日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

もったいない精神なんて言われなくても、食べ物に対してまじめに向かおうという気持になる本

たべたいの(著者:壇蜜)、新潮新書、2017年11月発行、

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タイトルと著者が壇蜜氏ということで、ついついちょっとエロイことを想像してしまいましたが、ちがいます(笑)。文字通り、食べ物の話です。

 

食べることが好きかどうかを聞かれると、困る。書くことは好きかと聞かれるくらいこまる。どちらも好きや嫌いで考えることができない。書くことは生きる手段、仕事の一環なので好きも嫌いもない。食べることも生きる手段、生活の一環なのでこれも同じだ(3~4ページ)

 

食べることは生活の一環。たしかに、食べることは嫌いという人に会ったことないし、仮にそういう人が実在したとしても、だから食べません、というわけにはいきません。そうすると、食べることについて好き嫌いをうんぬん言ってもしょうがない。

 

この本は、読めばそのテーマになった食べ物が欲しくなるような内容ではないと思う。読めば・・・どうなるのだろう。願わくば「そうか、それぞれの食べ物にも存在する事情があるんだから、共存しようじゃないか」と寛容な気持で読み進めていただけたら幸いだ(5ページ)

 

タイトルを裏切る内容です。どんな本かいまいちイメージがわきませんが、少なくとも、普通の食べることについての本ではないことはよくわかります。

 

「チャレンジ」と称して上司が部下に高め&無理めのノルマを設定し、大変なプレッシャーをかけていた・・・という。この企業のトップがチャレンジということばをどのように捉えていたかは分からない。しかし、チャレンジというなら、たとえ失敗しても過程は評価し、次回に活かすことが前提だ。失敗したら次がない、というのはチャレンジではなく命令だと思うのは私だけだろうか(16ページ)

 

たべることと全然別の話ですが、おもしろいです。

 

個人経営のお店はもちろん、チェーン店でも、喫茶店の食事は手軽で美味しいものが多い。「喫茶」なので職位はそれほど豪華ではないことを、皆前提として考えてくれる。「すごくうまい」に対する沸点も自然と下がるし、「喫茶店のゆったりとした非日常感」で美味にも拍車がかかる。一般的な美味しさのサンドイッチも、ナポリタンも、オムライスも「ああ、今コーヒーや紅茶メインのお店で食事してる!」という高揚感も手伝って、うまさが増すこと間違いない。あえてファミリーレストランや定食屋に行かない「ふふん、お茶メインのお店でご飯しているわ」という気持から得られる多幸感は、味覚までも甘く麻痺させるのではないかと考える(50~51ページ)

 

たべることの話です。これもおもしろいです。喫茶店のナポリタン、わたしはとても好きです。その理由がこれなのかもしれません。なぜ喫茶店のナポリタンはおいしいのか?という話のネタとしていただきです。「うまい」とか「うまくない」というのは食べる人の感覚にすぎず、食べ物自体にとっては関係のないということを、ほんとうは壇蜜氏は言いたいのかもしれません。

 

私はサプライズが苦手だ。するのも、されるのもだ。どうしても「体のいい強制ドッキリ」にしか見えない。特にサプライズとやらを受けた後の、サプライズをした側による「ねえ、どう?あなたのためにこんなことしちゃったー!ねぇ、どう?どう?感動したよね、ね?」と言わんばかりの雰囲気には緊張しか感じない。反応しなければ、否応なしに悪者にされるからだ。「正解の反応」は「喜んで感動する(泣いたらモアベター)」の一択。それ以外は非難の対象となる。これが強制ドッキリでなくてなんなのか。ドライに反応したがゆえに「あんなに頑張ったのに、冷たい」という声を浴びせる者がいたら言いたい。「悪者にされるところまでがサプライズなのか?だったら大成功だな」と(67ページ)

 

たべる話ではありませんが、この内容にわたしは全面的に同意します!

 

姐さんは「お客が欲するものは物語なのかもねぇ」と私に教えてくれた。姐さんのハチミツレモンは「手間をかけて作って・・・」「わざわざここまで持ってきて・・・」「そう、アナタのために」という物語が語らずとも含まれ、お客にしっかり届いているのだった(78ページ)

 

こういうのをふつう「気持ちがこもっている」なんて言うと思いますが、「物語」という言葉を使っているところに、相手に対する重苦しさ、押し付けさを与えないようにしているのかなあと思います。

 

「サンマのはらわた食べられないの?子供じゃん」「焼き鳥は塩で食べるのが大人でしょ」「甘いもの?子供じゃないんだからさぁ」・・・等を得意げに言い放つ者は少なくない。このようなことを言ってくるのは何故か男が多い気がするが気のせいか。苦味を好み、塩の味付けで満足し、甘いもの抜きで過ごす者が本当に大人なのか。味わう楽しみを他者から奪って何が楽しいのか・・・と反論をする私の姿も充分子供だが(90ページ)

 

わたしもサンマのはらわたが食べれません。かにみそも好きではありません。ちょっと気になるのが、こういことを言ってくるのに男が多いという部分です。自分もついついそういうことを言っていないか、気をつけます。

 

「パーティ会場に出てくる妙な料理の面々」・・・略して「妙理」たちの存在だ(中略)中でも妙を極めた至高のメンバーを「妙理四天王」という。「会場のエアコンでパサパササンドイッチ」「かじれども肉に巡り合えない唐揚げ」「何が絡まっているのか謎のチリソース」・・・そして真打ち、「主催者側の懐具合を案じさせかねない過疎化ソース焼きそば」(中略)場を盛り上げるための料理や飲料には魂が宿っている。パーティーで乾杯するビールやワインが旨い理由だろう。妙理もそんな喜びに寄り添いたい一心でこの世に生まれた。たまたま姿形が妙だっただけのことだ(99ページ)

 

「妙理」ということば。これもこんごの話のネタになることでしょう。でも、「場を盛り上げる」というところから最後までの部分には、ちょっと感動しました。壇蜜氏が、「願わくば「そうか、それぞれの食べ物にも存在する事情があるんだから、共存しようじゃないか」と寛容な気持で読み進めていただけたら幸いだ」(5ページ)と述べている意味が、とてもよくわかりました。