日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

言葉にうまくできないけど、なんとなく感じる不安、モヤモヤ、苛立ち、違和感の原因を教えてくれる本

しんがりの思想 反リーダーシップ論(著者:鷲田清一)、角川新書、2015年4月初版発行、

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リーダーシップが必要である、ということはよく言われます。政治家、社長といった人だけでなく、会社の課長、グループリーダーなど、さまざまな人にそれが求められ、リーダーシップについての本も多く出されています。しかし、著者の鷲田氏はこう述べます。

 

リーダー論に素直に従うようなひとほどリーダーにふさわしくない者はいないという、語るに落ちる事実がある。リーダー論を読んで、あるいは過去の武将や豪商の評伝を読んで、その教えを鵜呑みにし、それに従順に従うようなひとは、指示待ち、前例踏襲を金科玉条とする(お役所のような)堅牢な組織内の仕事には向くかもしれないが、ひとの先頭に立つような資質は欠いているとしかいいようがない(6ページ)

 

わたしは鷲田氏と、まったく面識はありませんが、この方、かなりのクセ者と見ました(悪い意味ではありません)。鷲田氏は、ここに限らず、とてもユニークでありながら、それでいて言われてみれば確かに、と思うようなことをこの本で、いろいろ述べています。

 

ずっと右肩上がりの景色のなかで育ってきた世代は、難題に直面しても次の世代がなんとかするだろうと思い込む。国の債務が法外に増え続けても、それを未来世代につけ回しして平気でいる。それを放置できるのは、いまじぶんたちなりに精一杯がんばっておけば、いずれ次の世代がどうにかするだろうという感覚があるからだ(23ページ)

 

なるほど。けっきょく人は、自分が生まれだ時代の制約から逃れられないということですね。いまの政治家(若手以外)に問題を解決することが期待できないことがわかります。その人たちからすると、問題はこんご解決されるのでいま何かする必要はないと考えているだけで、問題を先送りにしているつもりはまったくないようです。

 

日本社会は明治以降、近代化の過程で、行政、医療、福祉、教育、流通など地域社会における相互支援の活動を、国家や企業が公共的なサービスとして引き取り、市民はそのサービスを税金やサービス料と引き替えに消費するという仕組みに変えていった(中略)そのことでこの国は世界でも屈指の速さで長寿化をなしとげたし、停電も、電車の遅れも、郵便の遅配もめったになく、深夜にも一人歩きができるような安全な街というふうに、都市生活の高いクオリティを実現した。が、それと並行して進行したのが、市民たちの相互支援のネットワークが張られる場たるコミュニティ、たとえば、町内、氏子・檀家、組合、会社などによる福祉・厚生活動の痩せ細りである。ひとびとは、提供されるサービス・システムにぶら下がるばかりで、じぶんたちで力を合わせてそれを担う力量を急速に失っていった。いいかえると、これらのサービス・システムが劣化したり機能停止したときに、対案も出せねば過大そのものを引き取ることもできずに、クレームつけるだけの、そういう受動的で無力な存在に、いつしかなってしまった。公共的な機関への「おまかせ」の構造である(47~48ページ)

 

わたしたちの生活が便利、快適になったのは間違いありません。しかし、こう指摘されると、わたしたちがただ依存しているだけのとても無力な存在であることも感じます。同時に、鷲田氏が指摘することを、わたしたちは無意識のうちに感じ、そしてそれに苛立ちを感じているようにも思えます。

 

トラブルが起こったとき、サービスが劣化したときにわたしたちにできることは何か。皮肉にも行政やサービス企業の担当者にクレームをつけることだけなのである。税金はちゃんと納めている、サービス料はきちんと支払っている、わたしたちの側に落ち度はない、だからサービスが停止したり劣化したりすればそれはサービスを提供する側の責任だ、というわけである。クレーマーは特別なひとたちではなく、わたしたちは潜在的にみなクレーマーでしかいられないのである。クレーマーは口汚くののしるが、それは見た目とは違い、まったく受け身の要求をしている。サービス・システムに対して、「われわれがもっと安心してぶらさがっていられるようにしてくれないと困る」と文句をつけるだけなのだから。成熟した市民であれば、ここでクレームをつけると同時に「そんなやり方ではだめだ。たとえばこういうやり方もあるはずだ」というふうに対案を示す。そのやり方にあきれ果てたら、「もうあなたたちにはまかせない。少々リスクはあってもこれからじぶんたちで、地域でやるから、そのぶんの負担金は引き上げる」というふうに、サービス業務そのものをじぶんたちの手に引き戻す(65~66ページ)

 

鷲田氏がここでクレーマーの主張として述べていることは、言い換えれば、消費者として要求している、ということと同じです。しかし、消費者だから要求していい、という考え方に対しては、なんとなくですが、うしろめたさを感じることがあります。もっとはっきり言えば、鷲田氏が述べる金を払っているのだからちゃんとやれ、という主張に対して、金を払っているからといってそんなに偉そうにするな、という反発があり、かつ、それはそうとうの支持を受けるという事実です。なぜそうなってしまうのか?金を払っている以上、それに見合う適切なサービスを求めることは当然の権利であることは間違いないはずですが、そこに違和感を感じる理由のひとつが、鷲田氏の指摘することになります。わたし的には、これまでなんとなく感じていたモヤモヤのひとつが、鷲田氏の指摘によって解決したという感じです。

 

日本では「責任」という言葉は、ほんのしばらく前までつねに声高に語られるものだった。「自己責任」という考え方がそうであり、だれも責任をとらない政治や、不正を繰り返す企業へのひとびとの苛立ちが、謝罪会見という名の「責任追及」の儀式を厳しいものにしていった。責任の所在が複雑で見えにくいこと、あるいは責任を逸らす言辞の蔓延。そうした状況のなかで、ひとびとの苛立ちは飽和状態にいたる。だれかが責任をとるよりほかなくなったのである。このように「責任」という言葉には、「とらされる「とらざるをえない」といった受け身の響きがあった。そこに登場したのがオバマ大統領の、進んで引き受ける「責任」というアピールだったのである。じぶんがだれかに待たれている。--そういう感覚で「責任」をとらえなおすのはしかし、なかなかに容易なことではない(206ページ)

 

「責任」という同じ言葉でも、とらされるのか、あるいは、進んで引き受けるのか、では、ぜんぜん、その人にとっての意味は違います。ここでは述べていませんが、政治家や企業に対して責任をとれと追及する人自身も、じつは結局のところ責任をとろうとしない人であるということを鷲田氏は指摘しています(53ページ)。いまの日本は、責任というジョーカーを最後に誰が持っているのか、という壮大なババ抜きをしていると感じます。しかし、誰が持つのかはっきりしたときには、もはや問題を解決するには手遅れで、とてもその人だけで背負うことは不可能で、けっきょく全員で負うしかないという、極めて皮肉な結果になるかもしれません。

最初にご紹介したリーダーシップの話に戻ります。鷲田氏が一般的なリーダーシップ論に物足りなさを感じているのは明らかですが、ではどんなリーダーが良いのか、ということも述べています。

 

松下幸之助はある日、自社の管理職たちを一堂に集め、リーダーに備わっていなければならない条件について語ったことがある。そのときあげた三つの条件というのが、意表を突くものであった。彼があげたのは、まずは「愛嬌」、次に「運が強そうなこと」、最後が「後ろ姿」である。この三つを備えているひとが成功するのだという話をしたあと、「あんた方は、ただ運がよかっただけだ」と全国から集まった管理職たちに皮肉を言って、壇上から降りたという落ちがつく(中略)見るひとを受け身ではなく、能動的にするのである。無防備なところ、緩んだところ、それに余韻があって、そこへと他人の関心を引き寄せてしまうからだ。軸がぶれない、統率力がある、聴く耳をもっているなどといった心得も、たしかに大事であろう。が、この隙間、この緩み、この翳りこそ、ひとの関心を誘いだすものである。組織とはいうまでもなくひとの集団だ。一人ひとりが受け身で指示を待つのではなく、それぞれにそれぞれの能力を全開して動くそのときに、組織はもっとも活力と緊張感に溢れる(150~151ページ)

 

わたしはこれを読んだとき、すぐになるほどと思いました。その瞬間に、わたしはリーダーにはふさわしくないということも、はっきりしてしまいました(笑)。