日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

物書きになりたい方にそれを現実化するための具体的な方法を教えてくれる本

「書いて稼ぐ技術」著者:永江朗平凡社新書、2009年11月初版第1冊、2010年1月初版第2刷、

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 「書いて稼ぐ」誰もが一度は憧れたことがあるでしょう。永江氏はフリーライターとして文字通り「書いて稼ぐ」ことを実現している人です。では、私も書いてみようと思うのですが、誰もがそこでとまってしまいます。一体、何について書けばよいのか?この本でも、何について書けばよいのか、テーマ探しの話について詳細に述べています。

ライターがラクしようと思っているような企画だと、編集者はがっかりしますね。書評を書きたいとか、映画評を書きたいとか。「なーんだ、汗はかきたくないのか」と思うことでしょう。同じ書評でも、「ライトノベル1000冊一気読み」なんていうのだったら、「こいつ、ガッツがあるなあ」と思ってくれるかもしれませんが。編集者がライターに求めているのは、頭より体です。華麗な文章など期待していません。文章のうまい書き手なんていくらでもいますから(53ページ)

テーマ探しといえば、いかにも頭で考える、発想力みたいな世界かと思いきや、「頭より体」という正反対に見える表現しています。もちろんそういう意味ではなく、テーマ探しのときになるべくラクなテーマにしようなどということを考えてはいけないという話ですね。

 

単著があると、信用度が増します。これはぜんぜん違います。よく著作は名刺代わりといいますが、出版社に営業して回るときも、単著があれば自分のことを説明しやすい。編集者は「少なくともプロの編集者が、本を書く能力があると認めた人間なのだな」と判断してくれます(59ページ)

でも単著になるといいからといって、自費出版専門会社から出すのはやめたほうがいい。名刺代わりになるどころか、かえってマイナスかもしれません(65ページ)

フリーライターというと、雑誌とかの記事を書いていき、そこで認められた人が本を出版するという流れかと思いきや、逆なんですね。まず本を出し、それを手がかりに仕事をとっていくということのようです。なかなかハードルの高い話ですが、永江氏は実際にそれを達成していますから、すごいですし、それが現実なのでしょう。65ページの指摘は、ついつい私のようなシロウトが陥りやすい勘違いです。ラクをするな、という話にも通じています。とは言っても、何について書けばいいの?という話に結局はなってしまいます。

 

得意分野は自分の手持ちの札で考えるといいでしょう。まったく何も知らない分野に飛びこんでいくのはそれはそれとして野心的で格好いいし、人生の新たな楽しみが見つかるかもしれませんが、時間と労力はうんとかかります。自分の手持ちの札は何か。たとえば家業や親の職業に関係することがそうです(中略)大学での専攻も手持ちの札です。学部の四年間で学べることなんてたかが知れていますが(中略)少なくともそのジャンルについての大まかな見取り図は頭に入っているはずです(中略)また、大学の教員は重要な取材源になります(69~70ページ)

イデアは自然とわいてきたり生まれてきたりするものではありません(中略)アイデアはひねり出すものです。ひねり出すためにはトレーニングが必要です。スポーツのようなものです(中略)いつもメモ用紙を手放さず、何か思いついたらすぐ書くようにするのもトレーニングのひとつです。この場合、「書く」という行為が大事です(中略)書いて字や図にしてみたらダメだった、ということもあります。逆に、字にしてみることで、さらにそこからアイデアが広がっていくこともあります。「書く」ことは同時に「読む」ことであり、「考える」ことだからです。とはいえ、それだけではなかなか企画になりません(中略)まずは書店に行くこと。書店の本棚をひたすら眺めます(中略)書店の本棚には大きく分けて二種類あります。平台と棚です。平台というのは本を寝かせて並べてある台。新刊を集めた平台を見れば、最近の流行がわかるでしょう(中略)棚に並ぶ背表紙をじっと見ていけば、ああこんな本があったのか、という発見があるでしょう。知っている本でも、ほかの本と並ぶことで、違う見方ができるかもしれない。背表紙を眺めながら思い出すこともあるでしょう。書店の棚からストレートに企画を考えるというよりも、頭と体を企画ひねり出しモードにするための刺激剤と考えてください(中略)定期的に、できれば週に一回ぐらい、メガストアに行ってみることをおすすめします(87~90ページ)

得意分野が思いついたとしても、具体的なテーマとなると別の話です。永江氏の指摘するとおり、書店に行くというのは簡単に実行できかつ有効ですね。どんな本を書くべきか、それは読者が求めている本ということになりますが、書店にはその答えがあります(正確には、読者が求めていると出版社が考える本ですが、大きな違いではありません)。特に、そもそも得意分野が見つからないという場合は、書店で具体的テーマを目にすることで、それまで気づかなかった自分の得意分野に気づくこともあると思います。

 

古書店には古い本も新しい本も、いわば時空を超えて本が並びます(中略)企画を考えるフリーライターとしては、新刊書店で売っている誰でも手に入る本よりも、古書店にしかない今は絶版となっている本のほうが、企画の「ネタ」本としてはおいしいですね(中略)古書店は残すべき本と捨て去るべき本を選別する機能を持っています。それに対してブックオフは何でも受け入れてしまう。その結果、玉石混淆というか、圧倒的に石が多くなります。しかし、古書店、あるいはマジメな価値観からすると石であるけれども、フマジメな価値観からは玉であるような本が税込み105円で売られていたりするわけです(91~92ページ)

図書館を積極的に利用しましょう。図書館がいいのは、辞書などレファレンス本が充実しているところです(中略)何の目的もなく書架を端から順番に見ていく。本の背表紙を読んでいくだけでも、いろんなことを思いつくはずです。ふだんは足を踏み入れない児童書コーナーに行くのもいいでしょう。衣食住の歴史などをわかりやすく図解した絵本や図鑑のたぐいがたくさんあります(93ページ)

温故知新みたいなイメージでしょうか。書店と同じように、本のタイトルを追っかけていけば、少なくとも最近は聞いたことのないタイトルの本がいろいろあるはずですから、それが何らかの刺激になりそうです。いっぱい刺激を受けることが必要ということでしょう。

 

私がやるのは「ひっくり返し」です。世の中の常識に対して正反対のことを考える。(中略)「タバコは体にいい」とか「不健康は世の中のため」とか、もっと積極的に喫煙をすすめる企画はできないか、と考えるわけです(中略)常識や良識をあえてひっくり返してみて、そこからどんなkとが考えられるかという思考実験をしていると、意外とおもしろい企画につながります(93~94ページ)

フリーライターにとって「あたりまえ」や「当然」は禁句です「あたりまえ」「当然」「自然なこと」といった瞬間、思考停止に陥ってしまいます(122ページ)

 とても具体的な方法論ですね。この話は、テーマを考えるときにも有効ですし、テーマについて分析したり議論するときにも必要なことですね。122ページのような意識を持つための練習として永江氏は、「なぜ朝になると目が覚めるのか」「朝起きて顔を洗わないと不快なのはなぜか」「テポドン発射以降、北朝鮮の脅威を騒ぎ立てる人が増えたけれども、国境を接している韓国の人びとがパニックにならずに暮らしているのはなぜなのか」「芸能人のマリファナ所持がまるで凶悪犯罪のように報じられるけれども、マリファナ所持の“被害者”は誰なんだろう」などといった疑問を持つことが必要としています(123~124ページ)。正直どれも今まで考えたこともない難問ばかりですが、こういうテーマについて何らかの答えを示すことができるのであれば、それを読みたいと思う読者もいると思います。

 

企画書でいちばん重要なのはタイトルです。先ほどタイトル案と著者名だけで書籍の企画会議をする出版社の話を書きましたが、雑誌の特集であれ書籍であれ、読者に真っ先に届く情報はタイトルです。名は体を表し、タイトルが企画内容を表します。だからタイトルは練りに練って考えなければなりません。タイトルの勉強には本の目録と雑誌の目次が教材になります。特に『週刊新潮』や『週刊文春』など総合週刊誌のタイトルは勉強になります(中略)人間の心のいやな部分ー嫉妬や金銭欲・名誉欲・性欲や、のぞき見したい気持などーをうまく引き出すと同時に、それだけでなく正義感や同情心や友愛、哀れみ、郷愁などにも訴えてくる(中略)企画内容の説明も簡潔にします。ひとつの文章はできるだけ短いほうがいい(中略)装飾語も出来るだけ省きます。「すごく」「非常に」といった強調する言葉も少ないほうがいい(96~97ページ)

テーマが決まりました。さあ内容にというときに、それをどう表現するのかが問題です。ここの話は企画書なので、本そのものではありませんが、同じでしょう。それにしても、テーマ探しは常識を疑う、言い換えれば世間とは逆方向で考え、タイトルになると今度は世間の目線で考える、見事に正反対の思考回路が求められています。

 

ここまでテーマ探しに関係する部分をご紹介してきました。ただテーマが決まっても、それについて書けるか、というのは別の段階の話です。

私が飢え死にしなかったのはなぜでしょう(中略)三つめを挙げるとすると、ずっと本を読んでいたことです。今も昔もずっと本を読んでいる。それもいろんな本を読んでいます(24~25ページ)

本を読んでいても、たとえば小説が続くと違うジャンルの本が読みたくなります。小説でも、純文学、ミステリー、時代小説、恋愛小説など、いろんなものを読みます。まことに節操がない。でも、この無節操でデタラメな読書を続けてきたから、なんとかフリーライターを続けてこられたのだと思います(26ページ)

 永江氏は書くために必要なことを、本の冒頭でこのようにさりげなく書いています。

 

似たような本であっても、著者が違えば主張は少しずつ違っています。違っているはずです、類書がたくさんある中で、著者は自分の主張がいかに他と違っているかを訴えようとしますから。少しずつ違っているんだけれども、共通しているところもたくさんあります。その共通しているところが、同じテーマの本をたくさん読むことによってだんだん絞られてきます。そのテーマについての最大公約数的なもの、それが「本当のこと」といっていいでしょう。「本当のこと」は陳腐なものです。だいたい私たちの常識にかなうもの。一見、常識に反しているようでも、よく考えると納得できるもの(中略)もしもそのテーマに関する本を一冊しか読まなかったとしたら、それはギャンブルみたいなものです。それがとてもすぐれた内容の本だったら当たりです(中略)しかし、それが奇をてらっただけのトンデモ本だったら、間違った知識を得ることになります。間違った知識を元にしたのでは、間違った原稿しか書けません。その本が当たりかハズレかは、本をたくさん読んでみないとわかりません。たくさん読むうちに、その本を相対的に評価できるようになります(110~111ページ)

本に書いてあるという形だけで、ついついそれが正しいものと受け止めてしまう傾向があります。正しいことが書いてあるという前提がなければそもそも誰もその本は買いませんので、当然ではありますが。書くためには、まず本の内容自体も疑ってかかる、という言い方もできます。永江氏の述べていることは、まさにそのとおりだと思います。

 

自費出版の本などにある紀行伝や自伝(自分史などと呼ばれることが多い)。読者のためではなく自分のために書いた本です。自分がおもしろかったことを「おもしろかった」と書き、自分がつらかったことを「つらかった」と書いてあるだけ。そこには「読者にとってどうなのか」という意識がありません(中略)フリーライターの仕事は読者に代わって何かをする、いわば代行業みたいなものです。書評は読者に代わっておもしろい本を探して紹介する選書代行業(130~131ページ)

 なるほど。「代行業」というのはとても端的な表現です(別のところでは書評も含めてフリーライターの仕事を「好奇心代行業」(216ページ)と述べています)。書評が読書感想文であれば、紀行伝や自伝のようなスタイルで問題ないのでしょうけど、書評は、読者がその本を買うべきか買わないべきかの判断材料である以上、それとは異なるということですね。この後で永江氏は書評について詳細について論じていますが、単に本の内容を紹介するだけでは足りず、同じ作者のほかの本、同分野のほかの作者の本と比べて、その本を買う価値があるかどうかまで、論じる必要があると述べています(134~137ページ)。

 

フリーライターにとってトレーニングとは、とにかくいろんな文章を読み、かつ書くこと。そういえば豊﨑由美がいってました、「私はいつも考えている。どうやったらおもしろく書けるかを、ご飯を食べていても歩いていても考えている」と。考えなければ、おもしろい批評文は書けません(141ページ)

本を読んでそして書いて、その繰り返ししかないということですね。「陳腐」であるがゆえに「本当のこと」でもあります。大変なことですけど、同時にトレーニングであるならば、あとは本人のやる気の問題ということになります。