日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

ついついイメージ先行で思い込んでいないか、比べてみてはじめて分かることがいっぱいあることが分かる本

「昔はよかった」病(著者:パオロ・マッツァリーノ)、新潮新書、2015年7月発行、

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この本のタイトルにある「昔はよかった」という言葉、ときどき聞きます。あることについて現在と「昔」を比べて、「昔」の方が良かったという意味ですが、本当に「昔」の方が良かったのか?というのが、この本のテーマです。読んでみると、意外なことの発見の連続で、とってもおもしろいです。

 

年の瀬の平和な夜のしじまに拍子木の音がこだましますと、たいていの日本人は「火の用心やってるな」と思うのです。拍子木を叩く夜回りを「火の用心」と表記しても差しつかえないでしょう(16ページ)

夜回りの拍子木がうるさい。迷惑だ。やめさせる方法はないのか。町内会の当番制でやらされるのはイヤだ。悲鳴に不平に恨み節。ネットには人々の生の声があふれています(中略)おさまらないのが、拍子木信者のみなさんです。「むかしは拍子木がうるさいなんていう人はいなかったのに」「ひとの善意をなんだと思ってやがる」「ああ、世知辛い世の中になった」(18~19ページ)

 

年末によく見る拍子木を叩く夜回り。時代劇なんかみると江戸の町でも行われていたイメージがあります。たしかに拍子木信者の言う通り、昔は何も問題がなかったというイメージです。

 

「こどもに夜回りをさせる意味があるのか」「夜回りの当番が不愉快。翌日の仕事に支障があるし、出ないと罰金を取られる」「拍子木なんか叩いたらかえって泥棒に夜警の居場所を知らせるようなものだ」「町会費を払った上でになぜ夜警までやらされるのだ」などなど、不平不満を訴える投書は、昭和20~30年代を通じて、朝日・読売両紙で頻繁に見られます(29ページ)

 

なーんだ、今の日本人だけが文句を言っているわけではないようです。どうも当初持っていたイメージは、間違いだったようです。

 

こどもに関しては、元気であればいい、みたいな短絡的な価値観が浸透しているのが気になります。落ち着きなく動き回るこどもを「ウチの子、やんちゃだから」とかいって嬉しそうに自慢する親がいます(150ページ)

 

こどもは元気が一番、というのは当然なのではと思っていましたが、どうもそうではないようです。

 

銭湯に集まるさまざまな人たちの会話から江戸の庶民生活と庶民のホンネが浮き彫りになる滑稽本の名作『浮世風呂』。このなかで、奥さんたちがこどものケンカについて話す場面がありますので意訳します。「男の子は悪ふざけやケンカがすぎるから大変よ」「よその子にケガでもさせたら申し訳ない。ケンカに負けて帰るほうがいい」「弱虫なくらいが世話なくていいわ」(中略)渡辺崋山の有名な一掃百態図など江戸時代の寺子屋を描いた絵では、こどもたちが手習いの最中にも元気に暴れてて、学級崩壊さながらだった様子が伝わります。お師匠さんも、こどもの親が払う授業料でかつかつの生活をしている身としては、正当が減ると死活問題だから強く叱れなかったんです(中略)江戸時代までは、こどもは元気すぎて迷惑をかけるいきものであり、いかにおとなしくさせるか、親の関心はそちらにあったようなのです(中略)日本のこどもに元気の押し売りをはじめたのは(中略)どうやら明治政府だったようです(151~152ページ)

 

こうして昔と比べてみると、いままで当然、常識と思っていたことがそうでもない、ということがよーくわかります。電車の中などで子どもが騒ぐのはどうか、ということがときどき話題になります。いぜんは、子どもが騒がしいのは当然であり構わないと思っていましたが、この本を読んでしますと、どうも怪しい気がしてきました。

子どもの声がうるさいという理由で、近所に保育園を建設することに反対している住民がいて、そのため保育園の建設ができなかったということが以前ありました。当時このニュースを聞いたときは、声がうるさいという理由で建設に反対するのはおかしいと思っていましたが、果たして本当にそうなのか?この本を読むと、よくわからなくなってきました。保育園の騒音対策が不十分だったとすれば、建設できなかったのは保育園の責任ではないのか、という気がしてきます。

 

明治以降、日本各地で自警団が組織された時期は何度かあります。一例をあげると、昭和30年代(中略)当時の人々がなにを恐れて自警団を結成したのか?愚連隊です。愚連隊に正確な定義はありません。10代から20歳前後の暴力犯罪集団といったところ(中略)昭和30年代に未成年者が起こした犯罪は、殺人が現在の6.3倍。強盗が2.5倍。放火が5.7倍。暴行・傷害が3.7倍。強姦に至っては28倍という金字塔を打ち立ててます(中略)昭和30年代に日本中で大暴れしていた凶暴な若者たちは、いまどうしていらっしゃるのか。当時から少年法はありましたから、殺人や強盗を犯しても数年で釈放されてます。3700匹の少年殺人犯や3万7000匹の少年強姦犯や26万匹の少年暴行傷害犯は、現在60代後半から70代前半になって、あなたのご近所で普通に暮らしていらっしゃるのです(中略)歴史を踏まえれば、近年、高齢者による暴力やストーカーが増えているのは不思議でもなんでもないことがわかります。彼らは若いころから悪かったのです。人間、歳をとると丸くなるなんてのはウソです。ワルは死ななきゃ治らない(96~98ページ)

 

恐ろしい話です。暴走老人の問題の背景には、高齢者が社会から疎外されているからとか、孤立しているからなんていう分析を聞いたことがありますが、この話を聞くと、ぜんぜん信じられません。かつて愚連隊を警察が徹底的に取り締まったように、暴走老人にも警察が厳罰をもって対処するしかありません。先ほどの騒ぐ子どもの話にもつながります。時々、高齢者が子どもが騒ぐのは当然のことと言って子どもやその親を擁護しますが、自分が若いころ暴れていたのであれば、子どもが騒ぐぐらいなんでもないのは当然でしょう。別に高齢者の心が広いわけではないです。

 

現代の東京は、人と人との絆やふれあいが薄れたコンクリートジャングル。マンションやアパートの隣の部屋にだれか住んでるかも知りやしない。ああ、星も見えない東京砂漠。かたや、江戸時代のイメージといえば、長屋の住民たちはお互いみんな顔見知り(187ページ)

 

こんなイメージ、わたしもこれまで持っていました。まさに「昔はよかった」というやつです。「下町風情の残る・・・・」という褒め言葉も同じ意味でしょう。時代劇とかでも近所づきあいの盛んな和やかなシーンを見ます。しかし、比べてみるとそうでもないようです。

 

芝神谷町の弘化元(1844)年から3年までの年平均転出率はどうかといいますと、23.5パーセント。続けて弘化3年から嘉永2(1849)年の年平均転出率は、なんと58パーセント。1年で半数以上の住民が入れ替わっていたのです(中略)東京都の統計によれば、平成23(2011)年の東京23区内の転出率はおよそ6パーセントです(中略)実際の江戸の町は、地方からの流入民が多く、住民の入れ替わりが非常に激しい匿名性の高い町でした。1年で住民の半数が入れ替わることもあるんですよ。そんな状況で、近隣住民と深いつきあいなどできるわけがない。近所づきあいはほとんどなく、長屋のとなりの部屋に住んでるヤツとは口をきいたこともない、なんてことも珍しくなかったのが江戸の町の真実。大店の商店主たちは互いに顔見知りで、町の運営にも協力してましたけど、裕福でない江戸庶民の人間関係は、現代の東京に住む人たちと大差なかったと考えるべきです(186~188ページ)

 

こうしてデータに基づき比べると、とてもよくわかります。これまで持っていたイメージがぜんぜん間違っていたことが。江戸時代も今も変わらないとわかれば、なにも、地域とのつながりがないとか、近所に顔見知りがいないなんてことは、まったく悩む必要のないことだと思え、とても気分がスッキリします。むしろ、現代はネットが普及していて、ネットを通じていろんな人とつながれるので、江戸時代よりもむしろつながりは深いという考え方もできます。

世の中がなぜそうなっているのか、経済学を勉強すると人とはちょっと違った見方を知ることができます

やさしい行動経済学(編者:日本経済新聞社)、日経ビジネス人文庫、2017年12月第1刷発行、

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経済学と聞くと、グラフがあって数式があってお金の話をしている学問、というイメージでしょうか?でも、この本は、経済学の意外な役割を教えてくれます。

 

経済学は目に見える行動から目に見えない心を探る学問といってもいいでしょう。目に見えるいじめや差別を観察し、その背後にある目に見えない心の闇や偏見を考えることも少しずつ可能になってきました(75ページ)

 

ちょっとびっくりです。よく考えてみると、経済学は社会全体の余剰の最適化を考える学問ですが、最適化するかどうかを考えるには、人がどういう行動をとるのかということを考えなければ行けません。そうすると、もともと経済学は人の心を分析していたとも言え、ただそれがこれまではお金とか消費行動が中心だったということなのでしょう。心理学が人の心を分析する学問なら、社会科学である経済学にもその資格ありです。

 

行為者に対する「共感」と、自分自身の行動とのバランスをとることが適切な道徳判断につながり、そういう行動をする人を「公平な観察者」といいます(中略)最初に「公平な観察者」と唱えたアダム・スミスは「胸中の人」と言い換えて、他人の意見や感情に簡単に流されないその超然とした性格を強調しました(中略)日本人はかねて、他人の立場を思いやる「共感」を何よりも大切にしてきました(中略)他方、その精神が行きすぎると「滅私奉公」や「出るくいは打たれる」などの悪弊が生まれます。英ロンドン大学教授だった森嶋通夫氏は、英国人は適度な距離感によって「和」を保つが、日本人は個性を軽視する「一心同体」によって「和」を保つと指摘しました(21~22ページ)

 

いまの日本人に求められることがはっきり指摘されています。なぜかというと、次の記述とセットで読むとそう思うのです。

 

幸福には生理的欲求の充足と承認欲求の充足があり、それが段階的に現われます(中略)江戸時代など身分が固定化した伝統社会では、伝統に従って行動していれば社会的承認が得られました。一方、近代社会は自由に自分の人生が選べる社会です。望む仕事に就き、好きな相手と結婚し、気に入った場所に住む可能性が開かれている一方、常に失敗と隣り合わせです(中略)伝統社会のように、社会的承認が自動的に得られるわけではないのです。自分が必要とされ大切にされると実感できる条件を、自分の力で満たす必要があります(121~122ページ)

 

江戸時代だけでなく昭和もそうだったと思いますが、一定の人生のパターンがありそれに従っていれば一定の幸せが得られていた時代がありました。学校を出て会社に就職し定年まで働く、その過程で家庭を持ち、マイホームを建て、定年後は、退職金と年金でのんびり老後を過ごすというパターンです。であれば、「共感」によって集団(学校、会社)の中で生きていくことが重要でした。しかし、いまは、こんなパターンは誰も信じていませんし、そして、代わりとなるパターンは出てきていませんし、今後現われるとも思えません。そうすると、これから幸せな人生を送るためには、「共感」の価値はかなり下に置かざるを得ません。

 

社会生活をする中で、自分が「必要とされ、大切にされている」と感じれば幸福を感じ、他人から否定的な評価を受ければ不幸を感じます。現代社会では、この承認のメカニズムが複雑になっています。大金持ちで豪華な生活をしていても、否定的評価に悩む人がいれば、質素でも周りから尊敬され、いつも幸福を感じている人もいますだからといって、経済的豊かさと無関係なわけではありません。豊かであれば承認を受ける機会は多く、貧しければ否定的評価を受ける機会が多いことは容易に想像できます。これが、近代社会で「経済格差」が問題となる理由です(中略)伝統社会では共同体と宗教が「社会的承認」を保証していたのです。江戸時代を考えてみましょう。当時は身分社会であり、職業は世襲で、経済的には豊かにも貧しくもならない「定常社会」でした。自分がどのような人生を送るかは生まれながらにして決まっていました。それゆえ、身分に応じた仕事にまじめに取り組み、村など共同体のルールに従い、宗教の教えを守りさえすれば、身分に応じた「社会的承認」を得られたのです。これは無視でも農民でも同じです(120~121ページ)

 

いまと昔がどう違うのか、はっきり描かれています。一方、このように聞くと、江戸時代の人は、いがいと幸せだったのではないかなあとも感じます。一番生活が大変だったと思われる農民であっても、通常は社会的承認を得ることができたようですから。一方、現在は、社会的承認を得られる人と得られない人の差が大きくなっており、ある意味、生きていくのが大変な世の中です。

 

純粋な厚生主義では、労働を促進するため所得税率をマイナスに設定することが最適となります。一方、他人への利他性が増すことは社会的に望ましいという徳倫理では、所得税率を高く設定し、ボランティアを促す政策が望ましいとの結論になります。徳倫理の倫理観では、ハビタット・フォー・ヒューマニティの活動は、経済効率は悪くても利他性の上昇を通じて共同体を築く面で評価できるのです。このことは、幸福概念の違いと関係があります(中略)ボランティアや寄付で他人のために資源を使うことで他人への利他性が増して共同体の絆の意識が深まると、幸福感が増していくからです(45~46ページ) 

 

経済学が人の心を分析している分かりやすい例です。人が何に幸福を感じるのかが分析の対象です。人のためにお金を使うと幸福感を感じることがあるというのは、言われてみれば確かにという気がします。わたしは時々寄付をしますが、寄付をすると自分のお金は減っていますが、一方で、とても良いことをしたという気持になり、気分がよくなります。と同時にことのことは、現在の日本経済に大きく影響する話しです。

 

子供のときの夢は「自分だけのテレビを持ち、好きな番組を好きなときに見ることができたら、どんなに幸福になるだろう」というものでした。今の多くの若者の夢と希望は、そのような物質的に家族の中で孤立していくことではないようです。高度成長期に育った我々の世代が、自分たちが持っていた幸福概念を若い人たちに押し付けることがないように注意する必要があると思います。それから絆の深まりによって個人の幸福感が上がることが多いことを、東日本大震災の幸福感への影響などで説明しました。消費や余暇に基づく効用を個人が自由に追求していくと幸福になるという考えが誤解であるとすると、その誤解を解くのを助けるのは学者の使命の1つとなります(53ページ)

 

さいきんの若者は昔と違って欲がない、モノを欲しがらないと言います。この分析からすると、企業の供給する商品(モノ)に魅力がないのではなく、そもそもそういう方向に関心がないということになりますので、企業がいくら魅力的な商品を開発してもあまり効果はないというか、方向違いの対策ということになります。モノ消費からコト消費へという話しも、この分析を聞くとなっとくです。とはいえ、企業の担当者がモノ消費の世代とすると、なかなか対応は難しそうです。ついつい押し付けをしてしまいますから。

 

経営者は過去の経験や(本当に存在するかは別として)統計データから、平均的に白人のほうが黒人よりも生産性が高いと考えていたとします。すると、たとえ目の前の応保者2人に関する情報が人種意外の側面では同じだったとしても、平均的に白人のほうが生産性が高いだろうと予測します。結果的に求めている給与が同じならば、白人を採用することになるでしょう。この経営者が偏見を持っていなくても、統計を見ることで黒人に差別的な扱いをしました。このような差別を統計的差別と読んでいます(81ページ) 

 

 

経済学は「見えない心」を探る学問であるとこの本は述べていますが、これはまさにその好例です。本人が意識していない、あるいは、統計という客観的データに基づいて判断をし、むしろ、意識的に差別や偏見を避けるようにしているにもかかわらず、じつは、差別をしてしまっているという話です。とはいえ、どうすればよいのかという答えはみつからず、難しい問題です。

選挙でどの政治家に投票しようか迷ったときに読んで頂きたい本

決断のときートモダチ作戦と涙の基金(著者:小泉純一郎、取材・構成:常井健一)、集英社新書、2018年2月第一刷発行、

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著者の小泉氏といえば、総理時代に、郵政民営化など、自民党政権ではまずできないと思われた改革を成し遂げた政治家です。この本は、そんな小泉氏が何を考えていたのか、政治家時代、さらには、政治家引退後の現在について教えてくれる本です。

 

元総理はいつも原発ゼロについて「日本の総理が決めたら、アメリカは文句言ってこないよ」と言い張る。それは本当なのだろうか。野田佳彦政権は、原発事故後の脱原発世論を警戒するアメリカ政府筋の「ご意向」を忖度し、2030年代脱原発方針の閣議決定を見送っている。小泉に持論の根拠を問いただすとこう答えた。「私は5年5か月もブッシュ大統領と話していろんなやりとりをしたから、アメリカだって日本の意向を尊重するものだとわかっている。アメリカの立場と違うものがあっても、こちらの意向がはっきりしていれば尊重するんだ」(36ページ)

 

日米の話ではありませんが、絶対できないと言われていた郵政民営化を成し遂げた政治家の発言ですから重いです。米国の意向が・・・、とか、対米配慮とかいってやろうとしない政治家、役人の発言は、一度は疑ってみる必要があります。自分がやりたくない言い訳のためにアメリカを持ち出しているだけではないかという可能性を。

 

アメリカ軍の友達作戦のおかげで、日本人の救援活動にも弾みがつきました。なのに、なにもお礼を言わないほうが変だと思っています。しかも、アメリカに返ってから病に苦しんでいるという。彼らに感謝の気持ちを伝え、お見舞いをするのは常識人の感覚ならば、当然のことでしょう。それを見て見ぬふりをするのは、日本にとっても不名誉なことです(55ページ)

なかには「アメリカの虎の尾をふむぞ」という言い方をする人もいるようです。そういう恐れみたいなものは、まったくありません。アメリカにも原子力村があって、彼らからすれば、「小泉は面倒なことをやってくれるな」という思いがあることも察しがつきます。しかし、病気にあった兵士たちに感謝の気持ちを伝えるというのが一番の目的だから、日米関係に波風を立ててしまうとかは関係のない話です。そもそも波風の立てようがありません(51~52ページ) 

 

小泉氏は東日本大震災の時に被爆した米軍兵士を援助する活動をしています。米軍兵士は、米国政府からも日本政府からも何の援助も得られない状況にあるそうです。こういう活動ができる小泉氏は、並みの政治家ではないということがよく分かります。米国の意向も恐れないという点もふくめて、まさに有言実行の政治家です。しかし、なぜ小泉氏にそれができて、他の政治家にそういう人がいないのでしょうか?

 

私は若い頃から、「業界の支援は受けますが、代弁はしません」という姿勢をはっきり打ち出してきました。私を応援してくれるかたのなかには選挙区内の特定郵便局長さんがけっこういましたが、それでも、選挙となれば、私は政策議論として郵政民営化論を展開していました。そのうち、特定局長さんたちは私を応援しなくなってしまいました。「なんでも一生懸命やりますから」と言って、みんなから資金をかき集める、そういうやりかたが、嫌いでした。だから、金集めは苦労しました(97ページ)

 

なぜ小泉氏は異色の政治家なのか?この話を聞くと納得です。なかなか簡単にできるものではありませんし、最近の〇〇チルドレンと呼ばれる政治家にどうしても小物感をぬぐえないのは、ここでしょう。最近の政治家は、国民(選挙区の皆様)の声に耳をしっかり傾けてというようなことを、与野党とわず言いますが、小泉氏とはぜんぜん違います。小泉氏のお父さんも衆議院議員をしており、小泉氏はいわゆる世襲になりますが、しかし、お父さんの死後に衆議院選挙に初出馬したときは、落選しています。つまり、世襲で地盤が安泰だから勝手なことを言えたというような話ではないということです。

 

また、小泉氏の総理時代の功績のひとつとしては、2002年9月に北朝鮮を電撃訪問し、北朝鮮拉致被害者5名を連れて帰ったことがあります。これについて、こう述べています。

 

北朝鮮側は総理が会いに来ないなら、なにも話さない、相手にしないと言う。総理が行けば、拉致について明かす可能性がある。でも、金正日総書記に会えたとしても、本当のことを言うかどうかわかりません。なにしろ、国交がないのです。政府のなかでは「国交のない国に日本の総理大臣が行っていいのか」という意見もあれば、「結果がどうなるかわからないのに行くのはどうか」という意見もありました。それでも、私は北朝鮮に乗り込む決断をしました(91ページ)

 

北朝鮮電撃訪問を支持率アップのための行為だなんていう解説がよくマスコミにでますが、この事情を聴いてしまうと、とてもそうは思えません。支持率のためにとるリスクが大きすぎですから。

 

私が現地を訪問した結果、わずかならが5人の拉致被害者を日本に帰国させることができました。また、北朝鮮の最高権力者は拉致を認めて謝罪しました。しかし、その後は進展していません。まだまだ帰ってこられない人もたくさんいるようです。あのときに交わした日朝平壌宣言には、「国交正常化交渉を再開する」と明記しました。私は、帰国したらすぐにその準備に入ろうと思っていました。向こうも交渉が再開されれば、日本から多額の支援を得られると期待していたようです(中略)北朝鮮ブッシュ大統領に「悪の枢軸」と名指しされたことに危機感を強めていたので、私は首脳会談の席で「核の開発をしないで、戦争の準備をやめれば、経済的に豊かになれる」と金正日氏に直接決断を迫りました。あのまま日朝交渉が再開されたら、対話のなかで拉致問題も全面解決に持っていこうと考えていました。ところが、日本に返ったら、「5人の帰国では少ない」と厳しく批判されました(中略)当時のマスコミでは「拉致問題も解決しないのに国交正常化なんてとんでもない」という論調が強く、とても対話で解決を促せる状況ではなかった。そのうち、北朝鮮も対話の窓口を閉ざしてしまいました(94~95ページ)

 

いま、米朝交渉が始まるかもと言われていますが、いまの米国の立場は、当時の日本の立場に置き換えることができるでしょう。日本では、マスコミの論調のためその後の日朝交渉につなげることができませんでしたが、米朝はそうはならないかもしれません。いまこのタイミングで、こういった当時の事情が聞けるというのは、とても興味深いです。

それにしても、当時の日本のマスコミの罪は大きいです。やはり、国民(マスコミ)の声が常に正しいとは限りません。こういう話を聞くと、単に国民の声を聞きますみたいなことを言っている政治家は、ぜんぜん頼りにならないことがよく分かります。

小泉氏は2009年に政界を引退していますので、もう10年近くになりますが、いま読み返してみても、小泉氏はすごい政治家だったんだなあということが、あらためて分かります。

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銀行からローンするとき、何か金融商品を買うとき、決める前に一度は読むべき本

サブプライム問題とは何か アメリカ帝国の終焉(著者:春山昇華)、宝島社新書、2007年11月第1刷発行、2008年4月第8刷発行、

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サブプライム問題といえば、2008年のリーマンショックの原因となったアメリカの不動産ローンです。もう10年前の昔の話ですし、いまさらという感じもしないでもありませんが、歴史は繰り返すという言葉もあります。

 

サブプライムローンは当初の目的とは異なった方向に進んでいった。悪質な金融機関がこの仕組みを食い物ににしたのである。日本のサラ金同様、最終的に低所得者が月々の収入では到底返せないような支払い条件でローンを組ませていった。これは、日本でステップ返済といわれる返済方法と同じで、当初2年程度の返済条件を軽くして融資するもので、据え置き期間経過後は、返済額が急増する形が多い(12ページ)

 

アメリカの話をしているはずですが、「サラ金」、「ステップ返済」というように、日本のローン市場でもおなじみの言葉が出てきます。まさに歴史は繰り返されています。日本との関係では、こんな話もあります。

 

「問題化した多くの人は、生活費を捻出するために、値上がりした不動産の価値を担保に金を借りて、束の間の消費を楽しんだ。サブプライムローンの手数料や金利は、日本のサラ金と同様に劣悪である(中略)」(56ページ)

 

アメリカの住宅都市開発庁のサブプライムローンについてのレポートです。サブプライムローンサラ金と同じということです。サラ金なんてよく知っているなあと驚きます。サブプライムローンという言葉や住宅ローンと聞くとイメージしづらいですが、サラ金と同じと言われれば、いかにサブプライムローンがひどいかということがよくわかります。日本でもそう報道してくれればよかったのに。ちなみに、ここでも日本が出てきます。

 

NINJAローンとは、

・No Income(収入がなくてもOK!)

・No Job & Asset(働いていなくてもOK!無一文でもOKです!)

の頭文字をとって名付けられたものだ(77ページ)

 

こんなところで、忍者の名前を使わないで欲しいと思います。でも、この内容、サラ金と同じですね。これはわたしの憶測ですが、頭文字がNINJAになったいるところに、偶然とは思えない一致を感じます。つまり、一見、とても良いローンに見えるが、隠された欠陥があるという意味で、隠密に行動するNINJAとの共通点を感じます。

 

アメリカの住宅ローンの多くが、「債権」といて第三者に売却されていることだ(中略)金融機関はローン債権を売却して得た資金を、また別の住宅購入者に住宅ローンとして貸す。この方法を繰り返せば、少ない元手資金を何重にも使えるので、手数料収入はものすごい勢いえ増えていく。また、住宅ローン契約時の説明義務違反や詐欺などの違法行為が証明されても、売却された住宅ローンの譲受人(持ち主)は、「善意の第三者」として扱われる(中略)だから、略奪的貸付契約における違法行為を誰かが証明しても、サブプライムローンの借入者は、現実の住宅ローンの譲受人に対して、無効を訴えたり、支払条件の緩和を交渉するといったことができない(16ページ) 

 

金融技術の発達したアメリカらしい現象です。例えば、ステップ返済という条件をちゃんと説明しない住宅ローンを受けた人がいて、説明がなかったことを理由に支払条件の緩和を後ほど求めても、ローン債権が転売されていた場合、一切認められないということです。理屈はたしかにそのとおり。でも、なんか不合理を感じます。けっきょく、弱い人が損してしまう仕組みという点に。

 

サブプライム問題が世界中に深刻な影響をもたらしたのは、サブプライムローンを組み込んだ金融商品が世界中で販売され、かつ、それに高い格付けがつけられていたことです。当時、格付けの妥当性がだいぶ議論になりました。

 

そもそも格付けを依頼した証券会社と格付け機関が癒着していたのではないかという非難も多い(中略)だが、一番妥当と思えるのは、「格付けの分布」についての指摘である。つまり、トリプルAが全体の何%、ダブルAが何%・・・といった分布である。最高位の格付けの取得は困難であるにもかかわらず、住宅ローンを証券化した投資商品に対いしては、トリプルAが大盤振る舞いされていたのではないかというものだ(152~153ページ)

 

癒着うんぬんというのは、憶測、噂にすぎないと言えますが、分布は客観的なデータに基づくものですから、説得力があります。この分布をみると、癒着説も根拠のある話となります。そんな格付けをした格付け機関に責任があるのでは、というのが一般的意見ですが、どうも、格付け機関の主張は違います。

 

格付け機関のトリプルAというのは何の責任もないひとつの参考意見というのが法的な位置づけだ。したがって、仮に格付けがおかしいといわれても、責任はない。投資の責任はあくまでも投資家の自己責任であって、格付け機関の知るところではない」という。そこで思い出すことがある。00年のITバブル崩壊に続いて起こったエンロン社などの不正会計疑惑だ。当時、世界最強の会計事務所だったアーサー・アンダーセンが、会計粉飾や証拠隠蔽に関与していたことが発覚。そのために同社の信用は失墜し、02年に解散へと追い込まれた。会計事務所は、納税や投資家が投資をする際に必要な情報を、正確に提供できるようにするために、法的責任を負っている。だが、格付け企業であるS&Pムーディーズなどには、「法的責任はない」というのが証券界のコンセンサスになっている(154~155ページ)

 

最初に紹介した格付け機関の主張だけ読むと、そうかなあとい気がしてしまいます。投資は自己責任というルールがあります。でも、会計事務所の話と較べると、違和感を感じます。結局、格付け制度、格付け機関というのは、言い訳をするためにある制度ということでしょう。債券の発行企業や証券会社は格付け機関の格付けを信用したと言い、格付け機関は信じるかどうかは自分の責任ではないと言い、誰も責任をとらず、けっきょくは、損失を被った投資家の自己責任という言葉で片づけられてしまいます。法的にはまさにそのとおりで、つくづく、金融業界というのは頭がいいなあと感じます。もちろん、褒めているわけではありません。

 

麻生太郎財務相は30日の閣議後会見で、中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)が、米格付け大手、ムーディーズ・インベスターズ・サービスから最上位の格付け「Aaa(トリプルA)」を取得したことについて、「(南アフリカの)ボツワナより日本の国債が低いと出したのは確かムーディーズじゃなかったか。その程度のところ(が出した格付け)だと思っている。他に興味はない」と、一笑に付した。

 ムーディーズは2002年5月、景気悪化などを理由に日本国債の格付けをAa3からA2に2段階引き下げ、ボツワナより下の格付けにしたことがある。(産経新聞。2017年6月30日) 

 

その上でこの記事を読むと、麻生大臣はよく分かっているのだなあと感じます。いま、公文書改ざん問題で責任を追及されていますが、この発言を読むと、麻生大臣にはもっと財務大臣として活躍してほしいと思います。

 

アメリカのサブプライ問題は日本のサラ金と同じというのは、歴史は繰り返すという意味でもありますし、さらに言い換えると、金融機関というのは、日本でもアメリカでも同じで、いかに個人から金をとるかしか考えていないということですね。さいきん、仮想通貨の件で、KISSの法則を考えてしまいましたが、あらためて、個人は、「KISSの法則」を守らないといけないつくづく感じます。

 

mogumogupakupaku1111.hatenablog.com

 

 

上司、先輩、若手が会社で感じる疑問が、そうだったのかと解消されていく本

話せぬ若手と聞けない上司(著者:山本直人)、新潮新書、2005年9月発行、

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とても面白かった!読み終わった後、というか、読んでいる途中から、そう感じてました。

 

私が三年間で思ったことはただ一つ。このままじゃ、日本の会社も社会もあまりに「もったいない」という感覚だけなのである(中略)日本という国は人的資源、要するに人手だってやりくりしながら頑張って来たと思う(中略)そして、今だってビジネスの現場は忙しい。だったら若い人の力をどうやって引っ張り出せるか考えればいいと思う。若い人の考えや行動に接しながら、どんな話をして来たらどんな変化があったのか。そうした記憶をたどりつつ、背景を考えてみる。そして、世代間の対話のきっかけを探っていこうと思っている(12~14ページ)

 

著者の山本氏は1964年生まれ。年代でいうと、若い人の側ではなく、中高年の人の側になります。単なる若者否定しかしない人もこの年代に珍しくない中、このような考え方をしている人はすばらしいと思います。こういう発想の人が上司だったり先輩だったら、とても良い環境のような気がします。

 

プロジェクトで一緒になった若手社員などともいろいろ話すようになった。ちょっかいを出して飲みに行ったりすると、みんないろいろ考えたり悩んだりしていることもわかってくる。そんな時にしたアドバイスに感謝されたりすることも増えてきた(22ページ)

 

上司との飲みにケーションという言葉は完全に死語となっていますが、ここで述べているのは、まさに飲みにケーション。でも、とってもうまくいっているようで、誘われた若手社員の人も喜んでいる様子。ようはやり方、内容しだいということがよくわかりますし、山本氏の発想がまさに良い形で行動に現われています。

 

私の感じだと今の若者はどちらかというと「猫型」の感じである(中略)今の若者はプライドが高い(中略)そんな彼らは尊敬している人からの言葉には従っても形式的なほめ言葉には反応しない(中略)闇雲に怒っても効かないわけである。だから自然に「恥をかく」仕組みにした。プライドを「軽く傷つける」ことで自覚を高めさせるという発想である。猫型の彼らにはこれが一番こたえるはずだ。細かいルールやマナーを教えこむスタイルをやめて「知らないとカッコ悪い」と思わせるようにしていった(31~32ページ) 

 

とても鋭いです。よく「褒めて」使えみたいなことが言われますが、山本氏はその限界を見抜いています。また、単に山本氏が若者に媚びているわけでもないことも分かります。むしろ、とっても油断できない存在です。山本氏は述べていませんが、これは、行動科学の知見の応用でもあります。

 

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配属を発表すると、最近は希望の叶わない新人が「どうしてですか~」と言ってくるという(中略)どうしてもクリエイターになりたいやつが別の職種になると「お前みたいなタイプがあえてクリエイター以外になることがいいんだ」とか言っていたらしいが当然やめた。「ぜひぜひ、と言うほど才能はなかったんじゃないの」と言うことにした。要するにこれも「社会の掟」である。配属が希望と違うとそれを告げる方も確かにつらい。ただすべては実力だ。中途半端な慰めよりも次への力を与える。見切りは早いうちにつけさせる。それが社会の掟である。配属の正当性を説くのは会社の言い訳を重ねるだけだ(63~64ページ) 

 

これは予想外、というか、ぜんぜん思いつきません。でも、変に新人をなぐさめても、新人もそれが単なるなぐさめなのか本当のことを言っているのか、すぐに気付くような気がします。山本氏の言い方、あえて新人のプライドをちょっと傷つけているような気がして、先ほど紹介した考え方の具体例に見えます。

 

ある若手からは「資格を取りたいのですが・・・」と相談を受けた。その資格を取るには、会社で仕事をしつつ、休日を返上して学んでも最低2年はかかるらしい。「そのこと、職場の先輩に相談した?」「はい」「なんていわれた?」「お前、仕事から逃げているんじゃないか、って」ちょっと悔しそうだが、否定しきれないようでもあった。「まぁ、より難しいことに挑戦することは逃げじゃないと思うけど」「ありがとうございます」「でもさ、今の仕事、ホントに目一杯やってる?」そう問うと口ごもってしまう(中略)夢を持つこと自体が悪いのではない。だが、地に足のつかないままに夢を追った勢いでうっかり会社を辞めてしまうと漂流が始まることもあると思う。本当に覚悟のある人間なら辞めてもいいと思うし、実際に新たな道を選んだ者もいる。そういう者を引き止めたことはない。だが、何かのきっかけでフラリとした者の腕はしっかりつかんで話を聞かないと取り返しがつかないこともある(75~76ページ)

 

最初のやりとり、一見すると、単に先輩が頭ごなしに否定しているだけに見えます。でも、違いますね。本当にちゃんと考えているのか?ということを問いかけています。だったら、そう言えばいいのではとも思いますが、おそらく、そう聞けば、「ちゃんと考えている」という答えが反射的に返ってくるだけで、本人にとって何の気付きや考えるきっかけが得られないことになります。山本氏の人間観察力は相当です。

 

何と言うか「耳年増」な学生が増えてしまった気がするのだ。耳年増の問題点は、自分で未来像をきれいに描きすぎてしまうことにある(中略)そうすると現実との落差に耐えられない。「変化の荒波を常に先取りするリーダーシップ」のもと「不断の改革を続け一人ひとり創造性を高め続ける組織」のケーススタディをいくらやっても、仕事ができるわけがない。なぜなら、そういう成功例を学ぶというのは澄んだスープを飲んでいるようなものだからである。それができるまでの骨や野菜のガラを見せるレストランがないのと同じで、そのプロセスをベラベラしゃべるプロはいないし、いたとしても二流である(97~98ページ) 

 

耳年増な学生に対しては、「現実はそんなものではない」「やったことなにのに分かったようなことを言うな」というのが、上司・先輩の一般的反応です。こういう言い方をされると反発しか起こりませんが、山本氏のように言われると、思わず納得してしまいます。いま若者が上司・先輩に求めている能力は、表現力、あるいは無意識を言語化する力だとつくづく感じます。

 

ビジネス自体の目標というものはハッキリしている。ぶっちゃけて言えば「もっと売りたい、利益を出したい」ということだ。その目標は組織が与えてくれる。そして環境に恵まれてビジネスがうまくいって売れているうちは知恵をさほど使わなくても目標は達成できる。しかし一旦うまくいかなくなると「さて、どうすればいいのか」と知恵を使わなくてはならない。ああやっても売れない、こうやってもお客が来ないとなると、アタマがくたびれる。そうなるとまったく別の疑問が生まれてくる。「何でこんなことやってるんだろう?」そういう根本的なことを考えることはとても大切なのだけれど、タイミングが悪いと泥沼にはまりかねない。できるだけ早いうちにそうしたことを考えておくことは重要なのである。そして、あまり深みにはまる前に現実的な解決策を考える癖をつけたほうがいい。そのためにはまず「疑う習慣」が大切になると思うのだ(105~106ページ)

 

山本氏の言語化の能力は絶好調です。

人が何を考え、なぜそんな行動をとるのかを知ることのできる、人とは何かという疑問に答えてくれる本

ヒトの本性ーなぜ殺し、なぜ助け合うのか(著者:川合伸幸)、講談社現代新書、2015年11月第一刷発行、

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ヒトの行動をほかの動物とくらべてみると、ヒトが同種の仲間を殺すということが、とても不思議に思えます。意図的に自分の仲間、つまり「同じ種族を殺すのはヒトしかいない」からです。じつは、このような動物行動学では「当たり前」のことは、一般にはあまり知られていません。同種の仲間を殺すのは、鋭い牙も強い力も持たないヒトだけなのです(3ページ)

 

ぜんぜん知らなかった。ヒトも動物の一種ですから、他の動物と比べてみると、ヒトの本質に迫れるという考え方は理解です。著者の川合氏は特に書いていませんが、「人」ではなく「ヒト」と書くのは、動物行動学の独自の文法かもしれません。しかし、なぜヒトだけヒトを殺すのでしょうか?

 

動物行動学の始祖の一人であるコンラート・ローレンツは、動物は攻撃行動とともに、それを抑制するメカニズムを進化させたといいます。実際、動物は儀礼的な闘争で攻撃をおさめ、自分も相手も致命傷を受けないようにしています(中略)ローレンツによれば、ヒトも動物と同じような攻撃の衝動を持っているものの、厄なることかな、人間は武器を発達させたので、それに見合う抑止機構を進化させないまま戦いを拡大させたというのです(4~5ページ)

 

武器を持つという行動は、ヒトと他の動物とでちがう点です。それゆえ、武器の有無が、ヒトの行動を動物の行動と区別させるというのはよく分かります。

 

それより古い時代の化石で殺人の証拠は見つかっていません。600万年以上におよぶ人類の進化を考えれば、40年前というのは、ごく最近といえるでしょう。人類の歴史のほとんどは、仲間を殺さずに過ごしてきたのです(8ページ)

 

40万年前に何があったのかはわかりませんが、ヒトが元々ヒトを殺す本能があるわけではないようです。ここまでの流れですと考えられる仮設としては、40万年前にヒトが武器を手にしたということです。

 

比較認知科学の研究から、仲間の心の状態がわかるのは、ヒトだけだ、ということもわかってきました(8ページ)

 

ちょっとほっとする話しです。ヒトというのは複雑な動物です。

 

身体的な罰やきつい言葉などを使わなくても望ましくない行動を減らすことはできます。行動科学の技法を用いることで子どもの望ましくない行動は現象します(中略)何十年にもわたって行動科学の手法は、好ましくない行動を変容させるために用いられてきました。ヒトだけではなく、さまざまな動物の訓練方法にも応用されています。日本では行動科学の手法が有効であることがほとんど認識されていませんが、教育の場や家庭でさらに行動科学についての理解が深まることが期待されます(31ページ)

 

ヒトはどういう原理で動くのか?ということを行動科学は研究しています。それゆえ、子供をしつけ、教育するときに、行動科学の知見が活用できます。たとえば、体罰やいじめをなくす上で、行動科学は有効に思えます。刑法は殺人をしてはいけないと規定するのではなく、殺人をしたものは(最高で)死刑に処すと規定しています。これなどまさに行動科学の考えと同じです。

 

「人を殺すことはいけない」と教えられますが、その理由を合理的に説明できる人はほとんどいません。たとえば戦争で人を殺しても罪には問われません。過失によって人を殺してしまった場合、よほどのことがなければ書類送検ですまされます(中略)わたしたちは人を殺すことをよくないと考える理由は、「自分がそうされると嫌だから」ということにもとづいています。自分が嫌なことをされてもよいという社会にしておくと、自分がいつ殺されるかわかりません。このような動機にもとづいて「人を殺してはいけない」という合意を形成することで(つまり法により規制されることで)、お互い殺さないように抑制し合っているのです。その際に、「何となく嫌」という感覚は非常に重要なのです。この感覚がわたしたちを人間らしくふるまわせているとさえいえます。ところが犯罪を起こす人のなかにはその「何となく嫌」という感覚が欠如している人たちがいます(58~59ページ)

 

行動科学を用いると、なんとなく分かっていても明確に言語化できない概念をはっきりさせてくれます。殺人は「何となく嫌」なんていう軽いレベルの嫌悪感の話しではありませんが、しかし、この説明は納得です。

 

裕福な人が向社会的である(寄付をする)のは、妬まれないようにするための方略だと指摘しています(中略)彼らの慈善活動や寄付行為はもちろん善意にねざしたものですが、いっぽうで裕福な自分たちが嫉妬されることで「仲間はずれ」にされないようにしている、との見方もできます。「仲間はずれ」を避けようとする行動は、ほとんど意識されることがないので、おそらくこの慈善家たちも、自分では社会の批判をかわすための行動とは考えていないと予想されます(138~139ページ)

 

行動科学はすごいです。本人が意識していなくても、その無意識の中にある意識を具体的に示してくれます。この説も納得です。たしかに、批判をかわすためでなければ、なぜ寄付したことを世間に公表するのかという行動が理解できません。と同時に、日本が欧米ほど寄付が盛んではない(寄付したことが公表されない)理由もわかります。日本の場合、寄付したことを公表すると、売名行為などと批判されてしまい、むしろ逆効果になりかねないからでしょう。

行動科学にかかると、何も隠し事はできない気がします。行動科学をマスターした人には、ヒトの行動、心理はすべてお見通し、そんな人はいわば、人を超えた存在、神レベルでしょう。ただし、悪用禁止です(笑)