日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

読書はしているけど、それがどう自分に役立っているのか分からず悩んでいる方に読んで頂きたい本

乱読のセレンディピティ 思いがけないことを発見するための読書術(著者:外山滋比古)、扶桑社文庫、2016年10月初版第1刷発行、2017年2月初版第5刷発行、

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乱読という文字を見、ことばを聞くと、反射的に顔をしかめる人が多い。精読、熟読、多読などみなそれぞれによいところがあるけれども、乱読にはいいところがまったくない。教育のある人でもそう思っている。乱読をすすめるなど、とんでもない、とバカにする。この本では、乱読の価値を高く評価する(中略)まず大事なことは、これまでの正しくない考えから自由になることである。われわれはだれしも、自分はものが読める、読書の能力があると思っているが、多くは思い込みで、本当に読める人はごく少ない(78ページ)

 

タイトルから予想される通り、乱読を高く評価しています。気になるのは、本当に読める人は少ないという部分です。文字が読めれば本は読めるのではないか、それ以外に何か能力が必要なのか?と思ってしまいます。

 

乱読ができるのはベーター読みのできる人である。アルファー読みだけでは乱読はできても解読はできない。小説ばかり読んでいては乱読はできない。ベーター読みもうまくいかない。文学読書をありがたがりすぎるのは、いくらかおくれた読者である。ノンフィクションがおもしろくなるには、ベーター読みの知能が必要である。哲学的な本がおもしろくなるには、かなり進んだベーア―読みの力が求められる。ベーター読みの能力を身につければ、科学的な本も、哲学も、週良く敵書物も、小説とは異なるけれども、好奇心を刺激する点ではおもしろい読みができるはずである。ベーター読みの力のない人は、自らの親しむ一つのジャンルにしがみつく(83~84ページ)

 

著者の外山氏は読み方には2種類あるとし、「アルファ―読み」とは、書かれていることがらや内容について読む側があらかじめ知識を持っている時の読み方、「ベーター読み」とは内容、意味がわからない文章の読み方です(80ページ)。日本の学校ではアルファー読みしか教えておらず、ベーター読みを教えていません。そこが、本当に読める人は少ないと主張する理由です。では、ベーター読みとは具体的には何か、という問題になります。

 

知的な読者は、すべてのページに目を通して、おもしろいことがあれば目をとめる(中略)短い時間で、新聞を読むには、見出し読者になるほかない。見出しだけなら1ページを読むのに1分とかからない。これはと思うのがあったら、リードのところを読む。それがおもしろければ、終わりまで行く。そんなおもしろい記事が2つも3つもあったらうれしい悲鳴をあげる(86~87ページ)

 

新聞を例にしていますが、本でいえば、全然知らないジャンルの本であっても、そのタイトル、目次から、内容を予測し、おもしろいところを読むというのが、ベーター読みです。たしかに、隅から隅まで読んでいたら、乱読などできるはずもありません。

 

ことばの流れは、映画のフィルムのようなものであると考えることができる。ひとつひとつは静止していて動きがない。これにスピードを加えて(映写すると)、バラバラだったフィルムの一コマ一コマが結びつき、動きが出る(中略)一般にナメルようにして読んだ本がおもしろくないのは、速度が足りないからである。わからない文章だとどうしても読む速度を落とさざるを得なくなるが、丁寧に読むつもりがあだになっていっそうわからなくなってしまうのである(中略)したがって、スピードをあげないと、本当の読みにはならない。10分間で1冊を読了という電光石火の読みは論外だとしても、いま考えられている読書のスピードでは、ことばの生命を殺しかねない。やみくもに早いのはいけないが、熟読玩味はよろしい、のろのろしていては生きた意味を汲みとることはおぼつかない。風のごとく、さわやかに読んでこそ、本はおもしろい意味をうち明ける。本は風のごとく読むのがよい(74~76ページ)

 

本の読み方には速読と遅読があります。乱読というスタイルからいけば、遅読は似つかわしくありませんが、一方で、そんな読み方で本当に良いのか?という疑問が生じます。それに対する外山氏の答えがこれです。むしろ、ある程度スピードをもって読むべきということです。それでいてだいたい内容を掴むことができる人が、本当に読める人ということになります。たしかに、学校ではぜったい教えてくれない。乱読をすることで初めてこういう能力は付いてくるのではないかと思われます。

 

一般に、乱読は速読である。それを粗雑な読みのように考えるのは偏見である。ゆっくり読んだのではとり逃すものを、風のように早く読むものが、案外、得るところが大きいということもあろう。乱読の効用である。本の数が少なく、貴重で手に入りにくかった時代に、精読が称揚されるのは自然で妥当である。しかし、今は違う。本はあふれるように多いのに、読む時間が少ない。そういう状況においてこそ、乱読の価値を見いただなくてはならない(中略)積極的な乱読は、従来の読書ではまれにしか見られなかったセレンディピティがかなり多くおこるのではないか。それが、この本の考えである(114~115ページ)

 

外山氏は「これまでの正しくない考えから自由になる」(78ページ)と主張していますが、正しくない考えのひとつがこれです。たいへん興味深いのが、単に昔の考えだからという理由で否定するのではなく、出版事情の変化という具体的な理由から否定しているところです。このあたりに、単なる勢いやはやりだけの主張と、本人の思考の蓄積による主張との違いがはっきりでています。

 

乱読本は読むものに、化学的影響を与える。全体としてはおもしろくなくても、部分的には化学反応をおこして熱くなる。発見のチャンスがある。専門の本をいくら読んでも、知識は増すけれども、心をゆさぶられるような感動はまずない、といってよい。それに対して、何気なく読んだ本につよく動かされるということもある。学校で勉強する教科書に感心したということは少ないが、かくれ読みした本から忘れられない感銘を受けることはありうる(中略)どうも、人間は、少しあまのじゃくに出来ているらしい。一生懸命ですることより、軽い気持ちですることの方が、うまく行くことがある。なによりおもしろい。このおもしろさというのが、化学的反応である。真剣に立ち向かっていくのが、物理的であるのと対照的であるといってよい(中略)昔からケガの功名、というが、セレンディピティは失敗、間違いの功名である(98~99ページ) 

 

読んだら何が得られるということが分からないまま読むのが乱読です。そして、たまに何かがあるかもしれない、それが予想外のものであるからこそ、記憶に残るのでしょう。具体的な目的があるものは乱読とは言いません。アルファ―読みとも言えます。このことは、どんな本がおもしろいかということは、誰にもわからないということの反映です。

 

イギリスの書評誌「タイムズ文芸批評」はもっとも権威ある書評で知られる。もちろん匿名である。50年前くらいのことであるが、思い切ったことをした。25年前の誌面をそっくり再刊したのである(中略)再刊されたものを見て読者はおどろく。好評、賞賛をうけていた本が、再刊で見るとさほどでもない、どころか、世間から忘れさられてしまっているものが少ない。”今年最大の収穫”などと評された本が、いまほとんど名も知られなくなっているのである。そうかと思うと、出たとき欠点の多いとされた本が、いまや古典的になりかけているという例もあって、同時代批評というものの難しさを如実に示した。もとの書評が正しかったのか、いまの読者の評価の方が正しかったのか、の問題ではない(19~20ページ) 

 

権威ある書評ですらこうですから、ましてや素人が、この本が良い悪いとか、この本を読めば役に立つ立たないとかなんて、読む前にわかるはずがありません。だから、適当に選んで読めばいいのです。つまり、乱読です。でも、乱読しても、内容がぜんぜん頭に残りませんが、それでよいのか、無駄ではないか、という疑問が生じます。

 

自然忘却のもっとも重要なのは、睡眠中の忘却で、これはレム睡眠と呼ばれる眠りの間におこると考えられている(中略)ここで有用と思われる情報、知識のうち当面、不要と思われるものとが、区別、分別されて、廃棄、忘却される。頭のゴミ出しのようなものである。朝、目覚めて、たいてい気分が爽快であるのは、頭のゴミ出しがすんだあとで、頭がきれいになっているからである。これが毎晩、自動的に行われているのだからおどろきである。なんの努力もしないで自然に忘却できるのだからありがたいと思わなくてはならないが、自然におこっていることは当たり前だとして無視する。それで、忘却の効用ということを知る人が少なく、努力を要する記憶をありがたがる、ということになる(187~188ページ) 

 

忘れることはむしろ良いことです。忘れてしまった自分を責める必要はまったくないということです。安心して、乱読した内容を忘れることができます(笑)。