いちど失敗するとばん回が難しい年代のサラリーマンは人生後半をどう生きるべきか。40代、50代のサラリーマンにおすすめの本です
会社人生、五十路の壁 サラリーマンの分岐点(著者:江上剛)、PHP新書、2018年7月第一版第一刷、
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江上氏といえば、元々は第一勧業銀行(現在のみずほ銀行)の行員で、そのときに「非情銀行」で作家デビューした方です。いまでこそ人気作家ですが、元々はサラリーマンだった方です。
この本は、自らのサラリーマン体験も踏まえ、おそらく40代、50代のサラリーマンに江上氏が送る、こんごどのように人生を過ごすべきかについてのメッセージです。江上氏は、49歳で銀行を退職し執筆生活に入っています。まさに五十路の壁を意識して行動されています。
〇五十路の壁はみんなある。優秀な人こそぶつかる壁
「壁」という言葉、ふつうはマイナスイメージで使う言葉です。「壁にぶつかる」なんて言い方をします。では、「五十路の壁って何の壁なのか?」というのが大事なのですが、この本においては、サラリーマン人生における壁を指します。たとえば、「ずーっと働いてきたけど、会社での出世も先が見えてきた」、「出世どころか後輩が自分の上司になった」といったような壁です。会社ではよくある話です。
こういう話を聞くと、「自分には関係ない」と思われる人もいるでしょう。
「自分は30代、40代と仕事をがんばってきたし、実際に成果も出していて、同期の中でも順調に出世してきた。そんな壁にぶつかるのは、これまで大して実績をあげてない奴の話だろう」と思っている人です。
でも、江上氏によるとそれは違います。本人の自己評価が過大評価だからかというとそうではないんです。自己評価が適切だったとしてもです。なぜならば、会社は優秀な人ほど出世させないからです。正確には、ある程度は出世させますが限界があります。
「これだから、人事はダメだ、上層部はダメだ」と言いたくなるところですが、江上氏によると、これにはちゃんとした理由があります。その理由自体、なかなか興味深いですが、いずれにしても現実は現実です。そうすると、若い頃、優秀ではない人はとうぜんとして、優秀であったとしても、五十路の壁にぶつかる備えをしておく必要があるでしょう。つまりこの本は、すべてのサラリーマンにとって必読です。
〇みんな、「のに」病に気をつけよう
「のに」病。わたしは、はじめて聞きました。それもそのはず。この言葉は、江上氏の母が江上氏に言った言葉だからです。
〇〇したのに、と人は「のに、のに」と言いたくなる。努力したのに報われない、尽くしたのに分かってくれないなどだ。この「のに病」にかかると苦しくて仕方がないというのだ。きっと相田みつおさんか誰かの言葉なんだろうが、私はいい言葉だと思う。人生、「のに」が報われることはない
これが「のに」病の定義です。おそらく誰もがいちどはかかったことのある病気でしょう。もちろん私もあります。「のに」病は、具体的には、愚痴という形ででる病気とも言えます。
たしかに、愚痴をいくら言ったところでそれが報われることはないし、なにか自分に利益を生み出すことはないし、下手すると、愚痴を聞かされた周りの人が自分から離れてしまうかもしれない。まったくいいことがありません。「のに」病にかかると、本人はそうとう苦しいです。でもよくかかってしまうから、なんともやっかいです。この本では「のに」病にかかった人の実例を紹介しています。
この人も東大出身だったが、出向先でまったく腰が定まらなかった。彼はエリート意識が強烈で、銀行員時代、企業との懇親会などに行くとアメリカ留学と東大時代の先輩、同輩、後輩などが大蔵省(現・財務省)や日銀でいかに重要な地位に就いているかを必ず話題にした
かなり重症です(笑)。
この例を読んで、自分は東大出身でないから関係ないと思った人、キケンです。東大出身かどうか関係なくよくあります。職場で後輩を捕まえてはやたら過去の成功体験を述べたり説教をしてくる人、なんかはその典型ですし、お店で店員とかにクレームをつける暴走老人なんても同じでしょう。
共通点は、自分は周りから認められて当然なのに実際はそうなっていない、いわば自己承認の欲求が満たされないので、自分よりも弱い立場の人にそれを無理やり求めるというところです。東大出身かどうか関係なく、誰もが「のに」病にかかってもおかしくありません。
〇では、どうすればよいのか?
誰もが五十路の壁にぶつかり、誰もが「のに」病になるかもしれない。そうならないためにはどうすればよいのか?
江上氏は、自らの壮絶な苦労、体験も踏まえ、具体的な方法をこの本で紹介してくれています。とうぜん方法によっては自分には無理というのもあるでしょう。たとえば、五十路の壁を目前にして作家に転職するなんていうのは、ふつうできないでしょう。江上氏の場合は、学生の頃に作家の井伏鱒二先生に師事しており、その経験が役立ったのではないかと思われます。
この本が述べる内容から、そういった特殊な事情を捨象して、すべての人に共通すると思われる部分を私なりに抽出すると、こんな感じになりました。
・ いまやるべきことを全力で取り組む
・ その結果がどんなものであれ気にしない
・ こんご自分がどんな利益を得られるのかだけを考える
あたりまえ過ぎる内容になってしました(笑)。でも、そうだからといって、この本の価値が下がるということはまったくありません。
当たり前のことは誰でも知っている。同時に、当たり前のことをやったからといって常に結果が出るとは限らない、ということも誰もが知っている。だからこそ、当たり前のことをしないあるいはできない人もいる。
しかし江上氏は、とてつもない苦労をする中、当たり前のことを当たり前にやり、そしてちゃんと結果を出すという、誰でもできることではないことを成し遂げ、それに基づきこの本を書いています。そこが大きく違うところです。
言い換えれば、その発言に説得力があるということです。修羅場をくぐり抜けた人の言葉には重みがあります。
医者なくしては健康に生きることはできません。そんな大事な医者と上手に付き合い幸せな人生を送りたい人におすすめする本
患者は知らない 医者の真実(著者:野田一成)、ディスカヴァー携書、2016年4月第1刷、
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著者の野田氏は現役の医者です。医者の立場から患者に知って欲しいと思う「医者の真実」を書いたのがこの本です。こう聞いても特別の反応はふつうないと思います。
しかし野田氏はふつうの医者とはちょっと違うかわった経歴の持ち主です。もともとはNHKの記者として医療問題の取材などをしており、どちらかと言えば、医者に対して批判的な立場にあった人です。そんな野田氏ですが、取材を通じて自らが理想とする医療をやりたいと思うようになり、NHKを辞めて医学部に入学し医者になっています。
医者の立場は当然分かり、それだけでなく、医者以外の人から医者はどんな風に見えるのかということも分かるという、野田氏のふつうの医者にはない目線が、この本の特徴です。
〇こんご医者にクレームを言うのはやめようと本気で思う
大病院に受診しにいくと、「予約をしても予約した時間よりもかなり遅れてから診察が始まる」、「やっと診察してくれたとおもったら5分でおしまい」という経験をすることがあると、よく言われます。患者としては勘弁して欲しい、医者に文句の一つでも言いたくなります。
でも、この本を読むと、なぜそんなことが起こってしまうのか、そして、それは医者や看護師が悪いのではなくどうしてもそうなってしまうものである、ということがよく分かります。
また、病院で働く医師、看護師、事務職員といったスタッフの言動に腹が立った経験のある人は、一定程度いると思います。あるいは、医者に純粋に善意で「つけ届け」を渡そうとしたら頑なに拒絶されて気分を害したという経験のある人もいると思います。
野田氏は、なぜそういうことが起こるのかとてもわかりやすく事情を説明してくれています。この本を読んで事情を聞いてしまうと、病院でクレームを言うのは明日からやめようと本気で思います。それに、そういうことをしないことで病院のスタッフがより気持ちよく働けるのであれば、それは患者にも利益になることだと私は思います。
〇後医は名医
聞きなれない言葉ですが、同じ患者、同じ病気を最初に診察した医者よりもその後に診察した医者の方が、その患者から高く評価されるという意味だそうです。これは、患者が「セカンドオピニオン」を求めた場合に当てはまる言葉です。
この「セカンドオピニオン」という言葉、「最初に診察してもらった医者の診断結果に不満、疑問があるので、他の医者に診察してもらう」という意味だと多くの人は理解しているのではないでしょうか。私もそう思っていましたが、野田氏によるとそいうものではないそうで、この「セカンドオピニオン」という言葉の誤解が、「後医は名医」という状態をもたらすようです。
複数の医者が同じ患者の同じ病気を診察した場合に、もちろん最初に医者が誤診したというのであれば論外ですが、この話しはもちろんそういう話しではなく、治療としてはどちらの医者も間違っていない、場合によっては、同じ治療しかしていないのに、患者は後に診察してもらった医者を高く評価してしまうこともあるようです。
なんともマヌケな話しです。なぜそんなマヌケな話しになってしまうのか、野田氏はそのメカニズムをとても分かりやすく説明してくれています。
〇では、どうすれば適切な医療を患者は受けられるのか?
「後医は名医」という言葉は医者の世界で言われる言葉だそうで、わたしには、「セカンドオピニオン」という風潮に対する医師の不満が表れている言葉と聞こえました。
一方で患者からすると、「では患者は医者の言うことをなんでもはいはい聞けと言うのか?」という疑問が生じます。医者の説明や回答を聞いた結果、患者が疑問を持った場合はやはり「セカンドオピニオン」だろうという気もします。
しかし、何を根拠に疑問を持ったのかが重要だとわたしは思います。ひょっとしたら、自分がネットで調べて得た情報と違うということではないでしょうか?そうだとすると、これは、誰も正しさを保証していないネットの情報を、実際に診察した上で医者として説明してくれている内容よりも重視するということになるわけで、どう考えてもおかしな話です。
こういう患者の行動の背景には、医者と患者を対立関係でとらえる受け止めがあるとわたしは思います。医療事故の問題が大きく報道され、また、医療情報がネット、雑誌などで溢れる中、対立関係をより激しくさせる状況だけはそろっているのが現状ですが、双方の気持を理解する野田氏の本は、この対立関係を緩和、解消させてくれる本だと思います。
対立関係において患者が適切な医療を受けられることはまずないでしょう。医者と上手に付き合い、そして適切な治療を受ける、そのためにはぜひとも一度は読んでみるべき本だと思います。
京都ずきな人も京都ぎらいな人もぜひ読んで頂きたい本。より京都がすきになり、より京都がきらいになります。
京都ぎらい(著者:井上章一)、朝日新書、2015年9月第1刷発行、2016年2月第9刷発行、
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発売当時、とても話題になった本です。京都についての本といえば、京都の歴史、伝統、さらには、それらに裏打ちされた、建築、工芸、料理などを至上なものとして紹介するスタンスが一般的ですが、この本はそれとは全く逆のスタンスの本です。
〇 京都市と京都は別物
多くの人にとって、「京都」という言葉は「京都市」という言葉を短く省略しただけ、つまり、地理的に同じエリアを指すと考えます。しかし、京都人にとっては、それは全く違うことであり、かつ、その区別は非常に重要です。
著者の井上氏は花園、嵯峨で生まれ育ち、自らは嵯峨の子として育ったという強い自意識があると述べています。花園、嵯峨とは、京都市右京区に属するエリアつまり京都市の一部ですが、京都人に言わせると、そこは京都ではないということになります。
それでは、「京都とはどこなのか?」という話になるのですが、この質問に対する答えは「洛中洛外図」という屏風にあります。京都の町のすがたや、そこで生活する人々の模様が、高いところから眺めている目線で描かれている絵です。これ、いまの京都市と呼ばれるエリアを描いた絵なのに、なぜ「洛外」という言葉がタイトルに入っているのでしょうか?京都国立博物館の「洛中洛外図」の説明文では、こう説明されています。
京都は中国の唐(とう)の都の長安(ちょうあん)をモデルとして築かれたのですが、いつのころからか、西半分の右京(うきょう)を長安城(ちょうあんじょう)、東半分の左京(さきょう)を洛陽(らくよう:同じく中国の古都)城と呼ぶようになります。けれども右京は湿地帯が多かったために早くにさびれてしまい、長安城という名は有名無実(ゆうめいむじつ)となりました。それに対して左京は発展していったため、「洛陽」が京都 の代名詞となってゆき、それを略して「洛」が京都を意味するようになります。
都の中心線の頂上にあるべき内裏(だいり)も、14世紀には大きく東へ移動して、現代の京都御所の位置になってしまいます。
洛中洛外とは、京都の町なかとその郊外といった意味のことばです。
ようは平安京が置かれていたエリア、御所とその周辺が「京都」であり、それ以外は「郊外」であって京都ではないということです。
井上氏の本では、このような意識を吐露したさまざまな京都人の言動が紹介されています。井上氏はこのような言動を「京都人の中華思想」と呼んでいます。京都人以外の人が読めば、おそらく、京都人、京都に対するイメージがいかほどかは変わることは間違いないでしょう。
〇 日本国内なのに「外資系」
先ほどの話しは、京都市の中の話しです。しかし、京都市の中でも洛中洛外の「厳格な」区別があるとすると、京都市、京都府ですらない、つまり、京都府以外の都道府県は、京都人にはどう見えるのでしょうか?
井上氏によると、京都に東京や大阪の資本のお店ができると、京都人は「外資系」と呼ぶそうです。もちろん陰でしか言わないようですが。つまり、同じ日本のはずが、意識の中では外国扱いということです。このような種類の話しは他にもあり、「近江」とは琵琶湖を、「遠江」とは浜名湖を指すと言われています。京都の中華思想が見事に表現されています。
ところで、「平成29年京都観光調査結果」(京都市産業観光局)によると、京都を訪れた観光客数は5362万人(うち外国人は743万人)だそうです。京都人は、「外国」からやってくる大勢の観光客(本当の外国人も含まれますが)をどのような思いでを持ちながら「おもてなし」しているのでしょうか?もちろん、商売は商売ですから愛想よく接すると思いますが、その深層心理をのぞいてみたいという、意地悪い興味がわたしにはあります(笑)。そして、この本は、そんな深層心理を見事に描いてくれています。
一方、このような話を聞いても、なお京都に対するあこがれを持たれる方はいると思いますし、考え方は人それぞれですので、正しい間違いという話しではありません。
この本によると、京都の多くの由緒ある神社仏閣のほとんどは、江戸時代になって徳川幕府によりたてなおされた建物だそうです(井上氏は建築史・意匠論を専門とする学者です)。別に千年の都だからといっても、いまの京都があるのは京都自身の力ではなく「外資系」の江戸(東京)の力だということです。そうすると、京都以外の他の都道府県の人が京都をあこがれるというのも、ちょっと不思議な構図です。
〇 京都人の面目躍如
ここまでは京都人に対して否定的なトーンでした。しかし、さすが京都人と思わずわたしが思ってしまったこともあります。一言でいうと、歴史認識です。
歴史認識というと、戦争責任、靖国参拝の是非、植民地支配への反省といった話しが一般的ですが、京都人の歴史認識はそんな100年弱の話しではありません。
ときどき言われることですが、京都人が「このあいだの戦争」と言うとき、それは第二次世界大戦ではなく応仁の乱のことを指しているという話しがあります。井上氏は、いまの政治での歴史についての議論は、せいぜい明治以降の話ししかしていない点に失望を示しています。
たしかに、日本の長い歴史の流れの中でいまの人々の意識、社会があるのに、それを明治という150年の期間だけを切り取って歴史の議論をすることに違和感を感じる井上氏の主張は理解できますし、京都人でなければ気付かない議論であると感心してしまいまいした(これは文字通りの意味です)。
京都人はまだ日本の首都は京都であると思っているそうです。なぜそう言えるのかというと、平安京が置かれて以降、首都を移すという遷都の勅が発せられていないからだそうです。この話を聞くと、冗談かなにかと思ってしまいそうですが、意外とそうでもあいようです。参議院法制局の法制執務コラム(「立法と調査」NO.288・2009年1月)には、首都は東京であるとする法律の規定は存在せず、また明治維新のときも首都を東京にするという声明は出されていないと述べられています。
「天皇がいるところが首都であるから、いまは東京が首都である」なんて単純に考えていると、大恥かきそうです。南北朝時代は天皇が2人並立していましたから、京都人の歴史認識からすれば、当然の議論でしょう。
京都人やりますね。
経営も仕事もいがいと世の中は単純にできている、仕事で何か悩んでいる人すべてに読んで頂きたい本
申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。 コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする(著者:カレン・フェラン)、だいわ文庫、2018年6月第一刷発行、
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本のタイトルにしてはずいぶん長い。そして、とても刺激的です。タイトルから推測されるとおり、著者のフェラン氏は、マサチューセッツ工科大学卒業後、経営コンサルタントとして30年、活動しています。つまり、この本は、コンサルタントとしてのフェラン氏の懺悔の本ということになります。
この本は、そういう読み物として、つまり、コンサルタントを否定する本として読むことは可能ですし、それは、フェラン氏がこの本を書いた意図と異なることはないと思います。でもこの本は、そういう本としてだけ読むのはもったいない。コンサルタント批判は大事ですが、それだけでは問題は解決しません。コンサルタントの言うことが当てにならないなら結局どうすれば良いのか、という点が一番大事です。この本は、30年間のコンサルタントしての経験を通じた、フェラン氏なりの答えです。
〇経営は数字ではない
いままで曖昧だったことに、数字を入れることで、一気に何か分かったような気になる経験は多くの人にあると思います。たとえば、営業の場合に、さいきん経費がかかりすぎるということで、単にあまり経費をかけないようにと指示するのと、何パーセント削減するようにと指示するのとどちらがいいかという比較の話しです。このやり方のオチは、本を読んでいただくとして、フェラン氏は、数字で管理することに意味はないと主張します。
わたしも自分の仕事でついつい数字で計測して管理するということをやってしまうので、このフェラン氏の主張を読んだとき、ドキッとしてしまいましたが、ふと思い出したことがあります。
いぜん、「99.996%はスルー 進化と脳の情報学」(竹内薫・丸山篤史)という本を読んだことがあります。この本によると、人間は、流通する情報量のうちわずか0.004%しか消費していないそうです。そして、この0.004%の情報をに基づき考え出しが数字により管理しようとしているのが、数字で経営を管理することであり、うまくいかないのはとうぜんだなあと思います。
mogumogupakupaku1111.hatenablog.com
また、こんな本を読んだことも思い出しました。
mogumogupakupaku1111.hatenablog.com
〇じつは経営はとてもシンプル
ではどうすれば上手に経営できるのか、という話しです。フェラン氏は、こういっています。
この問題を説明するのにうってつけなのは、流行のダイエットやエクササイズだ。毎年、ドクターやフィットネスの専門家が登場して、痩せるための画期的な方法を紹介する。奇跡にダイエットフードや厳格なダイエットプログラム、新しいエクササイズなど、方法はさまざまだ
ダイエットにより体重を落とすには、摂取するカロリー量を減らし、消費するカロリー量を増やし、差し引きでマイナスにするしかありません。つまり、食事の量をコントロールし、運動・トレーニングによりカロリーを消費するしかないということです。経営もこれと同じということです。原理原則はシンプルでひとつしかないということです。
それにしても面白いです。ダイエットと経営、まったく共通するところのない2つのことが、こうして、共通の軸で説明できてしまうところが。世の中の原理原則はシンプルで共通しているということを示唆しているかもしれません。
では、「そのシンプルな経営の原理原則は何か」というところが最重要ですが、具体的な内容は本を読んでいただくとし、私なりにまとめると、「風通しのよい人間関係」の一言に尽きます。これがあれば、少なくともそのチームは最高のパフォーマンスを発揮できます。もちろん、それですべての問題が解決できるかというとそうではないと思いますが、それは、チームの能力を問題が超えているということなので、チームのメンバーの入れ替えが必要です。
それにしても、経営の原理原則がこんなシンプルかつ退屈な内容では、誰もコンサルタントにお金を払わないのは間違いありません(笑)
〇じつは昔の日本式経営は優れていた
「風通しのよい人間関係」というと、じつは、従業員を大事にすることを特徴とする昔の日本式経営そのものです。
いぜん、少なくとも平成の始めまで、西暦でいうと、だいたい2000年までの日本の経営は、そんな感じでした。フェラン氏が意図しているかどうかは別として、じつは、昔の日本式経営は経営の方法として極めて優れていたということを、フェラン氏の主張は意味しています。しかし、いまの日本の企業はそうではありません。これも、(おそらく)アメリカ発のコンサルタントの理論を日本企業が受け入れてしまったせいで、日本企業も、コンサルタントにぐちゃぐちゃにされた組織の一つと言えます。
フェラン氏は「風通しのよい人間関係」を作るために具体的にすべきことをこの本で紹介していますが、その内容はけっこう日本的です。フェラン氏はこう言っています。
関係者を一堂に集め、なぜ現行のやり方で業務を行っているのか、それによって関係者にどのような影響が出ているのかを話し合い、他部門の人が抱えている問題をみんなで理解するという方法には、計り知れない価値があった。セッションが終わる頃には、みんな以前よりも視野が広がり、人間的な思いやりをもってプロセス全体を見つめられるようになっていた
みんなで会議して話し合うことが重要だとフェラン氏は言っています。日本式経営っぽいなあという感じです。おそらく今であれば、「会議は時間の無駄。要件はメールで連絡すればそれで良い」といった感じでしょう。
じつは、この本の解説を成毛眞氏(元日本マイクロソフト代表取締役社長)が書いているのですが、そこで成毛氏は、この本の主張はいぜんの日本式経営そのものだと述べています。わたしも同じようなことをこのブログで書いていますが、決して成毛氏の解説をぱくったわけではありません。ぐうぜん一致していました(マジです)。解説を読んで本当にびっくりしていまいました。
この本は経営についての本です。読者としては、社長、役員といった会社幹部がまっさきに想定されますが、わたしはそういう人に限られることはないと思います。たとえば、課長のような中間管理職、管理職でないとしても数名のメンバーを抱えるチームのリーダー、あるいはリーダー以外のメンバーなどなど、自分ひとりではなく同部署の他の人と一緒に、あるいは、別部署の協力を得ながら仕事をしている人もじゅうぶん読者に含まれると思います。ほとんどすべてのビジネスパーソンが含まれるでしょう。いまの仕事の状況に何か違和感を感じている人、この本から何らかの気づきがきっと得られると思います。
勝間氏の代表作。人間関係が気になり言うべきことが言えないことを悩む人すべてに読んでいただきたい本
断る力(著者:勝間和代)、文春新書、2009年2月第1刷発行、
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多数の本を執筆している勝間氏ですが、勝間氏の代表作だと思います。右手を挙げて断っているポーズをとっている勝間氏の写真が載っていますが、とても印象的です。
〇「断る力」を身に付けるのは簡単でないが誰でもできる
私の周りで、「自分はイヤなことは遠慮なくイヤと言える」と宣言する人がいます。そういう考え方自体はぜんぜん変ではないし、むしろ、どんどん広められるべき考え方でしょう。
でも、わたしはそういう人を見るといつも思ってしまうのです。「本当にそれを実行できているのだろうか?」と。別に非難している訳ではありません。でも、断るというのは意外と難しいものです。だから、「断る力」を身に着けることも、そう簡単ではないと思います。
でも、この本を読んで、「断る力」を身に付けることは簡単ではないが、誰でもできることであると思いました。
この本では、勝間氏がマッキンゼーで働いたときのことが紹介されています。その頃の勝間氏は、上司やクライアントの要求に対してまったく断る力を持たない、極めて忠実な働きぶりで、そのために私生活を犠牲にし、あるいは、健康を害したりまでしています。自殺願望もあったと言っています。ある意味、「社畜」と言えるぐらい働きぶりでしょう。勝間氏にそんな時代があったとはとても想像できません。でも、勝間氏は、さまざまなきっかけからそんな態度を改め、「断る力」を身に付けました。
だから私は思うのです。「社畜」だった勝間氏でも「断る力」を身に付けられるのなら、誰でもできると。
〇断り方にも方法がある
断るという行為をなぜためらってしまうのか?それは、断られた人が気分を害し、その人とのこんごの関係にひびが入るのを避けたいからでしょう。その裏返しで、断ることを躊躇なくできる人というのは、断れた人がどう感じるか、その人との関係がどうなるかを全く気にしない人であるというイメージがあります。
この本の表紙の写真のインパクトもあり、勝間氏もそういうことを気にしない人なのかなあとわたしは思っていたのですが、この本を読んでみるとそうでもありません。断り方にもちゃんと方法があるのです。
方法については勝間氏がこの本の中で具体的に説明してくれています。説明の仕方、表現は、なんていうのでしょうか、ある意味、とてもドライな感じで、理屈っぽいのですが、実際に入っていることは、わたしはとてもウエットで、断られる人の感情や情緒にとても配慮しているものだと思います。
断ることに心理的な障害を強く感じる人ほど、ぜひ勝間氏の提案する断り方を読む必要があります。じつは断ることは、相手との関係を思っているほど悪くするものではないのだということが分かります。
〇断らないと生きていけない
1989年に石原慎太郎氏と盛田昭夫氏が共同で「NOと言える日本」という本を書きました。これは、アメリカ政府の外圧を断れない日本政府のことを批判した本で、人ではなく国家の話しですが、当時の日本人には断ることを苦手とするメンタリティがあったのは間違いありません。
それから約30年がたちましたが、いまの日本人は断ることへの苦手意識を克服できたでしょうか?
世の中全体の価値判断としては、昔と違い、断ることをマイナス評価するようなものはなくなり、むしろ、はっきり自己主張する人が高く評価されるようになってきているのは間違いありません。でも一方で、ブラック企業、ブラックバイトで、本当はそんな職場からは逃げ出す(断る)必要があるのに、それができず、健康を崩し、最悪は命を失うような悲劇的なことが起こっています。総論としては断ることが良しとされているものの、実際の個人の自分の行動というレベルになると、それがまだ現実化していないということでしょう。
ここまでひどいケースは極端としても、昔と違い、会社は社員を守ってくれません。定年まで職を保証してくれることはありません。自分の身は自分で守るしかありません。
たしかに、断ることは勇気が要ります。「断れないのはしょうがない」という意見もありますが、これからは、「断らないと生きていけない」のです。この本は2009年に書かれていますが、2018年のいまにおいても十分、読む価値のある本です。
文系の学部を卒業した人、怒ってはいけません。むしろ、そんな人の為になる本です。
「文系バカ」が、日本をダメにする なれど“数学バカ”が国難を救うか(著者:高橋洋一)、WAC BUNKO、2018年5月初版発行、同年6月第2刷、
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著者の高橋氏は元大蔵省(現在の財務省)のキャリア官僚。大蔵省のキャリア官僚といえば、東大法学部卒という文系出身者が多数を占める組織ですが、高橋氏は、東大理学部数学科卒という異色の経歴です。
ちなみにわたしは、高校では文系コースを選択し、大学は経済学部なので、わたしも「文系バカ」のひとりです。
〇 高橋氏の言うことは良く分かる。高橋氏のほかの本も読んでみたくなる
この本を読んでいちばん強く感じるのは、高橋氏はほんとうに頭がいいんだなあということです。取り上げている内容は経済の話が多いですが、そのほか、教育、AIなど他の分野にも及んでいて、かなり難しいことを取り上げているところもありますが、すっと理解できてしまう、難しいことを難しいと感じないまま理解させてくれます。これは驚きです。たとえば、こんなことを言っています。
「日銀の仕事はAI化できますか」と聞かれることがあるが、もちろんできる。総裁以下、委員はロボットでもいいかもしれない(笑)。AI化できないと思っている人は、日銀の仕事の中身をわかっていない人だ。仕事内容がわからなければ、プログラム化はできない
高橋氏はおそらく、本気で日銀の仕事をAI化すべきと言っているわけではないと思います。
AI化するかどうかの話しは置いておいて、この発言のすごいところは、高橋氏が、日銀の仕事をプログラム化できるぐらいシンプルに理解しているということです。そうでなければ、この発言はできません。じっさい、この記述に続いて、日銀の仕事は何かということを極めて簡単、簡潔に定義しています。
この本では高橋氏が書いているほかの本も紹介されています。高橋氏は経済政策の専門家かと思いきや、なんと、安全保障の本まで書いています。安全保障の専門家が書いている本よりも、はるかに分かりやすく説明してくれているような気がします。こんどかならず読んでみます。読んでみて、これも分かりやすかったら、ここで紹介します。
〇不幸にして「文系バカ」の自分はどうすればいいのか?
高橋氏が頭がいいのは分かりました。そうすると、高橋氏が「文系バカ」と主張するのも理由があるということになり、「文系バカ」は役立たず扱いされる日も近いことになります。では、わたしのような「文系バカ」はこれからどうすればいいのか、ということがとっても重要になります。
時間がある人は、いまから勉強をしなおして、高橋氏のように数学科に進学して、「専門バカ」になればよいでしょう(笑)。しかし、それは誰もができることではない。数学科進学は極端としても、今からでも多少は理系的勉強をすることを高橋氏は勧めています。
わたしがこの本を読んだ感想としては、理系的勉強以外にも、高橋氏は「文系バカ」がすべきことを2つ提案しています。これはわたしはまず間違いないと思いますが、2つとも、それを実際にすること自体は難しくない。もしそれが実際できないとしたら、その人は「プライド」が高いのだとわたしは思います。「プライド」さえ捨てれば、「文系バカ」もこれからなんと名借ります。
〇 理系と文系の区別ってそもそも何なのか?
おそらく今もそうだと思いますが、文系、理系という区別に初めて出会うのは、高校生のときではないでしょうか?英語はどちらも共通で、文系を選ぶと、英語に加えて、国語、歴史、地理といった科目の勉強がメインになり、理系を選ぶと、英語に加えて、物理、化学、数学といった科目の勉強がメインになるという感じだと思います。
しかし、わたしもそうですが、別に「文系バカ」になりたいから高校生の時に文系を選んだわけではない。わたしが通っていた高校では当時、文系の方が圧倒的に生徒に人気があって、理系科目の先生が必至に理系の良さを生徒にアピールしていました。いま思えば、その先生の言うとおりにしておけばよかったと後悔します(笑)。
何が言いたいかというと、「そもそも、文系、理系なんていう区別は本当に必要なのか?」ということです。文系か理系を高校生に選ばせ、その結果、文系を選んだ生徒は数学をちゃんと勉強する機会を失ってしまい、それゆえその生徒が「文系バカ」になってしまうのであれば、こんな文系、理系という区別は生徒の役に立っていません。わたしの記憶では、もっぱら、大学受験の受験科目が文系学部か理系学部かでぜんぜん違うので、受験勉強を効率的にするために、当時、文系、理系で分けていたと思います。
いまは少子化のため、受験戦争なんて完全に過去の遺物になりましたし、それに、昔みたいに有名大学に入れば人生安泰なんて時代ではないんですから、受験のための勉強にエネルギーを注ぐのは無駄。むしろ、社会に出て生き抜く能力を身に着けるのが大事。ぜひとも「文系バカ」を生み出さないためにも、文系、理系なんて区別は廃止して、幅広くいろんな科目を勉強できるようにして欲しいと思います。
「こんな簡単でいいの?」と思ってしまうぐらい分かりやすく哲学を説明してくれる本
世界のエリートが学んでいる教養としての哲学(著者:小川仁志)、PHP文庫、2018年6月第1版第1刷、
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この本が取り上げる「哲学」とは「西洋哲学」のことを基本指します。哲学と言うと、たとえ理屈としては勉強した方が良いと思っていても、「ふだんの生活に役に立つのか分からないのに、なぜあんな難しいことを勉強する必要があるのか?」という疑問をもつ方も多いと思います。
わたしもこの本を読む前にそういう印象を哲学に持っていました。ただ、ものは試しということでこんかいこの本を読んでみましたが、その印象が必ずしも当たっていないああという感想を持ち、新たな発見を得ることができました。
〇 西洋人が何を考えているのかがわかる
べつに心理学の話をしているわけではありません。読心術みたいな話しではなく、西洋人のものの考え方のベースとなっているところが何なのか、ということを、この本で知ることができます。
この本からわたしが感じた西洋人の考え方のベースは、神と人間はぜんぜん別もので対立関係にあり、その上で、どっちが主役なのかということをめぐって、様々な哲学があり、哲学の発展があるのだなあと感じました。「神との契約」という言葉を聞いたことありませんか?「旧約聖書」、「新約聖書」の「約」とは「契約」のことです。
でも、こういうと、人間と神が別なんて当たり前ではないかと思うかもしれません。でも、日本ではそうではありません。人間が死ぬと神様になるというケースがあります。たとえば、菅原道真が死んだ後に神として祀られました。すべての人間が死んで神様になれるということはなく、ごく一部だとは思いますが、それでもあるわけですね。こは、日本人と西洋人の考え方がぜんぜん違うところだとおもいます。
〇 哲学がどう役に立つのか、そんな難しいこと考えて何のメリットがあるのかを感じることができる
「神と人間の契約」なんていわれてしまうと、ますます哲学が縁遠いものに感じてしまいますが、そんなことはありません。出発点は確かにそこですが、ただ、「神ではなく人間の認識が真理を決めるのだ 」という考え方が哲学において確立すると、では、「何を真理と考えればよいのか」という段階に、哲学の議論が進みます。
ここにおいて、哲学が私たちの生活に役立つ場面が出てきます。もちろん、「真理」を何と考えるかについて、答えはひとつではありませんし、現時点においても、これが答えであると決まっているわけではありません。
ただ、哲学を知ることの最大の利点は、「思わぬ気づきがある」、「言語化をしてくれる」ということだとわたしは思います。
「思わぬ気づきがある」というのは、「なるほど、そういう考え方や見方もあるんだなあ」という新たな体験のことです。それって「体験」ではなく単に「考え方」「見方」ではないかと思うかもしれませんが、わたしは「体験」だと思います。哲学によりこれまで知らなかった考え方や見方を得ることは、まさにそれまでと世界の見え方が変わることを意味します。これって、単なる頭の中の話ではなく経験の話しだと思いますので、「体験」という表現がぴったりです。
「言語化」というのは、それまで自分の頭の中で何となく思っていてたいわゆる「モヤモヤ」みたいなものを、哲学が明確に説明してくれることを指します。もし、目の前に哲学者がいてそう言ってくれたら「それそれ、わたしが言いたかったことは」と思わず言ってしまうような状態です。
〇 この本で、いろんな哲学を早分かりし、自分のお気に入りの哲学が見つかる
そうは言っても哲学は難しいというイメージはなかなか消えないと思います。でも、ご安心ください。この本は、二千数百年の哲学史を振り返り、ビジネスシーンに役立つ哲学を厳選して紹介しています。
さらにすごいのが、どの哲学についても、その哲学の内容さらには、ビジネスでどう役立てればいいのかを、たった2ページ見開きで説明してくれています。この本を読むと、たった2ページでその哲学を理解し自分のものにしてした気にさせてしまいます(笑)。「こんな簡単でいいの?」と戸惑ってしまいますが、とても不思議かつ、ありがたい本です。
どうでしょう、たった2ページなら読めると思いませんか?
わたしはこの本から、お気に入りの哲学を見つけることができました。それは、「上部下部構造」、「弁証法」、「否定弁証法」の3つです。つぎは、みなさんが見つける番です。