日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

反タバコの世の中でもタバコを吸い続ける喫煙者の方を応援する本

「タバコ狩り」室井尚平凡社新書、2009年6月初版第1刷、

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2020年の東京オリンピックに向けて、飲食店での全面禁煙を義務付ける法案の議論が先日ありました。結局、全面禁煙という結論にはなりませんでした。また、家庭内での禁煙を求める条例が東京都で成立しました。そこまで喫煙者の楽しみを奪っていいの?と思いつつ、でも禁煙は大事だし、と思い、バランスがよく分からなかったのですが、そんなときこの本を見つけました。

 

著者の室井氏は医学の専門家ではありませんが、喫煙者としての立場からこの本を書いています。

本書の出版は予想もしていなかった困難に見舞われた、実は、ある別な出版社の依頼によって執筆された原稿は、その出版社の「リスク・マネジメント」のために突然出版差し止めにされてしまったのだ(中略)その出版社の上層部からは、喫煙規制で肩身の狭くなった喫煙者が、それでも腰を低くしながら世間に対してへこへこと弁明するというようなスタンスが期待されていたのに対して、私の書いたものは、担当の編集者と話し合った上で執筆されたものであるにもかかわらず、その思惑とは全く違っていたことが理由だったようである(186~187ページ)

禁煙が当然という流れに対して、相当強く抵抗する内容の本であることがうかがえます。内容がとても楽しみです。

60歳以上の高齢者層において、目に見えて喫煙率が低下していることがわかります。逆に言えば、現役で働いている成人男性の4割以上は以前として喫煙者であることが見て取れるでしょう(中略)昼のオフィス街や夜の町を毎日忙しげに歩き回っている、現代社会を支える働き盛り世代の日本人男性の半数近くは、依然として喫煙者たちだったのです。そして、彼らはオフィスでも屋外でも喫煙を厳しく制限されており、のんびり一服することのできる環境をどんどん奪われています(10~11ページ)

現役世代の半分近くが喫煙者とは意外でした。私の周りを見渡してもそういう実感はありませんでしたが、喫煙するところをほとんど目にしないのでそう感じないのでしょう。そうすると、やっぱりそんなに多くの人の楽しみをどこまで規制していいのか、悩みます。

タバコの問題を考えていくと、必然的に文化や宗教の問題に突き当たらざるをえなくなります(33ページ)

私はぜんぜん「必然的」とは思っていませんでした(笑)。意外なアプローチです。

健康に与えるタバコの害を過大に宣伝して、過激な禁煙ブームを作り出したのはアメリカです(中略)この国は、「自由の国」の理想を掲げながらも、悪名高い禁酒法をはじめとして、多数派の主張を押しつけ、少数派の愉しみや権利を迫害してきた歴史をもっています(中略)「禁欲的」という言葉は、文字通り自らの内なる欲望を抑制し、欲望を「悪」だと捉える思考法を意味しています。酒やタバコやセックスはもちろんこのこと、場合によってはコーヒーや砂糖さえ禁じられるのです。そして、そういう自分たちの考え方が「正しい」といったん思い込むと、それを周囲の人たちに推奨するばかりではなく、無理にでも押しつけようとする傾向があります。なぜなら「正しい」ことを否定する者はすべからく「悪」であり、邪悪な「異教徒」となるからです。ですから、禁欲的な「ダイエット」や「フィットネス」などの健康法ブームがアメリカから始まったことにはちゃんとした理由があるのです(33~34ページ)

なるほど。とっても鋭くて説得力のある分析ですね。こう考えれば、喫煙者がどうなろうと関係ないということになります。

WHOの禁煙キャンペーンが本格化していったのは前にも述べたように、1980年代末のことでした。冷戦構造が終焉し、世界がアメリカを中心とあるグローバル経済市場として再組織化されていくにしたがって、国際連合やWHOによるグローバルな「管理システム」が強化されていったことは興味深いことです(48~49ページ)

意外と最近でもあり昔ともいえます。タバコ自体は大昔からあるのになぜ1980年代末から禁煙が言われるようになったのか、おもしろい分析ですね。禁煙が当然と思ってしまうと、そもそもいつから禁煙って言われるようになったのか、ということに意識が向くことがありません。

続いて室井氏は、禁煙の科学的根拠、データについて批判します。

タバコによる死亡者は国内だけでも年間六万五〇〇〇人とか一〇万人とか言われており、交通事故による死者数をはるかに上回っているというような宣伝がなされていますしかし、国内の支社の総数は一〇〇万人以上なのです。また、自殺者だけでも約三万人、不慮の事故や老衰と合わせると一〇万人以上が病気以外の原因でなくなっているのです(75~76ページ)

発ガン物質とされているものはタバコ一本の成分中約一〇〇〇万分の五グラム前後の超微量なのです。実は、お茶、コーヒー、みそ、醤油、ソース、ワインなど多くの食物にはタバコよりももっと多様で大量の「発ガン物質」が含まれているのです。そのうえ、タバコの葉の中にはその逆にすぐれて発ガンを抑える「発ガン抑制物資」も数多く含まれていますが、そのことに触れられることはあまりありません(85~86ページ)

タバコは「百害あって一利なし」などとよく言われていますが、もちろんそんなことはありません。まず、それはとても美味しい(中略)古いパイプで1時間以上もかけてタバコをのんびり喫っていると、口一杯に広がる香ばしい香りに包まれて、豊かでとてもリラックスした時間を過ごすことができあす(中略)コーヒー、お茶、酒などのあらゆる嗜好品と同じく、タバコは生活の中に他にかけがのない幸せと喜びを与えてくれるものであることがわかります(88~89ページ)

喫煙が良くないということは様々な科学的根拠に裏付けられているかと思われていますが、室井氏がその根拠を分析すると、どうもあやふやな感じがします。ここでご紹介したのは一部でして、ほかにも様々なデータなどについて室井氏は分析しています。

もはや耳にタコができるほどおなじみとなった主張なのですが、ここにはトリックがあります。主流煙の成分に関する調査は「二秒間吸い、六十秒間休む」という条件で測定されたものです。また、一回の吸引量は三五mlとされています。ふつう静かにしているときの呼吸量は五〇〇ml程度といわれています。つまり、三五mlというのはかなり小さく見積もられているのです。それに対して副流煙の方は六〇秒間に発生する量を測定しています。つまり、本来比較できないものを比較しているのです(100~101ページ)

受動喫煙の方が喫煙よりも有害であるので受動喫煙を防止すべき、ということで近年受動喫煙防止の動きが盛んです。飲食店での禁煙・分煙はその典型です。しかし、根拠となる科学的根拠がこのようなものだとすると疑問を感じざるを得ません。たしかに、直接タバコを吸う人よりも間接的に吸う人の方が有害物資を多く吸ってしまうというのは、直感的におかしい話です。室井氏は2009年の時点で「もはや耳にタコができるほどおなじみとなった」と述べていますが、お恥ずかしながら私は今回初めて知りました。

養老孟司氏は、現代の「嫌煙キャンペーン」をきわめて非科学的で不合理なものと指摘し、かつてニクソン大統領がベトナム戦争の枯れ葉剤に対する環境団体の非難をかわすために、政府の資金を使って故意に「反捕鯨キャンペーン」を作り上げたのにも似た、巨大な政治的陰謀ではないかと指摘しています。反捕鯨運動において、国連やIWC(国際捕鯨委員会)が果たしてきた役割と、欧米諸国が主導権を握るWHOが反喫煙運動において果たした役割とは確かによく似ています。たまたま、日本は捕鯨国側に属しているために、IWCの多数派が鯨の生存数に関して出してくるデータがいかにデタラメで、根拠に乏しいかということがマスコミなどでもよく扱われていますが、タバコの問題に関しては、全く同じようなデタラメな情報が、あたかも真実であるかのように報道されています(108~109ページ)

捕鯨と比較すると、禁煙や受動喫煙を禁止する根拠がいい加減であり、それが以前から指摘されているにもかかわらず、そのことが広く知られていないのか、という理由がよく分かります。私は喫煙者ではありません。

一般的に言って、タバコを吸わない人いとって他人のタバコの煙をかがされるのは不快なことに違いないと思います。ですから、分煙や定められた喫煙所の設置、人ごみでの歩きタバコの禁止などの措置は必要でしょうし、望まれることだと思います。しかし、ほんの少しのタバコの煙でさえも肺ガンや心臓病などといった深刻な健康被害を与えるとか、「タバコが人殺しである」などと言うのは、どう考えてもデッチ上げだとしか思えませんし、そんなことあWHOやFCTCで決められ、世界中に押し付けられるというのは、ほとんど狂気の沙汰としか思われません(123ページ)

受動喫煙に対する室井氏の考え方が示されています。喫煙者、非喫煙者どちらの立場にも配慮したとてもバランスがとれた立場ですね。

おそらくこのままの流れですと、私たち喫煙者は必敗の気配が濃厚です(中略)とても不合理なことではありますが、もともと人間の文明というのは時々こうした不合理な過ちを犯すものなのです(中略)問題なのは、文明を動かしているのが「人間の理性」だと確信している人々の方です、タバコをめぐる言説に典型的なように、(人間の理性に支えられた、素晴らしい!)「科学」によってタバコの有害性は「完全に証明されている」のだから、そのことが「エビデント」である以上は、それを「絶滅」し「消滅」させることが「正しい」と、頑なに信じ込み、決め付けているような人々のことです。この場合の「科学」は中世における「ローマ教会」とほぼ同じ意味で使われています。私はこういう人たちに対しては単純に「醜い」と思っています。こうい人たちの特徴は、WHOや医師会という権威におもねり、それに従わない人たちに対して居丈高に自分たちの「正しさ」を押しつけ、がんじがらめに社会を管理しようとすることです(159~160ページ)

室井氏の達観した気持と同時に激しい怒りを感じます。別の箇所(164ページ)では、反タバコ運動はまるで中世のローマ教会の「異端狩り」と似たものとなっていると述べています。

少し前に話題になった『生協の白石さん』(講談社、二〇〇五年)という本の著者の白石さんがJTの広告に出ることになった時に、勤務先の東京農工大には嫌煙運動の人たちから大量のクレームがあって、そのために広告出演はできなくなったという話を聞きました(149~150ページ)

この話も知りませんでしたが、異常ですね。反タバコの立場であれば何をしても許されると思っているのでしょう。こうい人も「醜い」のでしょう。

タバコ規制とは単にそれだけの問題ではなく、社会の隅々まで権力による監視の目を光らせ、ほんの少しのルール違反でも許さないような他者や異分子に対する不寛容を特徴とする息苦しい超管理社会から生み出されてきたものなのです。迷惑なもの、目障りなもの、治安を脅かすものを徹底して排除し、どんな些細なことまでも法律とか条令とかで取り締まろうとする、潔癖神経症社会の象徴が、タバコ規制なのです。その意味で、タバコを吸い続けるということは、そんな社会に対する異議申し立ての意味合いも含まれているのではないでしょうか?(178~179ページ)

もともと反タバコ運動は日本に輸入されてきたものですが、日本の超管理社会とあわさって、それが過剰、異常に推進されているということですね。WHOも日本がここまでやるとは驚いているかもしれません。