日々読書、時々一杯、折々投資

私の趣味をそのままタイトルにしました。 趣味のことでこれいいなあと思ったことを書いていきます。それが少しでもみなさまの参考になればさいわいです。

「エコ」という言葉についつい反応してまう方に読んで頂きたい本

ハイブリッドカーは本当にエコなのか?(著者:両角岳彦)、宝島社新書、2009年9月第1刷発行、

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「このエコカーが・・・」とハイブリッド車を前にしてコメントしたり・・・。

ハイブリッド車や電気自動車などのエコカー」と短絡してみたり・・・。

「水素で発電して水しか排出しない”究極の”クリーンエネルギー、燃料電池」と中学の理科程度の理解でものを言ったり書いたり・・・。

言うなれば「まくらことば」である。しかし、これらの枕詞を見たり聞いたりした瞬間、そのニュースや情報は、信じるに足らない、と判断すべきだ。そう断ずるに十分な理由がある(23~24ページ)

 

いずれもよく見かける表現ですし、わたし自身もそう思っていました。ここまで否定するとはちょっと驚きですし、著者の両角氏の自信がうかがえます。

 

まだ使える製品を手放して新しいものに替えれば、そこに製造と廃棄のプロセスが発生する。中古品として入手して使う人がいれば、そこでは今までと同じようにエネルギーを食う。「エコ替え」した個人だけはエネルギーの経費は減るかもしれないが、買い替えのために投じたコストを取り戻すにはどれくらい使い続ける必要があるだろうか。「そろそろ寿命かな・・・」と感じるようになったところで、次に買うのはできるだけ環境負荷の小さいものにしよう、とよく調べ、検討して選ぶ。それなら、日本人が受け継いできた「もったいない」精神の近代的な形になるのだし。「エコ替え」を声高にアピールするTVコマーシャルや広告を目にした時は、それを作ったクリエイター、それを作らせた企業、両方の知性と誠意を疑った方がいい(31ページ)

 

はい、こんごは疑うようにします(笑)両角氏の主張に、完全に同意です。

 

欧州で比較的ちゃんとした「ロードテスト」を実施している専門誌(二誌ほどしかない。ちなみに日本には、ない。残念ながら・・・)が、市街地(流れの速度、加減速とも日本の市街地よりペースはかなり速い)、郊外(走るペースは日本より格段に速く、停止・発進の頻度も低い)、高速道路(これも日本よりペースは速いし、一気に長距離を走る)と状況を分けてかなりの距離を走って測った「実用燃費」の結果を見ると、日本車の燃費は「平均値か、やや悪い」あたりに散らばっている。その中で、日本製ハイブリッド車は、移動空間として同じくらいの質、能力を持つ欧州車と比較すると、市街地はたしかに燃費が良く、郊外では欧州の最新ディーゼル・エンジン車と同等かやや及ばず。高速道路では、ディーゼル車にはかなわない、という傾向が続いている(中略)日米の公的試験結果の数値こそ良いものの、それが「実力」だと考えない方が良い(51ページ)

 

そういえば、いぜん、日本でエコカー減税をしたとき、欧州から、欧州車が対象外なのはおかしい、というクレームが来たことがありました。当時は、欧州が変なこと言っているなあと私は思いましたが、こういう事情があるのなら、欧州のクレームも分からないでもありません。

 

クルマに代表される現代工業製品にとって、その「環境影響」の多寡は「ライフサイクル」で評価されなければならない。つまり、「作り」「使い」「廃棄・再生する」プロセス全体を見渡して、素材からエネルギーまで、どこでどんな使い方をしているか、無駄は出ていないか、後に残る影響はどのくらいか・・・などを検討していかなくてはならない(中略)素材という面から見れば、当然ながらハイブリッド動力化は、電池=モーター方式の純電気自動車も含めて、既存の「通常動力」のクルマに比べて、希少だったり、取り扱いが難しかったり、回収・再生がまだ難しいものを多量に使うことになる(116ページ)

 

環境とかエコという話になると、ついつい燃費しか見ませんが、たしかにほんとうは、リサイクルまで含めた話しになります。でも、たしか自動車リサイクル法ってあったようなと思います。

 

日本も、欧州を追って「工業製品のリサイクル」を促進するための仕掛けを作った。とはいえ、現状で日本に住む我々のまわりで機能しているのは「自動車をいかにリサイクルし、再資源化するか」という枠組みではない。俗に「自動車リサイクル法」と呼ばれている「使用済自動車の再資源化等に関する法律」は「使用済みとなった自動車を製造者の責任で引き取って、そのまま放棄されないようにすること」に始まり、「(エアコンの冷媒である)フロンを大気中に放出せずに回収し」「(火薬など危険物を使っている)エアバックを危険がない状態に処置し」、最後に「ゴミ処分場に廃棄物として搬入される「シュレッダーダスト」(様々な部品等を取り外し、鋼板や樹脂を分離した後に残ったものの塊)の量、正確には重さを、全体として目標レベル以下に収めること」、というだけのものである(125~126ページ)

 

使用済自動車の再資源化等に関する法律」(自動車リサイクル法)はゴミ減らし法であって、リサイクル法ではないということですね。つまり、再資源化されることまでは考えていない法律ということのようです。法律名が不当表示でしょう。この本は2009年の本ですが、2018年の現在までに法律改正が行われていれば良いのですが。

 

日本で新しい概念を社会システムの中に組み込み、機能させようとした時、たとえば「リサイクル」であったり「エコロジー」(環境影響の最小化?)であったり、あるいはもっと現実的に「クルマを使う中でのCO2削減」であったり、そうした社会機能や行動を進めようとすると、とかく「善意とかけ声」に偏りがちだ。「急発進、急加速はやめましょう。アクセルは”ふんわり”踏みましょう」。それで実用燃費がどのくらい良くなるのだろうか?運転のディテールを記録し、分析すれば、実用燃費の変動がどういう状況で、どういう操作の違いで現われるか、はすぐに見えてくる。それをどう論理的に整理するか。鍵はそこにある(中略)急加速をするつもりはなくても、ふんわりアクセルを踏んだつもりでも、ある走行状況の中では必要のないアクセルペダルを踏み込み、速度が上がりすぎたのに何となく気づいて、右足を大きく戻し、速度が落ちるのにまかせる。まだ、踏み込む。こういう運転では過剰に燃料を消費する。つまり実用燃費は悪くなる方にばらつく(179ページ) 

 

これもすごい共感できます。「善意とかけ声」自体は良いと思いますが、はたしてそれを実行することが本当に効果があるのか、というところは曖昧なケースが多いです。アプローチがぜんぜん科学的でない、感覚的・情緒的ですね。しかも、それが本格的な対策をとるまでのつなぎであるならばまだマシだとは思いますが、「善意とかけ声」だけで終わりというパターンが普通。この話、車だけの話しではありません。たとえば、電車の乗車マナー向上の呼びかけなんかも同じことを感じます。日本社会全体の問題と思います。