとも言えるのかもしれません。

たとえば相手の人間性を判断するとか、自分の能力を評価するとか、物事の原因を考えるとか、そういった高度で複雑な人の心の動きにおいても、だましの情報処理システムは持てる力を存分に発揮することになります。ある時は情報を補完して作り出し、またある時は情報を歪め、目に入ってるはずの情報を見えなくしてしまいます。こうしたプロセスは、先に説明したように、認知を一定の方向に制約したり促進したりするスキーマという知識構造が働いています(中略)たとえば、「恋は盲目」と言いますが、好きな相手のことであれば、悪いことは全く目に入りません。「目に入らない」というのは比喩ではなく、本当に文字どおり見えないのです。そして理想の姿をより誇張して意識に伝えてくるのです(54ページ)

なるほど。恋のたとえ話はとても分かりやすいです。そうすると、たしかに、無意識のうちにだまされている、というのはレトリックでもなんでもなく、これも、文字どおりということが分かります。

録音したその現場は静かだったはずなのに、いざ録音したものを聞いてみると、外を走る車の音、出席者のつぶやきくしゃみ、資料をめくる音、など、収録した時は全く気がつかなかった雑音が数多く記録されています。そして、肝心の発言はノイズに埋もれて、会場で聞いたよりもはるかに弱々しく聞こえてしまうのです。これは、録音機器の性能のせいではありません。ふだんは人の知覚システムが、自分が注意を集中して聞いていること以外の雑音を自動的にカットする処理を行っているせいです(中略)さらに興味深いのは、そんな喧噪の中でも、思いもよらない方から自分の名前を呼ぶ声があれば気がつくことができるのです(中略)もし、周囲の雑音を自動的にカットして会話に集中するのであれば、自分を呼ぶ小さな声も当然カットされてしまうはずです。名前に気がつくということは、私たちが無意識のうちに周囲の雑音をきちんと処理して、自分にとって重要な情報かどうかを判断していることになるのです(61~62ページ)

録音の話はふつうに経験することですが、それも無意識の心理システムの働きの結果だったということは意外でもあり、それゆえ、説得的でもあります。

「直感」で物事を正しく判断できるということこそ、私たちの高度な認知情報処理の大部分が、意識できない無意識のレベルで働いていることの現れだと考えられるのです(中略)私たちが自覚できる思考は、心の情報処理全体に比べればごくわずか、氷山の一角にすぎません。にもかかわらず、膨大な情報を絶えずチェックし、必要な情報を拾い上げて意識に知らせる離れ業をやってのけました。この無意識の処理システムは、ひとたび人が危機的な場面や決定的に重要な判断の局面に立たされた場合にも、持ってる力をフルに発揮して、ほとんど本人が意識しないうちに細かい情報を検討して、耳を傾けるべき貴重な助言をたたき出します。ただし、その「直感」を手放しで的確なものと考えるのは早計です(中略)長年積み重ねてきた経験や訓練によって熟成され、自動的に働くように内在化された情報処理によって発揮される(69~71ページ)

「直感」とは何か、ということをここまで具体的に分かりやすく説明してくれた記述は、これまでで初めてです。また、一見重要に見えない経験も実は重要である、ということの説明にもなってます。

初めて会った取引先の人と、これから重要な商談を進めなければならない場面(中略)には、その人の外見や言葉遣い、マナー、立場・肩書き、といった特徴をもとに、その人のイメージを把握しようとするシステムが、ほぼ無自覚のうちに、自動的に働きます(中略)「いや、私は見かけて人間性まで判断するようなことは絶対ない」と言える方は立派です。しかし、心がけとしてはともかく、実際にはそんなことは不可能です(76~77ページ)

人を見た目で判断することは誤った判断をすることがあるため、良くないことと一般には考えられてますが、無意識にしてしまうのであれば、どうしようもないですね。先ほどの「直感」の話をあわせると、無意識心理システムの判断はかなり当たっていることが多いと思われます。

この一貫性を保とうとする人の傾向はかなり強力で、そのために、私たちは「あいまい」でさまざまに解釈できる情報を、自分の予想と合致するように一方的に解釈して、安定した認知を崩さないようにします。「あばたもえくぼ」という言葉があるように、一度相手に好意を持ってしまうと(すなわちその人に対してポジティブな対人スキーマを形成してしまうと)、普通なら欠点に見えることでも、その好意的なスキーマに沿って良い方へと解釈してしまうことに心当たりはないでしょうか。これはいわば情報の質的な歪曲ですが、無意識は量的な選抜も行います。つまり、その相手の、さまざまな場面におけるさまざまな行動の中から、その自分の予想に合致したケースだけを強く認識します(中略)自分の考えと一貫性を持つものだけが知覚され、その結果、さらに当初のステレオタイプが強化されるわけです。私たちが、第一印象やステレオタイプに左右され、なかなか抜け出せないのは、こうした背景があるのです(81~82ページ)

よく、最初に何となく予感したことが、その後のある出来事によって支持され確信にかわった、という話があります。これなど、最初の予感が正しかったことの証明みたいに受け止めますが、このようなシステムがあるのであれば、驚くに値しない話ということになります。悪く言えば出来レース、です。

ユリウス・カエサルの語録に、「人は、自分の望んでいることを信じる」という名言があります。そのとおり、人は自分が見たいと思っていることが見えるのです。なにも、ありもしなかった案件をでっちあげる必要はないのです。たとえば、自分の評価にとってネガティブな出来事の重要性をちょっと低く、頻度も少なめに見積もり、逆に自分が活躍した出来事は、会社にとって死命を制するような重要な案件だったと、ほんのちょっとだけ無意識が注目点を変えてみればいいだけなのです(99ページ)

例にあるような行為は、普通はやってはいけないことと考えます。意識的にはやっていないつもりでも、無意識にはやっているのであれば、結局、みんなやっているということになります。先ほどの見た目で判断するのと同じことですね。そうすると、評価というのは、自分の行う評価だけでなく、上司、部下、同僚、誰が行う評価であっても、しょせんはその程度のものと言えます。周りの評価を否定することはないですが、それでもちょっと気が楽になります。

一見単純そうな出来事であっても、その原因(必要原因)というのは数限りなく考えられるという点、そして、それらの中から、人間は自分の認知の枠組み(スキーマ)に従って、一つの(ないし少数の)目立つ出来事を、主たる「原因」だと考える、すなわち原因帰属を行なうということなのです。だからこそ、原因の決定は、人間の内的・心理的な問題としてとらえられるわけです(122ページ)

原因分析というような事実に基づき客観的、科学的に行われるものも、無意識にコントロールされるということですね。先ほどの評価の話の一例とも言え、結局人間がやることはおよそすべてそいうものだということになります。

「だまし」というものを、あってはならない倫理的な悪として、完全否定してしまうこと。そして、自分の正しさを大前提において、その基準からのみ、物事を判断することです。そうなると、必然的に視野は狭くなり、判断は硬直化します(中略)現にそれが社会に存在することには一定の理由があるというとらえ方こそ、現実的に有効な対処につながるはずです(中略)「だまし」のリテラシーを高めるために必要な考え方は、いかに正しいと認識したことでも、どこかにだましの情報スピンが介在している可能性を認めることであり、どんなに自分が信頼したり自信を持っていたとしても、それは別の見方から見れば別の解釈になりうることを認めるメタ認知的姿勢だと思います(182~184ページ)

だれの評価であれおよそその程度であるならば、当然自分がする評価もそうなります。すべて評価は相対的とも言えますが、それを自覚することが、「だまし」と上手に付き合えるコツのようです。

「他人を見たら泥棒と思え」とばかりに何事も疑ってかかる人は、その用心深さゆえに、「だまし」に対して強靭だと思われがちです。しかし、社会心理学者の山岸俊男氏の研究では、他人を基本的に信頼しようとする人(高信頼者)の方が、他人を信頼できないと決めてかかる人(低信頼者)よりも、相手の信頼度を正しく検知できることが明らかになっています(中略)基本的に私たちの心の中には、「だましーだまされる」システムがあります。しかし、基本的には、そのシステムのおかげで私たちの日常生活は適応的に過ごしていけるのだという前向きな認識と、そんな自分の内にある「だまし」と協力関係を築いていこうという姿勢、これが必要なのです。こうして「だまし」と付き合っていくことこそ、結果として、「だまし」を検知する能力を高め、そしてだましを活用するリテラシーを向上する基盤になるのです(205~206ページ)

そもそも、無意識に自分が自分をだましているのですから、他人を信頼する信頼しないという判断自体もだまされているのかもしれないような気もします。したがって、他人を一切信用しないのも、逆に、誰でも全面的に信用してしまうのも、どちらも「だまし」との付き合い方としては良くないようです。半分信じて半分疑いというのが、「だまし」とのほどよい付き合い方なのでしょう(「ほどよい」なので、ベストとは限りません。)。自分はAだと思う、とバシッとした意見を持っていることは、通常良いことと言われますが、この本を読むと、それもどうかなあという感じです。Aだとも思うし、Bだとも言えるし、Cという場合もある、みたいなあいまいさがあることの方が結果的に、より的確な判断ができるような気がします。