日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

若年世代が感じるモヤモヤの原因が分かる本

「不寛容の本質ーなぜ若者を理解できないのか、なぜ年長者を許せないのか」西田亮介、経済界新書054、2017年2月初版第1刷

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タイトルをみて、確かにそうだなあと感じてしまい、読んでみました。「不寛容」というと、心の狭さみたいな本人の性格の問題としてとらえることはできますが、この本は、それとはちょっと違う角度から迫っています。

本書は普段なかなか意識されない「昭和の面影」と社会実態の乖離の豊富な事例を紹介していく。単に認識のギャップではなく「昭和の面影」の「在りし日の昭和」と「羨望の昭和」という2つの対象的な見え方に警鐘を鳴らし、日本社会が直面する認識ギャップを浮き彫りにすることが目指すところである。そこに我々の社会の不寛容や違和感、生きづらさの本質が横たわっているのではないかというのが筆者の見立てである(43~44ページ)

一見、古き良き昭和みたいな議論をするのかなあとも感じますが、西田氏の意図は違います。

本書のような議論を自己責任と競争を重視する新自由主義批判につなげることは容易いが、すでに我々は十分に新自由主義的な世界を生きている。今更紋切り型の新自由主義批判を展開してみたところで虚しさが残るのみである。かといって、「昭和の価値観を取り戻せ」とか「変化するな」ということを言いたいわけではない。前提条件が変化しているのに、それに対応して変化しなければ、単に取り残されたり保守的になることでかえって何かを失ったりすることもあるはずだ。筆者の認識では、変化を直視しないことで、この社会が失ってきたものは少なくないように思えるからだ(45ページ)

このような問題意識の下、西田氏は、様々な分析を展開しています。

主に昭和に現役世代を送った年長世代の眼差しが「在りし日の昭和」であり、もうひとつは昭和よりも平成の時代以後に現役を迎えた若年世代による「羨望の昭和」だ。ここでいう「在りし日の昭和」とは、将来の成長を十分な妥当性をもって期待することができた次代の昭和像である。その時期の政治、教育、経済、労働市場の「常識」は確かに現在にも影響を与えていて、年長世代はそのことを当然のことだと認識し、その認識に基づいた発言や提言も少なからずなされている。ただし、すでに、「在りし日の昭和」を支えた環境条件は変化している。したがって認識が更新されないままに、悪意なくなされた発言であっても、ときとして異なる世代からすると、まったくもって受け入れられないものになっていることがある。そのときにはこういった「アドバイス」は、まったくもって有益なものではなく、ただの懐古主義的な物言いになってしまっているのだ。それに対して、「羨望の昭和」とは何か。現在では手に入れることが困難になった昭和の常識のことである。それらは総じて「安定」の象徴である。主に若年世代からの眼差しということになるだろう(38~39ページ)

認識ギャップ自体を取り上げるのは西田氏の意図ではないですが、しかし、この指摘はとても有益です。昭和時代から続いている習慣とか慣行とかについては、すべて一度は疑いの眼差しで見る必要があるということに気付かされます。

何よりきびしいのは、多くの生活者にとっての「予見可能性」が減少したことだ。予見可能性の減少は、自己決定と選択の機会の増加を意味する・・・現役(若年)世代は圧倒的に「自由」になった。学歴、就職先、家族形成、その多くを自ら選択できるようになったともいえる。だが、海外も含めて、進学先も、就職先も選択すること「も」できるようになったが、そのことは実際に選択できるということと、その選択が従来の選択と比べて「幸せ」であることを意味するわけでもない。前例の乏しい選択肢の多さは、「自己責任に基づく主体的な判断」を要求する(39~41ページ)

とても鋭い分析ですね。以前はなかったものの近年起こっている問題のうち、特に若年世代についての問題の原因は、西田氏の指摘に収斂するような気がします。原因を指摘しても問題は解決しませんが、しかし、的確に原因を把握できれば、的確な対策により問題を解決することができ、希望が持てます。正直、これだけでも、この本を読んだ価値は十分あると思うのですが、具体的な分析においても、西田氏の指摘は鋭いです。

学生運動の経験や直接間接の記憶を有する人たちからすると、昨今の若い世代が象徴的存在になった現代の官邸前デモは、「在りし日の昭和」の青春時代を想起させ、応援したくなるようだ(81ページ)

なるほど。確かにそういう風に捉える人もいるなあと思います。西田氏の意図するところではないと思いますが、どちらの運動も何も変えれずに失敗に終わってます。

憲法改正について、改憲側は、実に粘り強く、ときに信じられないくらいの根気で、長い時間をかけて少しずつ実務上の工夫を積み重ねて、前進させてきたことがわかる。まさに現状は改憲派の「集大成」である。その一方で、護憲の側は何が制度改正の要かということを一部の専門家をのぞくと、うまく理解し、支持層に対して周知することができていなかったと思われる。強い言い方をするなら、戦後民主主義的なものがより強い支持を得ていた昭和の時代に、実務上の制度の不在に安住してきたのではないか(111ページ)

これもなるほど、という感じです。憲法改正は、現在の安倍政権になってから急に浮上してきたかのように見えますが、その割には、国民の間にそれほど強い反発も起きていません。2017年の総選挙も勝利しました。西田氏が指摘するような改憲側の積み重ねがあるのであれば、この現象は納得できます。

一般的な日常を過ごす「生活者」と「イノベーター」の利害関係はなかなか一致しないのが現代社会である。いま、日本で本気でイノベーターになりたいと思えば、もはや国内に留まっている合理的理由は乏しくなっている(128ページ)

日本のように高齢化して重い社会保障費、増税が待ち受けることが半ば自明になった国にこだわるよりも、たとえばアメリカで永住権を取得するほうが「イノベーター」たちにとっては幸せではないか。彼らがそうしない、合理的な理由をみつけることができるのだろうか。その反面、大半の国内の「生活者」は「イノベーター」になることはますます難しくなるだろう(130ページ)

 いままでまったく考えたこともありませんでしたが、たしかにあり得る話ですね。私のような「生活者」には、とても厳しい現実が待っているのかもしれません。