日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

日本酒「長門峡」(山口) ひとりでじっくり飲むもよし、みんなで一気に飲んでしまうのもよし、そんなお酒です。

長門峡(山口、 岡崎酒造場)、特別純米無濾過、原材料:米、米麹、原料米:西都の雫75%・山田錦25%、精米歩合:60%、日本酒度:+3、

ーーーーーーーーーーーーーー

「ちょうもんきょう」と読みます。山口の日本酒といえば「獺祭」がおそらくもっとも有名ですが、山口の日本酒、ほかにもいろいろあります。わたしが好きな日本酒でいえば、「雁木」、「日下無双」、「東洋美人」といったのがありますが、この「長門峡」も好きな日本酒のひとつで、ときどきお店でお目にかかると買うようにしています。

 

こんかいは4合瓶を買い、これを3回に分けて飲みました。飲み方はすべて冷やで。もちろん飲みきるまで、冷蔵庫でちゃんと保管しています。

 

1回目 (開封当日)

 

はじめて栓をあけると最初に感じるのが、とってもさわやかな香り。夏らしさも感じます。一方で、米由来のふくよかさも感じます。飲んでみますと、さいちょちょっとぬるっとした感触です。米の粘りのようなものを感じます。まさに日本酒という感じ。後味はすっきり、辛口。辛さはちょっと強めです。

 

2回目(開封翌日)

 

1回目よりふくよかさが際立ってきました。酒が空気に触れることで反応が起こっているのでしょうか。くわしくは分かりませんが、いい感じです。味わいもちょっと変化しています。1回目よりも口当たりがまろやか、滑らかになってきました。一方、後味の辛さはしっかり感じることができます。でもお、1回目よりはちょっと辛さがやわらいだ感じです。

 

3回目(開封3日後)

 

3回目の飲みですが、1日お休みがあって、開封からは3日後です。どんな感じになっているか楽しみにしながら栓を開けてみると、とっても米っぽさが伝わってくる香りです。「古酒」というと明らかに大げさですが、方向としてはそんな感じです。そして味わいもちょっと変わってきて、甘みが増してきました。さいしょの口当たりはかなり甘さを感じることができます。後味の辛さはちゃんと感じますが、かなり和らいでいます。

 

わたしは甘めの日本酒が好きなので、日数をかさねるにつれてどんどん香りや味が好みになってきましたが、でも、1回目の味わいも十分おいしかったです。逆に、辛めの日本酒が好きな方はどんどん1回目のときは、くいくいいけてしまうと思います。ひとりでゆっくり飲むのもよし、みんなで一気に空けてしまうのもよし、そんな日本酒です。

 

f:id:mogumogupakupaku1111:20180611223455j:plain
f:id:mogumogupakupaku1111:20180611223600j:plain

 

 

 

「情報分析」というと縁遠いですが、生き抜くために必要な能力を身に付けるための「勉強法」の話しです

勉強法 教養講座「情報分析とは何か」(著者:佐藤優)、角川新書、2018年4月初版発行、

ーーーーーーーーーーーーーーー

著者の佐藤氏は元外務省主任分析官です。それゆえ、佐藤氏が「情報分析」について語るのはよくわかります。佐藤氏は外務省という世間一般から見ると特殊な仕事をしていたため「情報分析」が必要であったのはわかりますが、ふつうに暮らしている一般人からするとどうでしょうか?

「べつに、外務省で外交するわけでもないし、警察、情報収集といった特殊な仕事をするわけでもなく、「情報分析」って関係あるの?」と思ってしまいますが、佐藤氏はこう述べています。

 

講義を聴く前と後では少し風景が違って見える、少しでも得をすることがあればいい、という思いで話しています

 

あいまいな言い方とは思いますが、でも、佐藤氏の言っている意味、まったくわからない訳ではありません。

たとえば、16~17世紀のイングランドの哲学者であるフランシス・ベーコンの言葉に「知(知識)は力なり」という有名なものがあります。佐藤氏の言っていること、この言葉と近いのかなと感じます。また、具体的にその知識が本人に利益をもたらすかどうかは別としても、今まで知らなかったことを知ること自体に人は喜びを感じることもあります。

そして、知るための方法が「勉強法」であり、この本のテーマです。

 

〇 受け入れて良い情報とそうでない情報を取捨選択する

 

インターネットの普及というのはとても大きいです。インターネットのおかげで、いまや誰もが簡単に多くの情報にアクセスできるようになりました。一方で、そういった情報がすべて受け入れて良い情報かというとそうではありません。取捨選択が必要です。

こう言うと、「ネットの情報が怪しいというのは決め付けにすぎないのではないか?」という疑問が出ます。しかし、佐藤氏はこう言います。

 

インテリジェンスは常に物語として出てくるということを、認識しなければいけない

 

その例として、陰謀論が好まれることをあげています。何か大事件とか紛争が起こると、「表には出てこないが、背後で糸を引いているのは〇〇に違いない」といったものです。「〇〇」に何が入るか、アメリカ政府、フリーメーソン、ロックフェラーなどなどいろいろあり得ます。つまり、人々は陰謀説が好きだからこそ、インテリジェンスは物語の形で現われるということです。それゆえ佐藤氏は、ネットやウィキペディアに何らかの意図をもって書き込みをしていけば、人々を誘導することができるかもしれないと指摘しています。

つまり、ネットの情報を鵜呑みにしてはいけないということです。佐藤氏によると、ウィキペディアの精度は国によって異なり、それはその国の文化の反映だそうで、インテリジェンス関係の調べものをするとき、日本語版のウィキペディアは使わないと言っています。

わたしもついついウィキペディア(もちろん日本語版)を使って調べものをし、そこに書いてある内容を読んで調べ終わった気になっていましたが、危ないようです。ネットで調べるのはやむなしとしても、ウィキペディアのみに頼るのは止めます。

でも、どうやって情報を選択すればいいのか、「勉強法」がそこで登場します。

 

 

〇 他人の行動の理由が分からないとき、それは、分からない人に原因がある

 

ある他人の行動が理解できないとき、「あいつの行動は理解できない」と言います。意味合いとしては、「理解できないような行動をとるあいつはおかしい」というのが含まれています。しかし、そういう言い方は、どうも違うようです。

佐藤氏はインテリジェンスでの具体的ケースをあげて、一見理解できないように見える国の行動もじつは、背景事情を丁寧に踏まえればちゃんと合理的な理由があるのであり、それが分からないときは、自分の知識が不足しているか、あるいは切り口を間違えているか、またその両方が原因であると述べています。

 

この話しは、日常生活にも関係します。たとえば、ビジネスにおいて、こんご新しく取引をすることになり、その取引の条件について他社と交渉している場面で、相手が何らかの条件を提示してきたとします。そのとき、その条件を受け入れるべきか断るべきか、あるいは別の案を提示すべきか、ということを選択しなければいけません。

判断基準は、どの選択をするのが自社にとって最も有利であるかという点ですが、それを判断するための材料として、そもそも相手の会社がなぜそんな条件を提示してきたのか、という提案理由があります。このとき、「なぜ提示するのか分からないけど、たぶんこんなとこだろう」といったような中途半端な理解のままでは、とても自社の利益を守ることはできないでしょう。

 

この話し、自分が何を分かっていて何を分かっていないかを分かっているかどうかという話しと言い換えることもでき、そして、このようなミスは自分の知識不足から起こっている可能性があり、そうならないためにも、「勉強法」が大事になってきます。

 

〇 どんな「勉強法」をとればいいの?

 

じつは高校までの勉強が大事です。これに対しては、「自分は学校でまじめに勉強していたから今更いらないでしょう」、「学校の勉強がふだんの生活と関係があるとは思えない」という反応が多いと思います。佐藤氏は、もちろんこういった反応が出ることは十分おりこみ済みで、どの反応に対しても、「それは違いますよ」というのが佐藤氏の答えです。

 

あらためて考えてみると、みんな中学校までは必ず勉強し、そして、ほとんどの人が高校でも勉強しています。そういった勉強で得た知識が直接役立つかどうかは別として、そういった勉強を通じて、特に考える力、というのは形成されていきます。であれば、たしかに、高校までの勉強が、情報の取捨選択や、自分が何を分かっていて何を分かっていないかを分かることについての能力にリンクしていることも理解できます。

 

ただ、今さら教科書なんて読むのかと考えると、ちょっとめんどくさいと思ってしまいます。しかしこんかいは、そんな人のために、根気がなくてもやれる「勉強法」を紹介してくれています。佐藤先生とても優しいです(笑)

であるがゆえに、これを実行する人と実行しない人の間の差は相当なものになるでしょう。

ただの伝え方、営業テクニックの本ではない。伝え方を通じて、どの分野、業界でも生き抜くために必要な本物の力を教えてくれる本

90秒にかけた男(著者:高田明、木ノ内敏久)、日経プレミアシリーズ、2017年11月1刷、

ーーーーーーーーーーーーー

著者の高田氏は、長崎のテレビ通販会社として有名な「ジャパネットたかた」の創業者であり、テレビショッピングで商品の魅力を紹介するMCとしての高田氏はとても有名です。そんな高田氏の「伝える」力のノウハウは何か、誰もが興味を持つことですし、この本を読むときはそれを期待します。こんな言葉が紹介されています。

 

例えばMC(司会)の力。作家・井上ひさしさんの言葉に「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」というものがあります。MCもまったく同じです

 

商品というのは体験的に腑に落ちるシチュエーションを頭にまず思い描いて、商品の先にある本来の役割と価値を、使用者目線で伝えていくことが大切だと思っています。それは結果的に開発者の真の想いを伝えることにもなるでしょう 

 

では、この部分を読めば、この本から学べることは全てかというと、そうではありません。もちろんこの部分もおもしろいですが、この本の面白さは、その後ろにあります。なぜ高田氏がこのようなことを言うのか、という考え方の理由、背景です。

 

〇 高田氏は世阿弥に弟子入りしていた?

 

世阿弥」とは、室町時代の能役者で、能を大成させた人です。日本史の教科書で見たことのあると思います。この世阿弥の著者に「風姿花伝」という本があります。高田氏は、この「風姿花伝」の内容をこの本のところどころで紹介しています。

 

テレビで商品を紹介するときにどういう話し方をしたらいいのか、会社の経営方針はどうあるべきかなど、高田氏のビジネスのあらゆる場面において、「風姿花伝」の話しがでてきます。いかに高田氏が「風姿花伝」の内容に感銘を受けそして影響を受けたのか、ということが良く分かります。

2004年3月にジャパネットたかたは顧客情報流出事件を起こしていますが、なんと、そのときの対処の仕方にまで「風姿花伝」の影響が現われています。この対処は後に危機管理の専門家から評価されるほどのものでした。

 

室町時代というはるか昔に書かれた本であり、また、能という芸術に関する本なので、現在のビジネスとはまったく関係ないように見えますが、高田氏の傾倒振りは半端ではありません。

600年のときを超えて高田氏は、世阿弥に弟子入りしてしまったかのようです(笑)

 

 

〇 「本物」は「つもり」を絶対に許さない

 

高田氏の言葉のひとつです。この言葉は、「本物、つまりプロの目をごまかすことはできない」という意味として理解することはできます。そういう表面的に理解することもできますし、それだけでもこの言葉にはそれなりの深い意味があるとは思いますが、高田氏がこの言葉に含めている意味は、さらに深いです。

 

よく、人は慢心してはいけない、謙虚でないといけないということが昔から言われます。さいきんは、必ずしもそうでなくて良いという意見も強いですが、高田氏のこの言葉の真の意味を理解すると、昔の人の言っていることは確かにそうだなあと納得することができます。じつは、私自身も、どちらかというとそういう昔から言われていることに反発するタイプなのですが、高田氏のこと言葉を理解してしまうと、納得せざるをえません。

 

高田氏自身は、自分は伝えることしかできない、と言っていますが、その考え方は、仕事の内容、分野を問わず通用します。その分野で成功しようと思う人は、高田氏のことの言葉をしっかり記憶しておくべきです。

 

〇 何事からも逃げない。高田氏は、本当に逃げない

 

「何事からも逃げない」という人生の処し方自体は、とくに珍しいものでもなく、「それは違う」と言う人はあまりいないと思います。しかし、本当に実際に逃げないのか、という行動を見てみると、その時々の状況によって言動が一致しないケースが多いのが、現実です。

 

しかし、高田氏はその言動がかんぜんに一致しています。例えば、2004年3月に顧客情報流出事件が起こります。このとき高田氏は、テレビショッピングの番組の放映を49日間自粛し、なんと、その結果、150億円の減収となりました。いくらふだんから「逃げない」と言っている人でも、150億円の減収から逃げないことは本当にできるでしょうか?ほとんどの人は、「逃げない、とは言ったけど、150億円となるとちょっとねえ。」とか、「それはそれ、これはこれ」とか、「法的には自粛する義務はない」みたいな口実を並べて逃げてしまうと思います。

口実を並べて逃げようと思えば逃げられるのにあえてしないところに、高田氏の「本物」を感じます。そうだからこそ、なぜ高田氏は、そういう行動をとることができるのか、高田氏の考え方はとても興味深いです。

 

これだけではありません。高田氏は、「人口減少」、「格差」ということについても、そんなのは言い訳にすぎないとし、決して逃げません。高田氏は、現在、ジャパネットたかたの経営には一切関与せず、長崎のサッカーチームで経営危機に陥った、サッカーV2リーグ「V・ファーレン長崎」の社長を2017年からしています。ここでも、言動がしっかり一致しています。

 

この本は、高田氏の伝える力を説明してくれていますが、それだけを吸収して終わりとするのは、まったくもってもったいない。伝える力という技術的なところだけでなく、その背景にある高田氏の考え方、姿勢も含めて吸収すれば、本当の伝える力が身につきます。そしてそれが身に付けば、どの分野、どの業界の営業の仕事もできるでしょうし、また、伝える力があれば、周りを巻き込む力を持つことになりますので、営業以外の仕事であったとしても、成功するでしょう。

世阿弥に弟子入りするつもりで、この本を読んでみましょう(笑)。

1000円にも満たないお金で周りの人に差をつける方法を習得できる本

理科系の読書術(著者:鎌田浩毅)、中公新書、2018年3月初版、同年4月再版、

ーーーーーーーーーーーーーー

著者の鎌田氏は火山学、地球科学を専門とする大学教授です。仕事柄、大量の文書や、分厚くて難しい専門書を多数読んでいることになります。そんな鎌田氏が述べる読書術に「理科系」とついているのも納得です。

では、この本はそういった難しい、専門的な本を読む人のための読書術の話かというと、そうではありません。読書の上級者である鎌田氏が、若い人が読書に対して苦手意識を持っている現状を何とかしようということで、読書を苦手とする人向けにわかりやすく入り易い読書術を紹介してくれています。

 

〇 徹底的に読書の視点、立場に立った読書術を紹介。読書が苦手なのは読者自身の責任ではない。

 

 

「難しい本を読まないと意味がない」、「本は最後まで読みきらないといけない」、「本が理解できないのは読者の理解が悪いから」といったイメージを、読書が苦手な人ほど読書に対して持っていることがあります。この本は、そういった読書に対するイメージをことごとく壊してくれ、読書に対する苦手意識、ハードルを引き下げてくれます。

 

さらに素晴らしいのが、そういった苦手意識、ハードルを引き下げてくれる読書術の説明が、とっても分かりやすく端的です。たとえば、「本を読んでみたはいいけど内容が難しくて何が何だか分からない」ということから読書に苦手意識を持っている人に対しては、

 

これに対して私は特効薬を持っている。それは「難しい本は著者が悪い」と考えるのである

 

とアドバイスしてくれています。どうしても「本は難しいのが当たり前」、「難しい本だからこそ読む価値がある」と考えてしまいがちな人の読書への苦手意識を吹き飛ばしてくれます。ほかにもいろんなアドバイスがこの本では述べられていますが、共通しているのは、徹底的に読者の視点、立場にたった読書術を紹介しているところです。

 

それはふつうのことではないかと思う方もいると思いますが、そうとう画期的なことだと思います。

鎌田氏は、専門の火山学、地球科学に関する本だけでなく、仕事術、勉強法といったビジネス書もを何冊も執筆しています。この本の著者紹介によると、この本以外に15冊執筆しています。つまり鎌田氏は著者の立場に立つ人です。著者の立場からすると、自分の書いた本が難しいとか分かりにくいと言われると、「このぐらいの内容であればがんばって読者の人に理解して欲しい」、「これ以上分かりやすく説明するなんて到底無理」とついつい、読者に責任を転嫁したくなってしまいます。

つまり、本を読む読者のことは一切責めずに著者が全面的に自分の責任であると言っているのが、鎌田氏の「著者が悪い」という言葉であり、なかなか言えない言葉だと思います。

 

〇 「読書ブログは読書術として超オススメ」と、おそらく鎌田氏は言うはず

 

鎌田氏は読書の重要性、意義をこの本で主張していますが、一方で、本の読みすぎはよくないとし、

 

読書と思索のバランスを上手に取ることによって、人生の達人になれるのだ

 

と述べています。たとえば、ビジネス書とか仕事で必要な本を読む場合を考えてみると、ただ本を読むだけでは意味がありません。本を読むことは手段であって目的ではなく、目的はそれとは別、例えば、「何かについての新しい知識を身につける」、「仕事術を上達させる」といったことが目的になります。言い換えれば、本を読むのはいいけれど、その内容を理解し消化し自分自身に定着させるプロセスが必要です。

これはよく分かります。私の場合、本を読むのは好きですが、読んだはいいけど、ただ読んだだけでちゃんとその内容が自分の身についているのか、ということが時々不安になります。つまり、どうすれば、読んだ本の内容を着実に自分のものにできるのか、ということを考えてしまいます。

 

鎌田氏は読書と思索のバランスが大事とは延べているものの、どうやってバランスをとればいいのか、ということについてこれ以上具体的には述べていません。しかし、わたしが思うに、本を読みその感想をブログに書く、つまり「読書ブログ」は、鎌田氏の言う「読書と思索のバランス」をとるのにとっても良い方法です。

 

もともとこのブログをわたしが始めたのは、せっかく本を読んだはいいけど、内容をすぐに忘れてしまうしもったいないから、ブログにメモをしようと思ったのがきっかけです。そしてこのメモの内容を考える時、それがすなわち「思索」のときに当たると思います。

この本を読んで、読書ブログがとっても意味のあることだと実感することができました。ブログを読まれる方は、自分自身でもブログを書いているケースが多いと思います。読書ブログをしている方、この本を読むともっとブログをがんばろうという気持になります。もっとも、鎌田氏はブログについて何も言っていないので、わたしが勝手に感じているだけですが(笑)

 

〇 読書離れの今だからこそ、読書で周りに差をつける

 

この本によると、大学生は「本は高い」と思っているようです。たとえばこの本の値段は、820円+税、つまり1000円未満ですが、これでも高いのでしょうか?わたしは高いという評価に疑問を感じますが、「高い」と思う人は、金額自体ではなく、「コスパが悪い」と思っているのでしょう。

 

このことは、読書をすることで、どれだけのパフォーマンスを引き出すことができるか、というまさに読書術の差が評価の差に現われていることを意味します。つまり、同じ本を買って読んでも、その本からどれだけのものを得られるのか、というのは、人によって、持つ読書術によってぜんぜん違い、したがって、人によっては、値段以上のパフォーマンスを引き出すことも十分可能ということです。つまり、読書術を習得することは、周りに差をつけることにつながります。

 

「人と同じことをしていてはだめ。違うことをしろ」ということは、よく言われることです。たしかにそのとおり。

その意味では、いま読書離れが進んでいる以上、読書をすること自体が周りに差をつける有力な方法ですが、さらにこの本を読むことで読書術を習得し、読書をしている周りの人に対しても更に差をつけることができます。

 

1000円にも満たないお金で周りに差を付けられるとすれば、これほど「安い」、「コスパの良い」方法はなかなかないでしょう。

 

これからは自分の「ライフワーク」を持つ人が活躍できる、つまり誰もが活躍できる時代が来たことを教えてくれる本

2022-これから10年、活躍できる人の条件(著者:神田昌典)、PHPビジネス新書、2012年2月3日第1版第1刷発行、同年2月22日第1版第4刷発行、

ーーーーーーーー

著者の神田氏は、この本の著者紹介によると、累計出版部数は200万部を超えるそうです。わたしも神田氏の名前はもちろん知っていましたが、なぜか今まで本を読む気になれませんでした。はっきりした理由はないのですが、失礼ながら、何となく本のタイトルからして怪しいなあと感じていたからです。しかし、こんかい神田氏の本を読んだのは、この文章を読んだのがきっかけです。

 

わたしの尊敬する神田昌典さんは『非常識な成功法則』という形で、それまでの正論・根性論的な成功法則から、「やりたくないことを見つける」「お金を溺愛する」といったような、成功した人たちが、ほんとうは知っているけれども教えてくれなかったものを明記して本にしました。わたしはその本を手にしたときから、もう、神田昌典さんの虜になりました(「有名人になる」ということ(著者:勝間和代)ディスカヴァー携書、2012年4月第1刷、同年6月第4刷)

 

あの勝間氏がここまで絶賛するのであれば、きっとすごい人に違いないということで、わたしもさっそく本屋に行き、ぐうぜん見つけたこの本をこんかい読んでみました。

 

〇 いま世の中が大きく変化していることを、ここまで分かりやすく説明してくれる本はない

 

「はっきり言って、この本を読んでもまだ、世の中が変わっていることが理解できない人は、おそらく、こんご何を読んでも理解することはできないでしょう」というぐらい分かりやすいです。 

 

神田氏は、70年周期説を主張しています。つまり、日本は70年単位で大きく変化し、そして、70年単位で歴史は繰り返されるというものです。例えば、明治維新と太平洋戦争敗戦との間は72年、つまり約70年です。そして、70年単位の変化は、その前後で価値観が180度変わるような大きなものとなるというものです。

70年周期説と言われると、この本は、未来予測、予言の本なのかと受け取られてしまいます。たしかに、予測、予言はしていますが、わたしは、この本の価値は、予言・予測ではないと思います。言い換えると、70年周期説に基づく予言・予測が当たっているかどうかは重要ではありません。当たったかどうかではなく、日本の社会が大変革を繰り返していくという流れの存在、そして、その流れは大まかにどういう方向なのか、ということが重要で、それをこの本は説明してくれています。

 

いまは2018年です。1945年から数えると73年目ですが、現在、終身雇用、正社員といった戦後日本で重要な役割をはたしてきた制度、もっとも重視されていた価値観が、大きくではありませんが、少しづつ崩れかけています。ここで、この変化についていけない人、あるいは、変化により不利益を受けそうな人は、この現実を受け止めきれず、「もう数十年は大丈夫だろう」という根拠のない判断をしてしまいますが、この70年周期説に立てば、「数年の誤差はあるにせよ、この流れが止まることはあり得ないし、むしろさらに変化が加速し、正社員という立場・地位は消えてしまうだろう」と受け止め、対策を立てることができます。

 

神田氏はこの本でもうひとつとても興味深いことを指摘しています。70年周期説により変化していくとして、変化した後の姿はどうなるのか、という点についてです。わたしたちは、「こんご、こうなるだろう」と予測を立てますが、神田氏は、その予測はことごとく外れるだろうと言っています。神田氏は、こう言っています。

 

1945年、焼け野原で途方にくれている人々に、「40年後には、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われるようになるんです」と予見したものは、頭がおかいいと思われるだけ。だからいま、あなたが、日本の未来を正しく答えられるとしたら、それは、お笑いにしかならない

 

つまり、どう変化するかはいまの時点で誰にも分からないということです。分からないことに何の意味があるのかという話になるのですが、意味は大ありです。つまり、予想もできないほど大きな変化になるということです。

わたしなりに考えてみると、どういう状況になっても頼りになるのはさいごは自分自身しかいないということで、自分1人でも食べていけるようにしなければいけない、ということが求められると思います。食べるということに文字通り着目するなら、自分で農業するのもありでしょう。いま、耕作放棄地が問題になるように、農地は余っているようです。

 

〇 読書ブログを書く意義

 

 

読書といえば、個人の趣味の代表的なものです。イメージとしては、自分の関心、勉強のために本を読み、読むことで新たな知識を得てそれに満足するという形で、あくまでも、読書をする人個人の中で完結しています。

しかし、神田氏は読書にもっと積極的な意義を認めています。キーワードは「イン・フォメーション」から「エクス・フォーメーション」(情報発信)への発展です。単に自分の自己満足、お勉強として読書をとどめるのではなく、それをベースにして自分の意見や感想を発信していく形に発展させていくことです。

 

じつは、ここで神田氏が言っていることは、多くの読書ブログがやっていることです。これは、勇気づけられます。

ブログを書くという行為、読書に限らずですが、自分の感想、思っていることを書いているだけなので、どうしても自己満足にすぎないと思ってしまいますが、神田氏は、そこに情報発信という意義、言い換えれば、自分のだめだけでなく読者のためにもなっているという意義を認めています。その意味で、ブログを書くという行為は表現する行為ですので、ブログを書くこと自体にも勇気が求められます。

 

〇 この本は、私たちにこんごどうしろと言っているのか?

 

 

神田氏は「ライフワーク」を各人で探すことが必要と言っています。「ワイフワーク」はその人が情熱を持つことができるものです。個人としてすることなので、定年などは関係なく、一生続けることができます。

わたしは元々、読書が好きなので、このブログも書いていますが、この本のおかげで読書ブログを「ワイフワーク」とすることも十分あり得るということを感じることができました。

でも、みんな読書好きというわけではありません。わたしは子どものことから読書が好きで、それだけは、いまも変わりません。わたし自身の話がベースになっていますが、そうすると、「ライフワーク」とは、意外と、自分が子供のころ、学生のことに熱中していたことと重なるような気がします。そう考えると、誰にも、この本のタイトルの「活躍」の条件はそろっていると思います。

日本という国、自分が日本人であるということを強く自覚させ、また、それが良かったと思わせてくれる本

デザインが日本を変える 日本人の美意識を取り戻す(著者:前田育男)、光文社新書、2018年5月初版第1刷発行、

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

著者の前田氏は、マツダのデザイン本部長として、デザインコンセプト「魂動」を確立し、2016年、世界で最も優れた車に贈られるワールド・カー・オブ・ザ・イヤーと、同賞のデザイン部門のダブル受賞という史上初の栄誉に浴しています。つまり、いまの日本の自動車メーカーのデザインの最先端を走る人物と言えます。

前田氏のデザイナーとしての実績はすばらしいものだと思いますが、一方で、タイトルの「デザインが日本を変える」という言葉にはとまどいを感じました。わたしはデザインの専門家ではまったくありませんが、失礼ながら、「たかがデザインにそんな力があるのか?デザインはしょせん見栄えの問題にすぎず本質ではないだろう。」と思ってしまいました。しかし、そんな思いは、この本を読み進めていくにつれて、まったく的外れだったことに気付かされます。

 

〇 デザインの現場

 

前田氏がマツダのデザイン本部長に就任したのは2009年。それ以後、全車種のデザインプロセスを一新させるなど、容赦なき改革を進めますが、同時にそれは、社内の関係者との様々なあつれき、反発をもたらします。この本では、それをどう前田氏が乗り越えていったのかが丁寧に描かれています。

 

なぜこんなに社内のいろんな部門と揉めてしまうのか?改革の内容がドラスティックだからというのもとうぜんあります。しかし、そもそもとして、デザインはデザイナーが絵を描いて終わり、というものではないということがあります。

デザイナーが素晴らしいデザインを描くと、芸術作品ならそれで終わりかもしれませんが、ビジネスの場合、それで終わってはまったく意味がありません。それを実際の商品として製造するところまで到達して初めて意味があります。でも、デザイナーが自分で実際の車を製造することはできない。社内のいろんな部署の理解・協力なしには全く何も変わらない、それゆえ、前田氏の改革はいろいろ波紋を呼び起こすわけです。この本には、デザイン部門以外のマツダの社員が登場しますが、プレス、金型、カラーデザイン、塗装、クレイモデル、チーフデザイナーといった各部門の社員が登場します。

 

前田氏がどのようにして反発する各部門を説得し理解を得、そして「共創」関係へと変えていったのか、紹介されている様々な苦労、エピソードが、まさに企業組織ではいかにもありがちなことばかり。少しでも似たような経験を持つ方なら、まさに「ある、ある」状態でしょう。

 

困難を乗り越えた前田氏の努力は素晴らしいと思います。それは間違いありません。

 

しかし、ちょっと感じたのが、「ここまで時間や労力をかけないと新しいことができない組織というのはどうなのか?」という疑問です。前田氏のようなパワフルな人ばかりではありません。

一方で、「そのぐらいを乗り越えられないような人は、そもそも新しいことはできないから、ある意味、試練として当然。」、という考え方もあるでしょう。どっちが正しいのか、よくわかりません。

 

〇 いいデザインとは何か?しょせんは人の好みの問題?

 

初めてある車を見たとき、デザインについて、「かっこいい」、「かわいい」、「自分はこのデザイン好き」、「自分は嫌い」といった感想を持ちます。同じ車に対する感想であっても、その中身はとうぜん人それぞれです。それは当たり前。

 

でも、だからといって、「いいデザイン、わるいデザインなんて決められず、あくまでも人の好みである」と言ってよいのだろうかと思います。ふつうはこういう意見が支持されるのですが、前田氏はこう言っています。

 

私もある部分ではYESと思う。おおまかなデザインの方向性、テイストについては個人の好き嫌いが左右する。これカワイイ。これカッコいい。これ美しい。これキライ・・・そこに他人は口を挟めない。好き嫌いでは個人の感覚こそ絶対である。しかしテイストの違いとは別に、デザインの質についてはプロしか作れない領域というものがある。クオリティの絶対値というものは確かに存在する 

 

プロとしての自信、誇りにあふれる言葉だと思います。この言葉の具体的行動と私が思うのが、前田氏が、おそらくどの自動車メーカーも実施していた「市場調査」を廃止したことです。「市場調査」とは、新しい車を出す前に、いくつかのプロトタイプをユーザーに見てもらい、そこでの反応を商品に反映させる手法です。これを廃止するということは、ユーザーの好みに合わせないということを意味します。

 

でも、そうすると、1つ疑問が出ます。デザイナーの判断でデザインするとしても、「それもその人の好みに過ぎず、何が違うのか?」という疑問です。あるいは、「あるデザインをめぐって、デザイナーの間で評価が分かれてしまった場合、どうするのか?」という言い方もできます。

前田氏は、デザインを前提とした上で、言葉による表現を非常に重視しています。デザイナーに限らず、求められる能力だけどなかなか持つことができない、あるいはその必要性が意識されていない能力のひとつに「言語化能力」があると私は思います。デザインという感性とか直観が重視され、もっとも言語化から縁遠い世界に見えても、前田氏が言葉を重視しているというのは意外です。

しかし、デザインに人の好みという相対的な領域だけでなく絶対的な領域の存在を認めるのであれば、言語化は不可欠です。絶対的な領域は、少なくともプロの間では、それについての見解を一致させることができる領域を意味しますが、それを実現させるためには、「かっこいい」、「自分は好き」という表現では不十分で、なぜそのデザインが良いのかということの理由、根拠が必要となり、ここに言語化が登場します。そして、言語化は同時に、デザイナーの単なる思い付き、気まぐれによるデザインを排除することにもなります。

 

〇 iPhoneは日本人が作るべきだった

 

この本の内容の中で、もっとも印象的でした。おそらく、これを読んだ瞬間、ほとんどの人が「えーっ?何言ってるの?」とか「それは、単なる日本人のデザイナーとしての願望に過ぎないのでは?」という感想を持つのではないでしょうか。

 

たしかに、この種の発言はよくあります。「じっさいは外国に先を越されたが、ほんとうは日本が〇〇すべきだった/〇〇であるべきだった」といった類の発言です。この種の発言をする気持としては、単なる願望の表明だったり、自分が日本人であることを誇りに思っているというアピールだったり、といったものです。他にもあるのかもしれませんがいずれにしても、共通しているのは、発言している本人が本音では、日本が本当にそれが実現できるはずとは信じていない点でしょう。

 

しかし、前田氏は違います。なぜ日本人が作るべきだったのか、という理由・根拠が具体的かつ明確にこの本で述べられています。つまり、前田氏はそれが十分可能だと思っているからこそ、日本人が作る「べき」だったと述べています。なぜそういえるのか、それは、前田氏が日本文化の伝統、オリジンとは何かという点について、具体的かつ本質的に理解しているからです。これを象徴するエピソードが紹介されています。

 

ローレンスは「日本の自動車メーカーであるマツダは日本的なデザインを標榜すべきである」という考えの下、「NAGARE」というデザインシリーズを発表した。彼が着目したのは日本庭園だった。中でも枯山水の砂利に描かれた模様にいたく興味を引かれ、「流(NAGARE)」「流雅(RYUGA)」「葉風(HAKAZE)」「清(KIYORA)」といったコンセプトカーでは、その水の流れるような模様をキャクターデザインとしてボディの側面に表現した。これが私には我慢ならなかった。日本の自動車メーカーとして日本的なデザインを取り入れることに関しては私も賛成である。しかし日本的な要素を取り入れるといっても、枯山水の砂紋をそのまま車に刻むというのはいささか表面的すぎるように思えたのだ

 

「ローレンス」とはオランダ人で、マツダのグローバルデザイン本部長であり(2006年)、前田氏の上司に当たる者です。

この話し、ローレンス氏が外国人だからこんな変なこと言っていると笑って済ませられるでしょうか?いまの日本にもローレンス氏と同じようなことを言っている日本人多いのではないでしょうか?前田氏が、日本文化を表面的ではなく本質的に理解しているからこそ、上司に反論できたのだと思います。前田氏のほかとは違う秀逸ぶりが際立ちます。

 

 

〇 デザインが日本を変えるなんて大げさ過ぎない?

 

さいしょに感じた疑問に戻ります。

ここまでもおそらく伝わったのではないかと思いますが、前田氏は、具体的に根拠、理由のあることしか述べていません。そして、前田氏の話しは、単にマツダでの車作りの話しにとどまらず、日本のモノ作り全般にも及んでいます。そして、なぜ日本のモノ作りにデザインが大事なのか、ということを、新興国との競争を特に意識しながら、明確にその理由を述べており、デザイン、モノ作りのしろうとの私でも納得です。それゆえ、デザインが日本を変えることは十分ありだと読後には思いました。

 

また、この本を読むと、いつのまにか、日本もこれからまだまだ何とかなるのだという希望や自信を与えてくれると同時に、日本という国をあらためて見直し、そして誇りを持たせてくれます。「外国にはない日本のこれが良い。」といった単純な比較論、表面的なものではなく、今日まで続く長い日本の歴史・文化の中で現代の日本において何を大事にすべきかということを分からせてくれます。言い換えれば、日本人としての価値観を認識させてくれると言えます。

 

わたしなりにこの本の良さを説明してみました。ざんねんながら、まだ個人の好き・嫌いという相対的なレベルでしか説明できていないようです。わたしの言語化能力はまだまだのようです(笑)

 

 

 

人生にとって大事なものは何かという普通考えないテーマをいつのまにか考えさせてくれる本

「世界征服」は可能か?(著者:岡田斗司夫)、ちくまプリマー新書、2007年6月初版第一刷発行、2007年10月初版第十刷発行、

ーーーーーーーーーーーーーーーー

 とってもユニークなタイトルです。たいへん失礼ながら、この本を読むことでなにが得られるのか、まったく想像できない本です。でも、第10刷と大増刷している本ですから、期待大です。ということで、読み始めてみるのですが、さいしょに思った感想はこんな感じです。

 

〇 まじめに読むべきか、どう読むべきか、迷ってしまう

 

そもそも「世界征服」なんて、どう考えても自分の人生に関係があるとは思えない話しがテーマですから、読む前からどまどっている上に、なんと、さいしょは、アニメに出てくる世界征服の目的を4タイプによる分析です。

 

どこまで真面目に読めばいいのか、単なるアニメ論として読めばいいのか、かなり読み方に戸惑ってしまいます(笑)。でも、最後まで読んでみるべきです。

 

〇 悪とは何か

 

もちろん本である以上、ちゃんと目的はあります。この本は200ページ弱にわたって、世界征服についてのあらゆる角度からの考察をし尽くし、最後には、「何が悪なのか」ということについて結論を出しています。

 

世界征服というどうみても悪にしか見えない行動を題材として、「世界征服=悪」という単純な二元論に陥ることなく、「悪とは何か」ということについて考え、人それぞれの価値観に左右されない絶対的な定義を結論付けています。「戦争は悪か否か」という議論ととても似ていると感じます。

 

この本は、読者をアニメというとっても入り易いものから入らせ、いつのまにか深遠な哲学の世界に導いてくれます。例えると、入り口はとても小さくせいぜい10人ぐらいしかは入れない居酒屋かと思いきや、実際には入ってみたら、うなぎの寝床みたいに長く、50人ぐらい入れる居酒屋だあったことに気付いたときの驚きに似ています(笑)。

  

〇 この本を読む価値はあるのか?

 

ルパン三世の映画に「1$ マネーウォーズ」というのがあります。この映画は、ヒトラーとかの過去に世界を征服しようとした指導者が持ったことがあり、それを手に入れたものは「世界の王」になれるといわれている「幸運のブローチ」をめぐって、ルパンと銀行頭取シンシアとの争奪戦を描いています。そんな中、相棒の次元大介が、そんなブローチを手に入れてどうするのか疑問に感じ、こう質問します。

 

次元「ルパーン帝国でも造ろうってのかあ?」


ルパン「そンなアホじゃねーよ」 

 

このやりとりを見たとき、わたしはちょっと不思議に思いました。「世界征服って現実味は確かにないけど、でも、本当にできたらそれはそれで楽しいのでは?なぜアホなんだろう?」 と私は思ったからです。

 

そんな疑問があったので、その疑問が解消するかもと思い、「世界征服」というタイトルに惹かれてこの本を読みました。読んでみて、疑問は解消しました。この本で分かったことは、

 

世界征服しても大変は大変、世界征服は割りに合わない

 

ということです。ルパンが「アホ」と言った理由がよーくわかりました。ということで、世界征服を夢見る人、実行する前にぜひこの本を読んで欲しいです(笑)。

 

言い換えます。

 

世界征服を実現した人とは、この世の中をすべて支配する独裁者です。独裁者とはすべてを思いのままにできるので、世界征服って悪くないのではとおもってしまうのですが、意外と独裁者の人生はそれほど幸せにも見えないというのが現実です。「北朝鮮金正恩は幸せか?」という話しです。人生は単純ではありません。

独裁者の大変さを知ることを通じて、自分の人生にとって何が大事なのかということを気付かせてくれたり、自分はどういう人間なのかを見つめなおさせてくれます。

 

さすが第10刷を達成した本です。