日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

さいきん世の中おかしくない?変ではない?と感じるけど、何がどう変なのかはっきしない方に読んで頂きたい本

善人ほど悪い奴はいない ニーチェの人間学(著者:中島義道)、角川新書、2010年8月初版発行、2016年8月6版発行、

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いまや私は年を取り、現代日本の若者たちの何の実績にも基づかない強烈な自尊心に呆れるばかりである。とくに「2ちゃんねる」などの掲示板で糞尿を投げつけるような幼稚な他人攻撃に「ああ、これはどこかで出会ったことがある」と感じ、それが自然にニーチェに繋がっていった(7ページ)

 

2チャンネルの攻撃的な書き込みからニーチェを連想するとは、とても意外です。これを読んでとりあえず思いつくのは、いつの世にも同じタイプの人はいるという感想でしょうか?もちろん、この本はそんなレベルの話ではありません。

 

まず私なりに「弱者」を定義しておこう。

弱者とは、自分が弱いことを骨の髄まで自覚しているが、それに自責の念を覚えるのでもなく、むしろ自分が弱いことを全身で「正当化」する人のことである。

(中略)「私(俺)は弱いから」という理由を、臆面もなく前面に持ち出して、それが相手を説得し自分を防衛する正当な理由だと信じている人、自分が社会的に弱い立場にいることに負い目を感じることがまるでなく、それから脱する何の努力もせずに、むしろ自分の弱さを当然のごとくに持ち出し、「弱者の特権」を要求する人のことである。すなわち、弱者とは、自分の無能力を、自分の無知を、自分の怠惰を、自分の不器用さを、自分の不手際を、自分の人間的魅力のなさを、卑下せず恥じないばかりか、「これでいい」と居直り、そればかりか「だからこそ自分は正しい」と威張るのだ(10~11ページ)

 

なんとなく感じていたモヤモヤしたことを、ここまで的確にかつ鮮やかに表現してくれている文章を見たことありません。この種の主張、さいきんよく見かけます。たしかに、インターネット上で多いですね。このあと、この「弱者」のさまざまな主張を著者の中島氏は紹介しています(そして、粉砕しています)。

 

俺(私)は弱者なんだから、みんなが理解していることが理解できなくとも、思わぬ過失をして大損失しても「しかたない」とはならない。そうではなく、弱者の理解力に合わせて、弱者がいかなる損失も被らないような「思いやりのある」社会を実現しなければならないのだ。つまり、自分ら弱者に社会全体が「合わせるべきだ!」と大声で訴えるのである。こうすることによって、彼(女)は社会全体を弱体化することを目指す。それは、とくに現代日本において恐ろしい勢いで実現されつつある。すなわち、この暴力的な「弱者の声」に政治や行政や企業が平身低頭はいつくばり、その怠惰きわまりない傲慢さにわずかも抵抗しようとしない、という社会が実現されつつある(18ページ)

 

企業とかに対するクレーマーとかが話題になる背景に、この「平身低頭はいつくば」っていることがあるのでしょう。中島氏はここでは若者を念頭においているようですが、それには限らないと思います。暴走老人(車の運転の話ではなく)なんていうのも、同じ話です。他の記載では、高齢者についても指摘しています。

 

後期高齢者はもっと謙虚になってもらいたい。いかに真面目に働き続け、長年月、年金のために積み立てていたとしても、現在自分たちは労働をせず、若者壮年たちに労働をさせて、その「あがり」でただ生きているだけだ、ということを自覚してもらいたい。後期高齢者は、精神的にも肉体的にも社会的にも、疑いなき弱者であることを自覚して、かつてなら「姥捨山」に捨てられる身であることを自覚して、「生かされていること」に対してもっと謙虚になるべきである(55~56ページ)

 

さいきんの年寄りの自己中心的についてはいぜんブログで書きましたが、この中島氏の指摘はまさにそのとおりです。

 

mogumogupakupaku1111.hatenablog.com

 

ちなみに中島氏は1946年生まれです。

 

彼らは、安全を求めながらみずからは何もしない。その過酷な仕事を、国家に政治家に官僚に企業家に・・・つまり強者に期待する。強者が自分たちのために安全を確保することは義務なのだ。そして、それができない強者を嘲笑し、足蹴にし、罵倒し、追放する。なぜ、これほどの暴力が許されるのか?答えはすこぶる簡単である。特別何も持っていない、小さな幸福で満足している、平凡で従順な自分たちが、共同体において唯一「正しい」者だと教育(洗脳)されているからなのだ(50ページ)

 

この表現は抽象的ですが、この例は分かりやすいです。

 

現代日本人は、一体どうしてしまったのであろう?だらりと寝ぼけ眼で歩いても、前後左右いかなる注意も払わなくても、いかなる災難にも遭わない駅や道路や街や村や観光地の実現を求めるのだから。こうして、海水浴場でも、プールでも、行楽地でも、遊園地でも、駅構内でも、電車の中でも、バスの車内でも、エスカレーターでも、動く歩道でも、・・・一滴の危険がありうるところ、日本国中バカ放送が溢れ返る。誰もこうした神経症的安全主義に講義しない。それがいかに人間をダメにするか、自らの責任を回避し、他人(お上)に責任をなすりつけ、だから人々はますます鈍くノロマになっていく(53~54ページ)

こうして、この国の善人どもは、自己責任などすっかり忘れ、身の安全を「お上」に丸投げして、注意放送がないと怒鳴り込み、注意放送があってもそれを無視して駆け込み、その結果自分が僅かに傷ついても顔面を引きつらせて怒り狂うのである(128~129ページ)

 

これはなるほどという感じです。「暴力」かどうかはともかく、とにかく、強者にすべての責任をなすりつけているとっても分かりやすい例です。

 

強い者がその強さを誇示することなく、その強さで弱い者を虐げることなく、むしろ自分の強さを「悪」とみなす制度、弱いものはこうした制度を「公正」であると考える(中略)「公正(gerecht)」という言葉は「復讐(gerächt)」という言葉と響き合っている。「公正」を求める弱者は強者に復讐したいのだ。強者を臭いドブの中に叩き込んで、自分たちと同じ汚い輩に改造したいのだ(124~125ページ)

 

ときどき、芸能人の人が海外に移住したり、特に、子育てを海外でするというケースがあります。あくまでも想像ですが、こういう日本社会における弱者の振る舞いに嫌気がさしているためかもしれません。

ここまで紹介した文章からも、じゅうぶんに、いまの日本はだいじょうぶか?と不安になりますが、このままだと、さらに恐ろしい結末があるかもしれません。

 

ヒトラーに率いるナチスは、多くの国民に頭が相当悪くても理解できるようなわかりやすい希望と目的を示した。当時、ヒトラーアーリア人優秀説は、自分をダメだと信じ込んでいたどんなに多くのドイツの若者たちを救ったことであろうか?さらにその対極に悪魔の使いのような劣等人種であるユダヤ人を置くことで、なんと展望の利く形でその思想を受け容れることができたであろうか?マヌケでもウスノロでも役立たずでも、ドイツ人というだけでもう合格なのだから、こんなにラクで簡単なことはない(中略)まさにヒトラーは、最も単純な頭の持ち主でも賛同できる「強者支配案」を打ち出したのである。自分の劣等感を完全に払拭してくれ、何も努力しなくても自分は落ちこぼれではないと思い込める食物だけを与えたのだ。そういう幻想に陥りたい弱者どもの喝采を受けたのだ。しかも、ヒトラーが、こうした単純きわまりない思想以外のすべての思想を徹底的に弾圧することによって、「健全な」国家を望んでいたことを忘れてはならない。そうすると、ああいうことになるのだ。大衆が目を輝かせて怒涛のようにヒトラーを出迎え、全身の嫌悪をもってユダヤ人を告発する社会になるのである。問題の難しさが浮き彫りになってきたであろう。弱者が蔓延し、力を持つ社会が実現されつつある。だた、そこからの出口を安直に提唱するわけにはいかない。その果てには、もっと恐ろしい社会が待ち受けているかもしれないのだから(42~43ページ) 

 

さいしょ、ヒトラーの話と結び付けるのはいくらなんでも飛躍がすぎるのでは?と思いましたが、よく読んでみるとそうでもありません。ドイツの若者と日本の若者、同じような状況にあります。さいわい、ヒトラーのような政治家がいまの日本いないことが救いですが、将来はどうなるかは分かりません。

ここまで読んできてわたしは、てっきり自分は中島氏のいう「弱者」とは別であると思いつつも、「弱者」の行動として中島氏が指摘することにまったく身に覚えがないわけでもなく、自分は「弱者」に入るのかは入らないのかどっちだろう?と思っていたのですが、こう中島氏は述べています。

 

周囲のものを畜群とみなして批判し軽蔑するのも結構である。しかし、多くのニーチェ研究者やニーチェ愛好家が落ち込む罠であるが、自分は畜群とは反対の高貴な者の位置に据えて畜群を裁くのは、限りなくオメデタイのではないかと思う(中略)高貴な者をあくまでも「理念」としてとらえるとき、読み手の清潔さは保たれる。だから、この箇所も「真に高貴な者なら、高貴でない者を隷属させ犠牲にさせてよいであろう、しかし、そういう者は人類の歴史始まって以来現実にはいなかったのだ」と解するのが妥当である。善人=弱者を批判する者は、善人=弱者を完全に脱している者ではない。そうではなくて、善人=弱者から脱したいと全身で願う者である(これはオルデガの「エリート」の定義に呼応している)。そして、その分だけ純粋な善人より少し優れているのだ(148~149ページ)

 

わたしもお、すこしでも「善人=弱者から脱したいと全身で願う者」でありたいものです。