日々読書、時々一杯、折々投資

モグパクです。都内で働くサラリーマンです。 新書・文庫を1日1冊読むのを日課にしてます。あと、酒(主に日本酒)を飲むこと、投資をすることが好きです。

美術がにがてであった方も明日から色をえらぶセンスに自信が持てるようになる本

色彩がわかれば絵画がわかる(著者:布施英利)、光文社新書、2013年12月初版第1刷発行、

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みなさんは、沖縄に旅行に行ったとき、沖縄は空がいつもよりよい青いなあと、思ったことはありませんか?ふつうそれは、空の青さの濃さの違い、濃さという表現がよくないとしても、青色の色のちがいと考えます。しかし、布施氏はこう指摘します。

 

あるとき改めて沖縄の、つまり南国の空を見たとき、空の青さは、東京のそれとさほど違わない、ということに気づきました。違うのは、空の青さではなく、雲の白さだと気づいたのです。沖縄の雲は、東京では目にする機会がないほどに、白く、濃く輝いていました。この白が、南国独自の空の風景をつくっている。なぜ雲の白が強烈かといえば、それは光が強いからでしょう(38ページ)

 

色彩というのはふくざつだなと思いました。ある色の輝きは、その色ではなく、他の色の影響を大きく受けているのです。この本は、そんな色彩の理論をここまでやるか、というぐらい追求しています。さいしょは、イタリアの画家ラファエロの「小椅子の聖母」の分析です。

 

マリアの服の色は、ふつう赤い上着で、青いマントをはおることに決まっています(中略)このマリアの赤と青の間に、幼子キリストは、黄色い服を着ています(中略)この黄色が、マリアの赤にはさまれて、赤―黄―青と、まさに三原色の記号を絵に描いたような、典型的な配色になっています(中略)もう一つの色があります。マリアの肩にかかる、肩掛けの緑です(中略)この肩掛けの緑色は、同じ人物であるマリアの腕の赤い服の色と向かい合っています。いわば赤と緑という補色の関係が、赤・黄・青の三原色の調和の世界に加えての、もう一つの色彩世界をつくっているのです(114~116ページ)

 

絵を見るとき、とうぜん色づかいというのも目に入ってきます。しかし、色彩の理論を駆使すると、色の内容、配置がどのような意味をもつのか、あざやかに示してくれます。では、画家はなぜ、そのような配色にしたのでしょうか?偶然でしょうか?布施氏はこう述べます。

 

当然ながらラファエロは、「たまたまこのような配色をした」のではなくて、計算して、考え抜いて色を塗ったことは明らかです。ここには、色彩の根本原理の探求があるのです(117ページ)

 

優れた画家の条件のひとつかもしれません。布施氏の分析の対象は絵画だけではありません。小説までしてしまいます。分析されたのは、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(著者:村上春樹)です。

 

主人公の多崎つくるには、高校時代に仲の良い四人の男女がいました。男は赤松慶と青海悦夫、女は白根柚木と黒埜恵里と、それぞれの名前に、色名の文字が含まれています。赤と青と黒と白です。この五人の仲良しグループでは、主人公の多崎つくるだけが、色がない、つまり存在感がないキャラクターとして設定されています。この赤と青、そして白と黒は、ここまで書いてきたように、色の中で代表的なものです。それは色彩世界の全体像を示していますし、つまり世界の調和を暗示しているともいえます(中略)さらに途中からは、灰田と緑川という男も登場します(中略)これらの脇役の登場で、色彩世界は、さらに完全なものとなります(中略)つまり、この小説には、あと黄色が欠けているのです(中略)そして、多崎つくると木元沙羅だけに、色を示す文字がない。しかも、この小説は「黄」が欠けていて、黄色を希求する世界なのだ、と。しかし、あることに気づかないでしょうか。この二人の名前の読みを、ひらがなにして「たざきつくる」と「きもとさら」にしてみると、共通する文字(=読み)が一つだけあります。「き」です。そう「黄」ではありませんか(164~166ページ)

多崎くんは、自分も色をもった人間であると、じつは生まれながらに色をもっていると気づかせてくれる、それが彼がだとった人生、この小説のストーリーなのです(中略)多崎くん、君には「黄色」という色がある。そう言って、肩を叩いて、励ましてみたいものです。そうすれば、いつか誰かが、今度は自分の肩を叩いて励ましてくれるかもしれません。君こそは、世界を完成させるための、最後のピースなのだ、と。色彩の理論は、世界の調和の在り方を教えてくれるのです(168~169ページ)

 

色彩論が人生論にまでたどりついています。言っていることは理解できてしまいます。色彩の理論は奥が深いです。布施氏の色彩論はまだ続きます。次は、生命です。

 

血が赤いのは、ケガをしたときなどにも見ることができるので、知っている色です。しかし、体の中には、血の赤以外に、黄色や緑や紫や、ときには青い何かがあったりします。色鮮やかな世界なのです(中略)生き物の体に色があるのは、なぜか。それは、生き物が目をもっているからです。私たちの内臓が色鮮やかなのも、体に目があるからです(198、200ページ)

 

なぜその色なのか、色にはすべて理由があるということが布施氏の色彩論の立場のようです。そうすると、わたしたちが、日常の中で、何色にするのかを決めるとき、それにも理由がないといけないことになります。何となく、好きな色だから、きれいだから、ではダメということになります。でもどうやって決めればいいのか?

 

ゲーテの調和論の基本は、とりあげる二色が、それを混ぜると灰色になる、ということでした。それが反対の色、つまり補色の組み合わせということです。イッテンの色彩論も、ゲーテと基本は同じです。ただゲーテでは「二色の組み合わせ」が具体例の中心であったのに対して、イッテンは、ゲーテの理論そのままに、三色や四色の組み合わせへと話を展開していきます(中略)イッテンがゲーテと共通している考え方の基本は、「色を混ぜると灰色になる」ということです。反対の色を組み合わせると、色相の中にあった色みが消えて灰色になるということです(181ページ)

 

色を使うとき、それを混ぜると灰色になる色を組み合わせて使うのが「調和」がとれるというのが、使う色を決める基準です。組み合わせの数は、2つ、3つ、4つどれでも同じです。では、具体的にはどういう組み合わせなのか、それは、この本の183ページの色相環を見ると分かります(イッテンの色相環をここに示せないのがとてもざんねんです)。

 

布施氏のように色彩論であらゆることを分析することは、とうぜいわたしにはできませんが、色相環をつかって、調和のとれた組み合わせで色を使っていく、ということはできそうです。子供のころから美術センスがゼロのわたしにとっては、とっても助かります。