日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

「哲学?そんなの生活になんの関係もない」と思っている人、この本を読んでから判断してほしい

ツチヤ教授の哲学講義ー哲学で何が分かるか?(著者:土屋賢二)、文藝春秋、2014年12月発行、

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学門にはいろんなものがあります。

「法学」、「経済学」、「心理学」、「物理学」、「教育学」・・・・・・。勉強したことのある人はもちろん、したことのない人であっても、これらの学門がどんな学門なのか、だいたいのイメージはわかります。言い換えると、何を研究対象としているのかは、分かります。「〇〇学」なんだから、「〇〇」について研究するのだろう、という感じです。

「哲学」の場合どうでしょう?「哲」を研究するといっても意味がつうじません。

 

この本は「哲学」とはどういう学門なのか、ということを取り上げています。しかし、哲学といえば、「時間とはなにか」、「存在とはなにか」、「人生とはなにか」というのがお題です。ただでさえ難しいのに、その上、「哲学とはなにか」なんていう問いは、難しすぎです。

 

でも、心配はいりません。この本は、著者の土屋氏が、大学の1、2年生向けに講義した内容を収録しています。とても親しみやすく話してくれていて、わたしが学生のころにこんな授業があったらきっと受けていただろうなあと思う授業です。

 

いかに人間は誤りやすい動物か

 

この本のユニークなところは、偉大な哲学者の主張であっても、それは誤りだと思うとばっさり斬ってしまっているところです。たとえば、デカルトの有名な言葉「われ思う、ゆえにわれあり」。哲学を勉強したことのない人でも知っていると思います。私も知っています。
この言葉は、すべての存在は確かとは言えない、でも、疑っている自分がいまいる、それゆえ、自分の存在だけは確かであるという意味です。しかし、土屋氏はこういいます。

 

彼が見出した根本的な真理とは、結局は「言語の規則はこうなっている」という主張にほかならないようにぼくには思えるんです。デカルトは、世界の真理を探り当てたわけじゃない、と

 

「言語の規則」がなにかはこの本を読んでいただくとして、「何かすごいことを発見したと思われてるけどじつは大したことないんだよね」というのが土屋氏の評価であり、とてもユニークです。

 

哲学とは形而上学である

 

形而上学」という言葉、聴きなれない言葉です。そもそもこれなんて読むのかというとこから始まります。「けいじじょうがく」と読みます。わたしはこの本を読んで初めて正確な読み方を知りました。
でも、だいぶ哲学らしい感じになってきなあという感じがします。土屋氏の説明はこうです。

 

世界は、手で触ったり、目で見たり、感覚で捉えることのできるものから成り立っていると思えますよね。でも、そういうものや観察できる事実をさらに超えたものが存在すると考えられることがあります。それを「形而上学的なもの」と呼んでいます

 

この形而上学的真理を解明するのが哲学である、と言われれば、そうだなあと思ってしまいます。しかし、この本はそれでは話は終わりません。そこが、この本の面白いところでもあり、哲学の本としてはユニークなところでもあります。

 

哲学は原因を説明することはできない

 

形而上学はどこに行ったの?」と思ってしまいますが、土屋氏の立場はこれのようです。哲学者がこんなこと言っていいの?という疑問を感じてしまいますが、正直と言えば正直です。
これを聞くと、じゃあ哲学なんて学門は不要ではないか?と思ってしまいます。しかし、そうでもないところがまた面白い。土屋氏の説明はこうです。

 

哲学はものを知るというか、理解する営みです。われわれはいろんなことを知らないし、さまざまな誤解にすぐに陥ってしまうんですけれど、それに逆らってものを知ろうとするのが人間です(中略)何も知らないまま、誤解したまま、一生を終わりたくない、と思っているし、多くの人もそう考えるんじゃないかと思います。そういう気持に応えるのが哲学だと思います

 

わたしはこの部分をよんだとき、ちょっと感動してしまいました。知りたいことを知る、というのは、人間の基本的な欲求の一つだと思うからです。もちろん、知らないからといって死ぬことはぜったいにありませんが、でも、なんにも知らないまま死んでしまうのも、もったいない。

 

まるで神棚にあるかのような哲学が、このときから、自分の隣に降りてきてくれたような感じです。

 

 

はしかの予防接種を受けてみた。意外と高かったけど、受けて良かった。

「はしか」

 

感染力は最強といわれています。はしかになっている人と同じ室内にいるだけで感染は避けられないといわれています。

最初は沖縄で患者が発生し、その後、愛知、福岡、東京と全国に飛び火しています。

 

いぜんはしかになったことがある人、あるいは、2回の予防接種をちゃんと受けている人は問題ないのですが、そうでない人もけっこういます。

なぜなら、昔は、学校での2回の予防接種が実施されていなかったためです。厚生労働省HPにはこのように書かれています。

 

Q.7 ワクチン接種を受けた方が良いのはどのような人ですか?
A.7 定期接種の対象年齢の方々(1歳児、小学校入学前1年間の幼児)は、積極的勧奨の対象ですが、定期接種の時期にない方で、「麻しんにかかったことがなく、ワクチンを1回も受けたことのない方」は、かかりつけの医師にご相談ください。
 平成2年4月2日以降に生まれた方は、定期接種として2回の麻しん含有ワクチンを受けることになりますが、それ以前に生まれた方は、1回のワクチン接種のみの場合が多いと思います。また特に医療従事者や学校関係者・保育福祉関係者など、麻しんにかかるリスクが高い方や麻しんにかかることで周りへの影響が大きい場合、流行国に渡航するような場合は、2回目の予防接種についてかかりつけの医師にご相談ください。

 

このほか、あまり例はないと思いますが、予防接種もなし、はしかになったこともないという人です。じつは、わたしはこのパターンなのです。

 

ちょっとおそろしくなってきたので、この前、はしかの予防接種を打ってきました。そのときの体験をもとに、みなさんがはしかの予防接種について気になることをQ&Aにしました。

 

Q1 どの病院で打ってもらえるのか?

 

わたしはいつもお世話になっている近所の内科で打ってもらいました。ふつうのどこにでもある(失礼な表現で申し訳ありません)個人経営の町の病院で、大病院とかではありません。

 

Q2 すぐに打ってもらえるのか?

 

わたしの場合は、さいしょに病院に電話して「はしかの予防接種をしてもらえるか?」と聞いたところ、先生が薬屋(病院に医薬品を卸売りしてくれる業者)に電話してくれて、「1本なら手に入るから明日にでも来てください」と言われ、翌日には打ってもらえました。

先生によると、はしかが流行しているため、予防接種の注射はやや不足気味だそうですので、いつでも翌日注射してもらえるかはケースバイケースでしょう。ただ、はしかの予防接種の注射をいつも準備している病院は少ないと思いますので、事前に電話した方が確実でしょう。

当日は、さいしょに簡単な問診表に記載をしました。体温とか、他に薬を服用しているか、といったよくある質問ばかりの普通の問診表に記入をし、記入が終わるとすぐに注射してくれました。5分もかかりません。すぐに終わります。

 

Q3 予防接種のあとはどうなるのか?

 

予防接種ははしかの抗体を体内に入れることになりますので、それの反応があり得ます。注射の5日後~2週間後を目処に、はしかに似た症状が出ることがあるそうです。わたしは幸いでませんでしたが、これは個人差があると思います。

先生から私が言われたのは、注射当日は運動とか風呂に入らないようにすること、反応がでるかもしれない期間は、なるべく静かに生活するようにと注意を受けました。

 

Q4 いくらかかるの?

 

これが1番重要な話しです(笑)。わたしの場合、注射は1本で、

 

10000円

 

でした。健康保険は使えませんでした。全額自己負担です。保険外なので、病院によって料金が異なってもおかしくはありませんが、おそらくそれはないと思いますので、10000円というのが相場と思っておいて良いのではないでしょうか。

金額的にはけっこういい値段するなあというのが正直な感想です。2回打てば20000円ですし。

 

でも、これで自分自身がはしかになることを防げますし、また、自分を経由して自分のまわりの人にはしかをうつしてしまうということも防ぐことができるわけですから、決して高くないと思います。もちろん、予防接種しないと必ずはしかになる、というものではありませんが、そうだとしても、安心料と思えば、ありでしょう。

 

私自身は、予防接種を受けて良かったと思っています。

悩めるサラリーマンにうれしい本です。仕事、家庭いろんな悩みに答えてくれます

サラリーマンの悩みのほとんどにはすでに学問的な「答え」が出ている(著者:西内啓)、マイナビ新書・電子書籍、2012年7月初版第6刷に基づく

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タイトルが、かなり驚きです。なぜって、「学問」というと、理論的、専門的で、「学問」している人なんて一般人より頭が良いのは間違いない、けれど、実際の生活にはあまり役に立たないというイメージです。

しかし、この本のタイトルは、そんな「学問」がサラリーマンの悩みのほとんどを解決してくれるというのですから、驚きです。著者の西内氏のタイトルに込められた思いは、この文章に端的に出ていると思います。

  

日本のビジネスマンのほとんどが、経済学も、マーケティングも、会計学も、組織行動論も、直接的にビジネスと関連しそうな学問のこともほとんど理解していません。そして、自分と上司や先輩の「経験と勘」だけで国際的なビジネスの競争にさらされています。その一方で欧米の企業ではこのあたりの学問を当たり前のように使いこなせるよう教育されたMBAたちが、科学的な視点で日本的経営の強みを分析していたりもするのです 

 

(大学の)学問をバカにするな!という思いを感じます。

わたしも仕事では、たしかに「経験と勘」で仕事をしてきた覚えがありますし、それがおかしいと感じたことはありませんでした。では、そんな「学問」によって、どんなサラリーマンの悩みが解決できるというのでしょうか?

西内氏はこの本で、大きくわけて6つの悩みについて「学問」がどう考えるのか、説明してくれています。たとえば、

 

なぜ、お金が貯まらないのか?

 

どうすれば職場の人間関係はうまくいくのか?

 

なぜ、いくら仕事をがんばっても家庭がうまくいかないのか?

 

といった悩みに答えてくれています。

どの悩みもサラリーマンにとって、とても切実な悩みです。誰もが少なからず悩んだことのある悩みと言えるでしょう。悩みをもつサラリーマンの方にはぜひ読んで頂きたいのですが、読む前にあらかじめ知っておく必要のあることがあります。それは、

 

学問が教えてくれる答えの内容自体は、それほど珍しいものではない

 

ということです。言い換えると、「えっ、こんな素晴らしい方法があるなんて知らなかった。学問ってすごい!」と感動するようなことはないということです。言われてみれば、「たしかにそういう方法もあるよね」と思うでしょうし、「わざわざ学門を持ち出さなくてもそれぐらい知っているよ」と思ってしまうものもあるでしょう。

では、それでもこの本から学べることは何かあるのか?、という点が重要になってきますが、私の答えは「あります」というものです。

  

学問的に裏付けられた方法が的外れになる確率はとても低い

 

「経験や勘」から思いつくアイデア、方法は、当たっていることもありますが、的外れのこともあります。そのときは当たりの方法でも、偶然が重なった結果にすぎないということもありあすし、あるいは、環境がその時と今では変わってしまい通用しない、ということが原因です。西内氏もこの本で指摘していますが、有名人の成功法則をまねしてもうまくいかないというのと同じ話しです。

一方、学問的に検証された方法は、そういうばらつきがないかどうか、学者によって研究や検証がされた方法ばかりです。「学門」の実力、なかなかのものです。

 

食わず嫌いは損します

 

昔受けた大学の授業がつまらなかったからといって、「学門」が実用的でない、役に立たないと思い込むのはもったいない。食わず嫌いは損します。扱う内容はとても高度な内容を扱う本ですが、とても読みやすいです。西内氏の優しさを感じます。それに、各章の最後には「まとめ」がありますので、とっても理解しやすく、親切設計です。

もちろん、サラリーマンだけでなくサラリーパーソンみんなに役に立ちます(笑)

広岡氏が大谷選手の二刀流に厳しいのには訳がある。広岡氏、さすがただ者ではないと思わせる本です

日本野球よ、それは間違っている!(著者:広岡達郎)、幻冬舎、平成30年3月発行電子書籍

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著者の広岡氏は、1954年に巨人に入団し名ショートとして活躍。引退後は、監督としてヤクルトと西武で日本シリーズに優勝。つまり、野球の選手・指導者としてとても実績のある者です。この本は広岡氏が現在の日本野球の問題点を指摘している本ですが、けっこう過激な内容もあります。たとえば、

 

それでも大谷のポスティング移籍には反対だ!

 

大谷の二刀流は才能の無駄遣い

 

清宮はプロの前に大学に行くべきだった

 

筋トレの肉体改造は野球選手にとって有害

 

メジャーの猿まね制度改悪は間違っている

 

ビデオより審判を信じたい

 

といった感じです。

野球に興味のない方には、「何のこと?」という感じでしょうけど、野球ファンであれば、どれも知っている話ばかりだし、ふつうにマスコミなどで言われることは、だいたい、広岡氏の言うことの逆。

 

例えば、大谷選手の話しであれば、「ポスティング移籍、いいんじゃないの。若いうちからメジャーで頑張れ」「二刀流いいねえ。ふつうできないことをやってる大谷選手はすごい!」という感じでしょう。じっさい、大谷選手、メジャーでも活躍しているようです。しかし、それでも広岡氏はその主張をまげません。

 

ちゃんと考えるということはこういうこと

 

これだけだと広岡氏、ただの頭の固い頑固オヤジ(1932年生まれ)。日曜の朝に「喝!」と言ってときどきバッシングされている某元野球選手と変わらないように見えます。

しかし、この本を読むと、決して、ただの精神論とか気合みたいなことで広岡氏が主張しているのではなく、ちゃんと理由があることがよーく分かります。ちゃんと考える、というのはこういうことを言うのかと勉強になります。言い換えると、マスコミとかが知らずに報道していない(あるいは、知っていてもあえて報道していない)事情がいろいろあり、必ずしもマスコミが報道するような単純な話しではないということがよく分かります。

 

広岡氏の選手指導論は、実社会でも役に立つ

 

広岡氏は現役引退後、コーチ、監督して多くの選手を指導しています。この本では、そんな指導者としての経験から、あるべき指導論を述べています。もちろん、広岡氏は野球選手に対する指導の話ししかしていません。しかし、だから実社会では関係ない、というのは違います。

野球選手は、いわば野球のエリートばかり、プライドもあり、また実力もある人ばかり。つまり、人の言うことを素直に聞くタイプではありません。そんな選手を指導するのは、会社で部下や後輩を指導するのに比べれば、はるかに大変。だから、実社会でも役に立つんです。

 

野球に興味のある人だけでなく、興味のない人にも、勉強になるところがある本です。

職場の上司の言っていることが意味不明、付き合いきれないと思うときに読んで頂きたい本

上司は思いつきでものを言う(著者:橋本治)、集英社新書、2004年4月第一刷発行、2004年7月第七刷発行、

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よく考えもせずに適当におもったことをそのまま言う上司、みなさんのまわりにもよくいるのではないでしょうか?

わたしもそういう上司と働いた経験があります。ほんとうにそういう上司はめいわくなものです。この本は、なぜそんな上司が発生してしまうのか、そして、そういうときはどうすればよいのか、を教えてくれる本です。

 

「よく考えてみろ」「ちょっと考えてみろ」

 

どちらも思いつき上司が言いそうな言葉です。ほんのちょっとした日本語の違いですが、橋本氏によると、ぜんぜん意味が違うそうです。「よく・・・」と言うときはすでに上司の頭の中で答えができあがっていてそれに気付けというメッセージ、「ちょっと・・・」は上司自身の頭の中にも答えがなくてそれを考えろというメッセージ。日本語は難しいですねえ。ただ、どっちの場合にしても、その内容が思いつきの域を脱している保証はまったくありません。

 

会社がオワコン扱いされてしまうのもしょうがない

 

橋本氏によると、過去の会社の活動を否定するような提案、部下の優秀な提案に対して上司は、どうしても否定から入ってくる傾向があるそうです。その否定の具体的な形のひとつが思いつきでものを言うでしょう。上司は否定的なコメントをいろいろするけど、部下からすると、どれも的外れの内容にしか聞こえない、ここで「思いつき」完成です(笑)。ここでやっかいなのが、思いつきを上司が言うのは、その上司が無能であるからという訳ではないということです。むしろ優秀な上司にもこの傾向があります。つまり、上司ぜんぱんにあり得るということです。これでは若い人が会社を嫌がるのも無理はありません。

 

会社が大きくなると思いつき上司が発生してしまう

 

大企業病ともいえます。組織の官僚化、硬直化の現象です。なぜそんなことが起こるのか?会社がおおきくなると、文句を言うだけで実際に手を動かさなくていい人が会社に発生してしまうからだそうです。コメントするのが仕事みたいな人です。たしかに、中小企業とかであれば、そんなゆうちょうなことを社員にさせる余裕は会社にはありません。若い人が特に大企業から逃げたくなるのも無理はありません。

 

上司の思いつきはただあきれるのみ

 

不幸にしていま会社で思いつき上司と仕事をしている人はどうすればよいのか?橋本氏の対処法は簡単、「戦い」にしないことです。ふつうこういう上司に対していろいろ説得をしようとすることが対処法ですが、まったく逆です。かなり意外な方法ですが、意外と効果ありそうです。論拠のない上司の思いつきと論争することは、論拠のないことに論拠を与えるという間違いをしたことになるという橋本氏の言葉は、名言です。

 

橋本氏の本は、他の本もそうですが、とつぜん、テーマとぜんぜん関係のない話がひろがります。しかもそれが、数行ではなくて数ページにもわたって続くことがあります。「なんでここでこんな話しなんだろう?」と疑問を持ってしまいついつい読むのをやめてしまいたくなりますが、そこで本を放り投げてはいけません。じっと読みましょう。読んでいると、とつぜん本題に戻って結論が出てきます。まるで、目隠しして歩いていてぱっと目隠しを外したら目的地に着いていたというような感じです。そんな橋本氏の独自の世界もあわせて楽しむことができる本です。

 

40歳をすぎても会社の評価が気になる人に読んで頂きたい本

出世する人は人事評価を気にしない(著者:平康慶浩)、日経プレミアシリーズ、2014年10月1刷、2014年10月3刷、

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「出世」といえば、会社内で係長→課長→部長→取締役→社長、といった形で、上のポストに異動していき、それに伴い、給料などの待遇も上昇していくことを指します。そしてこの本は、「出世」するにはどうしたらよいか、ということを述べている本です。そう聞くと、会社というある意味「オワコン」の話をしているかのようにも見えます。

 

「出世」は会社内で昇進するだことだけではない

 

でもそうでもないんですね。「出世」というもにに、社内での昇進だけでなく、転職も入るし、退職後にビジネスを離れて大学で教える、地域活動をする、といったような会社以外での活動も含めています。こういう広い「出世」であれば、決して「オワコン」の話しということにはなりません。

 

労働市場で価値ある人材になる

 

著者の平康氏がこの本で述べている「出世」するための条件です。とってもシンプルで分かりやすい。

「評価」という言葉は、どうしても上の者が下の者を評価するというニュアンスを含みます。会社が社員を評価するということは、社員が会社に従属しているということを前提としています。

しかし、契約的に考えてみると、そもそも本当はそうではないんですね。会社と社員は労働契約を締結し、社員は会社に対して労働というサービスを提供する、それに対して会社は社員に対して給料を支払う、という、労働と給料の交換という取引をしている関係にあり、この取引関係は、従属という話しではなく、対等の関係を意味します。よく言われる言い方ですと、「会社に頼らない」、「会社に依存しない」というのと同じです。

そして、こう考えると、「評価」といういま働いている会社の「評価」のみを気にする必要はないということになりますし、とうぜん「出世」も、社内での昇進のみを意味するわけではないことになります。平康氏の話しはスッと理解できます。

 

出世する人は仕事と生活を区別しない

 

仕事と生活を区別しないなんて言うと、会社べったり、いわゆる社畜みたいなイメージです。会社に頼らない、依存しない話しはどうなったのか?という感じがします。しかし、よく考えてみると、社畜という意味ではないけど、区別しないというのは確かにそう。

そもそも、「出世」が社内だけでなく社外も含むということは、言い換えると、人生ずっと「出世」の問題と付き合っていくことになります。そして、仕事も生活もどっちも人生の一部なのですから、仕事と生活を区別する意味はないです。

仕事と生活を区別するということは、生活を重視し仕事を重視しないということと裏表です。でも、どちらも自分の人生における時間を使っています。しかも、会社勤めをしていれば、ふつうは、平日の少なくとも3分の1は仕事しています。この長い時間を費やす仕事を重視しないということは、自分の人生の3分の1を無駄にしているということになります。

仕事を重視しないというのは、仕事をいくらがんばっても(給料以上に働いても)会社の利益になるばかりで自分には何もない、というのが理由としてあります。しかし、もう一歩考えてみると、本当にそうでしょうか?「出世」が労働市場での価値を高めるということであれば、仕事を通じて知識や経験が得られることは、労働市場での価値という形で自分に利益が還元されます。その意味でも、区別する必要はないです。

 

駒と横に並びたいとは思わない

 

さいごに社内での「出世」の話し。この本に出てくる金剛課長は35歳過ぎの課長。とても優秀。しかし、部長への昇進は同期に先を越されそう。なぜ自分が昇進できないのかと悩む金剛課長に言われたのが、この言葉。

金剛課長は、会社(上層部)からみると、何でも言うことを聞くし、何でもやってくれる、会社の評価をとても気にする。しかし、所詮は「駒」。上層部からすると、「駒」に乗ることはあっても、自分と同列にしようとは思わない。つまり、出世させようとは思わない、という意味です。

社内という労働市場の場合、価値ある人材になれと言われると、どうしても、会社の求めることは何でもこなすことと思えますが、現実はそう簡単ではないようです。課長まではそれで良いけど、そこから先は、課長までのやり方では通用しない、会社の評価を気にしているようではダメともいえます。金剛課長のように35歳を過ぎてしますと、労働市場での評価には厳しいところがありますが、一方でこの言葉には、会社という組織の持つ厳しさ、冷たさがよーく現われていて、会社にただしがみつけば良いというものではないことが分かります。

 

タイトルからすると、会社での「出世」の話をしている本に見えますが、じっさいにこの本がカバーする範囲は相当広いです。人生で成功する、つまり「出世」するにはどうすれば良いか、という本です。わたしもそのひとりですが、人生の折り返し地点である40歳を越えた人はとくに読んでみるべきです。

誰もがなが~く付き合う「意識」。「意識」とは何か、いちども考えないのはもったいない。

意識とはなにかー〈私〉を生成する脳(著者:茂木健一郎)、ちくま新書、2003年10月第1刷発行、2005年11月第6刷発行、
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「意識って何だろう?」と聞かれても、「何だろう?」としか言いようがない。それでも無理やり答えを考えてみると、「いまこう頭の中で考えていること、思っていることという感じかなあ?」ぐらいの答えしかわたしは思いつかない。そして、考えている、思っている存在とは何か、それは自分自身、つまり私ということになります。ここで思い出すのがこの言葉。

我思う、故に我在り

フランスの哲学者デカルトの言葉です。あるものが存在するとは何か、それは自分がそう意識しているから、そうすると、その存在は絶対的ではない。といろいろ考えていくと、確実に存在していると言えるのは自分がいまこう考えているという自分の存在だけである、という意味です。さいしょの質問、意識とは何か?という質問に対する答えは、「意識とは私自身である」ということになります。この答えは、わたしの説であって著者の茂木氏の説かどうかはわかりませんが、この本は、「意識」という誰もが行う行為でありその意味で誰もが知っていることについて、じつは誰もがどのような意味で分かっていないのか、そして、茂木氏の専門である脳科学はそれにどう迫るのかを丁寧に述べています。

じつは、問題が存在することに気付くこと自体がむずかしい

茂木氏は「ただいま」という言葉を例に、どういう問題があるのかを説明しています。家に帰ってくると「ただいいま」と言います。いま家に帰りました、というメッセージですね。子供も大人も誰もがふつうに言います。なにが問題なのか?
なぜ、家に帰ると「ただいま」と言うのか?「ただいま」という言葉はそういう時に使うと決められているから、というのが1つの答えですが、それでは答えになりません。そういう国語的な話ではありません。なぜ「ただいま」という言葉を使うと決まっているのか?他の言葉ではなぜだめなのか?言い換えれば、「ただいま」という音を聞いた人は、なぜ家に帰ってきたというメッセージと意識するのか?という問題です。こういうことを問題と思える人は、単なる社会的な常識・ルールとして終わらせず、その奥底を追求するというちょっとした求道者に見えてきます。茂木氏は、自身の5歳の時の体験がこの問題意識の発端となっているそうです。すごい!でも、質問された茂木氏の親はそうとう困ったことでしょう(笑)

そもそも、自分自身がどういう意識なのか分かっていない

意識とは私の存在であると考えると、とうぜん意識とは何か、すくなくとも本人は分かっているはず。でも、そうとは限らないと茂木氏は言います。茂木氏が指摘するのは、誰かと会話をしているときに、相手から言われたことに対して何を言うのか、ということを本人は具体的に意識していないことがあるということ。たしかに。思ってもいないことを口にしてしまったり、何も考えずに反射的に言葉が口から出てしまったり、という経験、誰もが多かれ少なかれあるのではないでしょうか。もちろん、人によってそのコントロールが上手な人と下手な人の差はありますので、程度は人それぞれですが。じっと何をいうか考えそれからことばを発する、ということが常にできるわけではありません。
このことは言い換えると、私は私自身を分かっていないということにもなります。自分はいま本当は何を望んでいるのか、何をしたいのか、わからずに迷ってしまうことよーくあります。

意識を解明できるかは科学の限界へのチャレンジ

この本は2003年発行なので、あくまでもその時点ということになりますが、茂木氏によると意識を科学はほとんど解明できていないそうです。そして、かなりの難題のようです。
科学は、方程式・アルゴリズム・機能により物事を一律に説明することを目指しますが、意識についてそれが可能なのか?意識は私そのもの、では、人とは何かということを科学が説明できるのでしょうか?できるできないは、科学の進歩次第なのでわたしは分かりませんが、説明されることを望むのか望まないのか、複雑な話です。
「人が・・・という感情をもつのは脳の中の・・・という部分の機能による」ということが脳科学により解明されたというニュースを聞くと、なんとなくうれしい気持になります。なぜ自分が一定の感情を持つのか自分でも分からないのですから、それを脳科学が説明してくれるのはうれしい。自分のことが少し分かったような気がするから。でも一方で、意識は私ということを強く捉えれば、私は私、人は人、そんなまとめて説明されてたまるか!という反発する気持が生まれてもおかしくない。意識対脳科学、どちらに勝つのか、どちらに勝って欲しいか、悩ましいです。

裏表紙の茂木先生の写真、若い!(笑)